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写真で巡るDVD+R/RWフォーマット誕生の歴史

迷宮写真家が光ストレージ業界に足を踏み入れたのは1999年3月の事である。長年この業界に居る様な大きな顔をしていると言われる事も有るが、実はまだ10年にも満たない新参者である。尤も、IT業界ではDog Yearで数える故、10年も居れば大ベテランと言う事に成るのかも知れないが、プラスの部屋の面々の多くは業界では先輩だ。

めくるめくDVD+R/RWフォーマット誕生の歴史を迷宮写真家自らが捉えた写真で巡って見よう。

写真1:COMDEX(1999/11)3.0GB DVD+RWのBooth展示 迷宮写真家がこの業界に足を踏み入れた当時はDVD+RWの3.0GB版のフォーマットが完成し、世界初と成る3.0GB DVD+RW記録形ドライブDRX-101の商品化に向けた追い込みに入っていた。ライバルフォーマットで有るDVD-RAMは既に2.6GB版で市場参入していたが、記録容量の大きさで巻き返す意気込みであった。ところが、その年の夏頃であったと思うが、突然に4.7GB版DVD+RWフォーマットが浮上した。その為、商品レベルまで完成した3.0GB版DVD+RWドライブDRX-101はその年のCOMDEXへの出展を花道に市場に出る事無くお蔵入りと成った。

展示説明員として迷宮写真家もBooth(写真1)に立った。当時MSのTopだったBill Gates氏が顔を出したり、ミュージシャンのHerbie Hancock氏が質問をして来るなど興味を示していたのが印象に残る。

4.7GB DVD+RW関連の活動が本格化するまで半年ほど間が空く。

[EC/SC会議デビュー(2000/05)]

写真2:EC/SC会議(2000/05)歌舞伎座での主要メンバー達時は2000年5月、DVD+RW Allianceの旧財閥系総合化学会社のホスティングによるExecutive/Steering Committee(EC/SC)会議が東京で開催された。このEC/SC会議とは、DVD+RW 6C各社のExecutive代表者、即ち6社の役員クラス、とSteering代表者、活動の実行責任者クラス、が一堂に会する最高議決機関だ。プロモーション活動の担当者として迷宮写真家のEC/SC会議デビューだった。

EC/SC会議は会議終了後にホスト会社がExcursion Tourでもてなすのが慣例と成っていた。20人程ではとバスを借切り、歌舞伎座での一幕鑑賞や夜のお台場を巡った。写真2は歌舞伎座の前に集まったExecutive/Steering代表者の一部だが、ホスト会社のExecutive代表者は現在同社の総帥にまで上った人物。

[PC Expo Press Event(2000/06)]

写真3:PC Expo New York(2000/06)オレンジ色のマイクで話す迷宮写真家IT関連専門の展示会がまだ元気だったこの頃(2000年6月)、New Yorkで開催されたPC ExpoでDVD+RW Allianceとして記者会見(Press Event)を開催した。これが初めてのPress Eventで、Promotion担当であった迷宮写真家は、社を代表してDVD+RW Alliance6社の代表と共に壇上に立ちPressデビューを飾った。

写真3はIT関連の記者から受けた質問に答えているところだが、このとき受けた質問が何だったか正確には覚えていない。ステージ上にPCと共に何台かのDVDプレーヤがある事から、再生互換性に関する事であったように思い出される。

[第1回ISV Seminar(2000/08)]

写真4:第1回ISV Event(2000/08)DVD+R/RWの特徴は、CE(ビデオレコーダ/プレーヤ)とIT(PC等)両分野における相互互換性だ。即ち、PC等で作成したビデオ ディスクがDVDプレーヤやレコーダで再生出来るのは当然の事として、相互に編集や書換え/追記等も出来る様にする事だ。その為にはソフトウェアを作るIndependent Software Vender(ISV)にDVD-Video Formatと再生互換性のあるDVD+R/RW用Real Time Video Recording Formatで有るDVD+VRの技術を導入する必要があった。その為のイベントを2000年8月にサンフランシスコ市内で開催した。今ではISV業界も再編が進み会社数が集約されてしまったが、このときは日・米・欧から多数のISVが参加した。

[COMDEX 2000 Press Event(2000/11)]

写真5:リビング ルームのセット写真6:会場入口の派手な電飾迷宮写真家にとっては2回目のCOMDEXで有るが、DVD+RW Allianceとしては初めての参加であった。COMDEX会場のLas Vegas Convention Center(LVCC)ではなくCaesars PalaceのConference Centerに会場を設けてPress Eventを開催した。会場内には、CEとITの相互互換性をアピールする目的で、家庭のパソコン ルームとリビング ルームのイメージ セットを設け、DVD+RW Allianceのメンバーが実際の使い方を演じて見せた。写真5はリビング ルームのイメージ セットとそこでの演技の模様である。会場の入口にはLas Vegasらしく写真6のように派手な電飾が施された。20世紀最後を飾るイベントであった。

[EC/SC会議Noordwijk(2001/03)]

写真7:リンデン大学の講堂 迷宮写真家が参加した21世紀初の活動は、DVD+RW Allianceメンバーで有るオランダの大手電子機器メーカのホスティングによりオランダのリンデン市近郊のノードヴァイクで開催されたEC/SC会議だ。ノードヴァイクはオランダ王室オラニエ家縁のリゾート地である。会議が開催された会場はHotel van Oranje Golden Tulip Beach Hotelだった。

Excursion Tourは近郊のリンデン市内観光だった。DVD+R/RWフォーマット作成のリーダーシップを取ったホスト会社のエンジニアP氏の出たリンデン大学を訪ねた。ここは歴史のある大学で、卒業生が壁に署名を残す面白い部屋があった。そこには、件のP氏の署名の他、南アフリカの元大統領ネルソン マンデラ氏の署名もあった。しかし、マンデラ氏の履歴を調べても彼がリンデン大学を卒業したとの記述は見つからない。

写真8:CeBIT Press Eventメンバー各社が製品を展示

[CeBIT 2001 Press Event(2001/03)]

EC/SC会議が開催されたノードヴァイクからスキポール経由にてドイツのハノーバーに直接移動した。Press Eventだが、今回はDVD+RW Allianceメンバー各社が自社の製品を展示する。その為、迷宮写真家も自社のDVD+R/RW製品展示用に機材を抱えて行った。写真8はその様子で有るが、展示スタンドの間の奥に見えるテーブルは記者・アナリスト向けの食事用だ。欧米ではこの様なイベントで食事を提供するのは慣習だ。ドイツらしく、ワインとビールも用意されていた。

写真9:金門橋での記念撮影[第2回ISV Seminar (2001/05)]

2回目も引き続き場所はサンフランシスコだ。Seminarは盛況そのもので、既に市場にはパッケージ製品も出ており、活発な質疑も行われた。

Seminarの終わった夕方から、市内や金門橋などを見に行った。写真8はそのときの記念撮影で、右端の女性は案内役を買って出てくれた西海岸ベースの大手ISVに勤める日本人スタッフ。その左側が迷宮写真家だ。この後、夕食に案内してくれた創作中華のカニ料理が印象に残る美味しさだった。

[PC Expo Press Event(2001/06)]

New YorkのPC Expoはこれが2回目だが、光ディスク以前に担当していた屋外用大型映写真10:Hank Jones(Piano)Joe Lovano (Sax) at Bird Land像表示装置時代に、Times Squareに一台設置されていた事も有り、Central Park以南のManhattanはある程度勝手知った地域だった。迷宮写真家がオーディオ フリークであることは「デジタル オーディオは光ディスクから始まった。」で気付かれていると思うが、実はJazzには目が無い。以前にもNew YorkのManhattanを訪れる都度、Iridium、Blue Note、Fat Tuesdayにライブを聞きに行っている。JFK着が18時少し前で、宿がBird Landまで歩いて10分ほどのTime Squareと好条件であった為、DVD+RW Allianceメンバーで有る楽器やバイクもやって居る音響メーカの仲間を誘い、到着当日21時からのHank Jonesを事前に国際電話で予約しておいた。

当日、JFKへの到着が1時間ほど遅れてしまい、万事休すではあったが、何とか開演にぎりぎり間に合い、満喫したのが写真10のステージだ。当日は、ゲストでサックス奏者のJoe Lovanoも出演し、見事な演奏だった。

[EC/SC会議鎌倉(2001/06)]

写真11:鎌倉大仏での記念撮影DVD+RW Allianceメンバーでデジカメもやって居る日本のOA機器メーカのホスティングにより、不倫を題材に一世を風靡したテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」(金妻)の舞台ともなった、鎌倉プリンスホテルで行われた。斜面を斜めに登るエレベータ(?)が印象的な建築だ。

Excursion Tourはバスを貸しきっての鎌倉市内観光だった。写真11はお決まりの鎌倉大仏の前での記念撮影。生憎の雨だったが、それが幸いして人出が少なくゆっくりと堪能で来た。

[EC/SC会議Berlin(2001/08)]

写真12:カイザーザールでの記念写真 いよいよ我社がホスティングする番と成り開催地を検討したが、往々にして“世界の~”と形容される手前安易に国内開催は出来ない。そこで、案を巡らし、ドイツ ベルリンの再開発地域で有るポツダマー プラッツに完成し“ベルリンにおける近代建築の最高峰の一つ”と称えられる複合センターにある欧州オフィスに決定した。場所はブランデンブルグ門に近く、冷戦時代には“ベルリンの壁”で分断されていた地域だ。

この頃のテレビはまだブラウン管が主流で、このセンター建設の為に多くのガラスが使われたことで世界的にブラウン管用のガラスが不足したとの噂が流れたほどだ。欧州オフィスのエレベータは床までもがシースルーのガラスだった事が印象に残る。

総ガラス張りのこのセンターには、戦前のベルリンを代表するホテル「エスプラナーデ」に残されていたカイザーザール(皇帝の間)が保存されて居る。Excursion Tourでは、このときまだ一般には公開されていないカイザーザールを含むこのセンターの特別見学コースを組んだ。写真12はそのカイザーザールでの記念の一枚。

写真13:IFA Press Event会場[IFA Press Event(2001/08)]

IFAは2年毎奇数年に開催される事から、2001年はDVD+RW Allianceがフォーマット プロモーション活動を開始後初の開催であった。前項のEC/SC会議は場所と時期をIFAに合わせてもいる。

DVD+RW AllianceはIFAに初参加と言う事も有り、Press Event会場は写真13のように立ち見が出るほど盛況であった。

[COMDEX 2001 Press Event(2001/11)]

写真14:COMDEX Press Event会場3回目のCOMDEX参加となった。この頃に成ると11月はLas Vegasと言うのが定着してきていたが、IT主体の展示会で有るにも関わらず今回はマイクロ ソフトが出展しないと言う事態がおきていた。“寂れはじめると3年で消える”と言う展示会業界のジンクスが有り、4年後にそれが真実となる。

Press Event会場は今回もCaesars PalaceのConference Centerに設け、DVD+RW Allianceメンバー各社が自社の製品を展示した。

[EC/SC会議Las Vegas(2001/11)]

写真15:ローマン マジック ショーCOMDEXにタイミングを合わせ、DVD+RW Allianceメンバーでフランスに本社を置く総合電子機器メーカのホスティングでEC/SC会議が開催された。Excursion Tourはディナーを兼ねたCaesars Palaceでのローマ時代を模したショーであった。ローマの戦士に案内されたローマ時代の宮殿よろしく装飾された個室でのディナーでは、ウェイターなどもローマ時代の服装で給仕し、そこに入れ替わり立ち代りマジシャンが登場して写真15のような奇術を見せてくれる。食事の後はシアターに移動し、ステージで各種マジックが演じられた。

[CES Press Event(2002/01)]

展示会の主流がITからCEに移りつつあるため、年明け早々に再度のLas Vegas詣でをして、始めてCESに参加した。会場は何時ものCaesars Palaceで、Press Event会場を写した写真写真16:CES Press Event会場16を見て分かる通り、COMDEXでの機材を流用した。ただし、内容はCE中心の展示会である事を意識し、CEとITの相互互換を訴求する為に、家庭のPCルームやリビングを再現しての展示が行われた。尤も、これとて2年前のCOMDEXの二番煎じでは有ったが、展示した製品の進歩もあり好評であった。

[CeBIT 2002 Press Event(2002/03)]

写真17:ヘレンハウゼン王宮庭園CeBITへの参加はDVD+RW Allianceとして慣例化して来た。この展示会が開催されるドイツのハノーバー市は都市の規模からすると巨大なイベント会場を有して居り、各種展示会などのイベントが主要産業の一つと成っている。中心部には総ガラス張りのモダンなビルも見かけるが、欧州の都市らしく歴史有る建造物も多く残っている。新市庁舎などは大変美しいゴシック建築で、市のシンボルとなっている。このときは、市の中心から北西方向にある“ヘレンハウゼン王宮庭園”を訪れた。初期バロック様式の幾何学模様の美しい広大な庭園だ。

[EC/SC会議Austin(2002/04)]

写真18:蝙蝠を求めて貸切リバー クルーズDVD+RW Allianceメンバーで、創業以来直販でPC業界を席巻して来た最大手の一つであるPCメーカのホスティングによりテキサス州の州都で有るオースチンで開催された。迷宮写真家は「初めての海外渡航(その2)」で書いたように、テキサスに住んでいたことがある。その当時、オースチンを訪れた事があったが、40年経っても町の中心街に大きな変化がある様には感じられない長閑な場所だ。

Excursion Tourはボートを貸切ってLake Austin川のディナー クルーズだった。このクルーズの主目的は、夕方暗くなるとえさを求めて一斉に飛ぶ何万匹と言う蝙蝠の大群が空にたなびく帯のようになる珍しい光景を見ることだ。先日、同様の光景を求めてメキシコに取材したテレビ番組があったが、生で見たためかAustinの方が規模も大きい様に感じられた。写真17はボート談笑する会議参加者達。

[EC/SC会議東京(2002/07)]

写真19:屋形船貸切クルーズEC/SC会議のホスティングも一巡し、再度DVD+RW Allianceメンバーで有る旧財閥系総合化学会社のホスティングにより東京で開催された。会議は丸の内本社の役員用特別会議室で行われ、終了後のExcursion Tourは風流な屋形船を貸切っての東京湾クルーズだった。船内は冷房も効き、欧米からの出席者も含め皆でカラオケを楽しんだ。前回のAustinに引き続き2回目の貸切ボート ツアーであった。

写真20:3rd AP Seminar[3rd AP Seminar東京(2002/07)]

2001年3月の開始以来、早3回目を迎えた。日本国内向けフォーマット プロモーションが主目的のイベントで有るためプレゼンテーションは日本語で行われるが、台湾や香港からも参加が有り、初回から英・日双方向の同時通訳サービスを設けて行われている。

写真20はセミナー会場の様子で有るが、広い会場がほぼ満席と言う盛況ぶりで、DVD+R/RWフォーマットへの業界の関心の高さが伺える。

写真21:COMDEX 2002 Booth[COMDEX 2002 Booth(2002/11)]

COMDEXへの参加はこれで4回目と成るが、DVD+RW Allianceとして初のShow FloorでのBooth出展を行った。メンバー各社が自社のDVD+R/RW製品を展示するスタンドをBooth内に設け、DVD+R/RWフォーマットの優位性を訴求した。写真21は世界初のコンボドライブを訴求するS社のスタンド。

写真22:ジョディーとのツー ショット[EC/SC会議Las Vegas(2002/11)]

11月のCOMDEXに合わせてEC/SC会議はLas Vegasでの開催が定着したかの感は有るが、今回はアメリカの名門ITメーカのホスティングだ。恒例のExcursion Tourはマダム タッソーの蝋人形館を貸切ってのディナーと館内自由見学だった。20名足らずで貸切のため、館内にはほとんど人気が無い状態で、ノビノビ気ままな見学だった。写真22は偶然居合わせたハリウッド女優のジョディー フォスターと迷宮写真家のツー ショットだ。大女優なのに写真撮影に気さくに応じてくれた。ジョディーの額のテカリが少々気に成るかな。

[CES Press Event(2003/01)]

写真23:CES 2002 Press Event松の内が明けるとCES参加のためにこの年もLas Vegas詣でだった。前年までのCESにおけるPress EventはCES会場のLas Vegas Convention Center(LVCC)とは別にホテルに会場を借りての開催で有ったが、この時はLVCCのConference Roomで行った。相変わらずの盛況だ。

写真24:EC/SC会議お台場[EC/SC会議東京(2003/02)]

東京での開催だが、ホスティングはDVD+RW Allianceメンバーで楽器やバイクもやって居る浜松の音響メーカだ。開催地は東京と言っても少々トレンディーなお台場のホテル。会議は2日間で、自宅から通えない場所ではなかったが、あえてホテルに一泊した。初日の夜にホテルのレストランでディナーが有ったのは覚えているのだが、このときのExcursion Tourは何故か印象に残っていない。

[CeBIT 2003 Press Event/Booth(2003/03)]

写真25:Press Event3回目のCeBIT参加に成るが、COMDEX 2002に引き続き2回目のBooth出展を行った。また、マイクロソフトによるDVD+R/RWフォーマット写真26:CeBIT 2003 Boothロビン ウィリアムズのそっくりさんサポートが発表された直後であった為、Press Eventも合わせて行われた。Press Eventでは写真25のように製品展示も行った。Boothには、客寄せを目的にLas Vegasからロビン ウィリアムズのそっくりさんで有るRockin’ RobinことMichael Claytonを連れてきて活躍してもらった。写真26はRockin’ Robinと迷宮写真家のツー ショット。

[4th AP Seminar京都(2003/03)]

写真27:AP Seminar京都初回から3回続けて東京で開催した事も有り、4回目は京都での開催と成った。実は、ライバルフォーマットの本拠地で有る大阪開催も検討されたが、大人の態度を取っての京都でもある。満開の桜を目論んでの日程で有ったが、残念ながら一週間早かった。

[WinHEC 2003 New Orleans(2003/05)]

写真28:マルディグラ ショップマイクロソフトによるDVD+R/RWフォーマット支持表明を受け、Windows Hardware Engineering Conference(WinHEC)にBooth出展した。場所はDeep Southで、Jazzで有名なNew Orleansだ。Booth出展するのでDVD+RW Allianceのスタッフは全員無料で参加できるものと思っていたら、何とBoothあたり無料は2名まででUS$1,000ほどの参加費を払わされた。お土産としてWinHECロゴの付いたデイパックやキャップ、Windows関連のCD-ROMを一杯もらったが、とても元が取れるものでは無い。

市内の観光名所French Quarterでは通りでJazzの生演奏が行われ、有名なお祭りのマルディグラをテーマにした独特な雰囲気の店などもあった。

ハリケーン カトリーナにより壊滅的は被害を受ける2年前であった。

[EC/SC会議Amsterdam(2003/06)]

写真29:豪華運河ツアーDVD+RW Allianceメンバーで有るオランダの大手電子機器メーカの2回目のホスティングによりAmsterdamで開催された。Amsterdamは同心円と放射状に運河が無数に市内を流れ、車での移動は渋滞が多くあまりスムーズでは無い。観光客にはこの運河を巡るボート ツアーが結構人気となっている。迷宮写真かも過去何回かのAmsterdam訪問で運河ツアーを経験している。

今回、ホストによるExcursion Tourはこの運河ツアーで有ったが、結構豪華な貸切ボートによる食事をしながらの優雅なツアーだった。行程はおおよそ3時間ほどに及ぶ物で、主要な名所は勿論のこと通常のツアーでは行かないような目ずらし場所も行くことが出来、印象深い物であった。

[IFA Booth(2003/08)]

写真30:IFA 2003 BoothいよいよIFAもBooth出展となった。IFAの会期中合わせて10日間ほどBerlinに滞在する事になり、そのおかげでBerlin市内を2年ぶりに堪能する事ができた。Berlinの旧西側の中心街の主だったビルの地下には東西冷戦時代に作られた核シェルターが有り、普段は駐車場として利用されて居るものが多くある。その内の一つに見学コースが有り、見る機会があった。収容できる人数に制限があるために定員になり次第入口を閉める必要が有るそうで、無理やり閉めても人を挟み込まない工夫がされた分厚いコンクリートのドアを今でも思いだす。

このときのBoothでは、ブルー バックのコーナーが設けられ、来場者を色々な背景にスーパーインポーズで取り込みDVD+Rに焼いて配布した。

[SC会議横浜(2003/10)]

写真31:C&WライブExecutiveを省いたSteeringのみによる会議がDVD+RW Allianceメンバーでデジカメもやって居る日本のOA機器メーカのホスティングで、横浜の港みらい地区で開催された。この様な会議もEC/SC会議の合間に何回か開催された。Excursion Tourと言う程ではないが、工夫が凝らされたレストランでのディナーがホストにより催され、この時はカントリー アンド ウエスタンのライブを聞きながら料理と酒を堪能した。

[Replication Expo上海Booth(2003/11)]

写真32:RepliTeck 2003DVD+RW Allianceも中国進出と成った第一歩の記念すべきEventがこのReplication Expoだった。迷宮写真家の会社が幹事役を勤めてBooth出店を行ったが、上海に会社の現地拠点があり、サポートが得られたのは幸いだった。

写真33:KABA.ちゃんAgentに日本の二大広告代理店の一社HH堂の現地事務所を使ったが、看板のスペルミスなどの訂正が大変だった。Event開催5日前に現地入りしてようやく何とか成る状況。経費をケチって現地Agentなどを使っていたらどう成って居たことか。上海は今や有数の近代都市だが、あちらこちらにギャップが残っている。

日曜日、少々早めの昼食を取りに豫園に有る有名な小籠包のレストラン「南国饅頭店」に行った。人気店のため普段は現地の人達で長蛇の列と聞いていたが、時間が早めのためかすんなりとテーブルに案内された。テーブルの近くにはテレビ取材の一団が居り、隣のテーブルを見ると見覚えの有る顔が有った。タレントの“KABA.ちゃん”(写真33)だった。日本の正月番組の取材であった。

[CES Press Event/Booth(2004/01)]写真35:BoothのDisc展示 写真34:CES Press Event

“KABA.ちゃん”の上海取材正月番組を見た翌日、まだ松の内に恒例となったLas Vegasに向かった。従来からのPress Eventに加え、CESでは初めてと成るBooth出展だ。Press Eventは常設ホールのConvention Centerで行ったが、Boothは参加申込みが遅かった為にNorth Hall正面駐車場に特設されたエアー ドームのSilver Pavilionでの出展だった。写真35はBoothに展示したDVD+R/RW Discを紹介する迷宮写真だ。

[第1回上海Seminar(2004/03)]

写真36:上海 豫園現地の政府系業界団体をパートナーとして関係者向けのSeminarを開催した。郷に入っては郷に従えというが、中国では定刻にこの様なEventは始まらない。そもそも、人の家に招かれたときも時間通りに行くのは失礼なのだそうだ。Seminarはほぼ30分遅れで、何事も無かった様に始まり、その分遅れて終わった。英語から中国語への同時通訳を介してのSeminarだが、果たして正しい内容が伝わって居るのか、一抹の不安が有った。と言うのも、迷宮写真家は中国の開放政策が始まる以前の時代に中国からの技術研修生にビデオの講習をしたことがある。この時は、現地から同行して来た通訳が日本語と中国語双方向の通訳をしてくれたが、ビデオ フォーマットの話をしているときに研修生が怪訝な顔をするので確認すると、ビデオ トラックを車の“トラック”と通訳していたからだ。この時はその様な事は無かったと信じたい。

このときも“豫園”を訪れた。南国饅頭店は長蛇の列で、諦めた。

[CeBIT 2004 Booth(2004/03)]写真37:二階建Booth

Booth運営も手馴れてきた事も有り、二階建ての巨大なBoothに発展した。二階部分は事務所と応接が設置され、記者の取材応対などに利用された。

写真38:ミュンヘン ハーレドイツと言えばビールである。巨大な会場内には独立したこれまた巨大なビアホールの“ミュンヘン ハーレ”がEvent期間中毎日開店している。CeBIT閉会後そのままホテルに帰るのもさびしいもので、何と無く誘い合わせて“ミュンヘン ハーレ”に足が向く。中に入ると巨大なホール全体が一体となって盛り上がっている。詳しくは、ハマのビール瓶の部屋の「第1回ハマのビール瓶」で詳しく紹介されて居る。

[EC/SC会議Culver City(2004/04)]

我社に二回目のホスティングが回って来た。YAZAWAにもテレビで“世界の~”と形容される手前安易な開催地は選べない。そこで、グループ企業のひとつで有る映画会社のCulver City撮影所に場所を確保した。これでDVD+RW AllianceもいよいよHollywood進出だ。

EC/SC会議その物は撮影所正面に位置するこの映画会社本社ビル内の“Atrium”で行写真39:Culver City Studioった。Excursion Tourは当然Studio Tourだ。この撮影所は本当に稼動している為、ユニバーサル スタジオの様な観光客向け常設見学コースは無い。実際に編集作業をしているサウンドステージやDVD-VideoのAuthoring Studioなどを見ることが出来た。締め括りは、スタジオ内にある歴史的なレストラン“Rita Hayworth Dining Room”でのディナーだった。このレストランは、撮影所で撮影された映画に出演した歴代のHollywood Starたちが食事をしたところで、内装も昔のまま。“ハンフリー ボガードが何時も座ったテーブル”などが残されている。また、このディナーをコーディネートしてくれたプロデュサーはこの年のアカデミー賞でのディナーを担当したプロ中のプロだった。今では特別なEventでしかこのレストランは使用されない。

[5th AP Seminar 東京(2004/05)]

写真40:5th AP Seminar展示第5回目は再び東京での開催だった。このSeminarの対象は業界関係者で有るが、雑誌や新聞などのマスメディアの取材や業界アナリストや評論家も出席する事も有り、アライアンス メンバーによる製品や技術展示コーナーを設けるようになった。

写真41:1st台北Seminar[1st台北Seminar(2004/06)]

日本で開催するAP Seminarには台湾を初め広くアジア圏からの参加が有る。光ディスク業界での台湾の存在が大きくなったことも有り、台湾の工業技術院(ITRI)をパートナーとして台北Seminarを開催する事と成り第1回を実施した。

Seminarの後はお決まりのReceptionを開き大いに親睦を深めた。

[EC/SC会議Paris(2004/10)]

写真42:モナ・リザとのツー ショットDVD+RW Allianceメンバーでフランスに本社を置く総合電子機器メーカ二回目のホスティングで開催されたEC/SC会議はお膝元のParisだ。シャンゼリゼ通りの凱旋門近くを横手に入ったところにあるHotel Californiaで会議は行われた。何故ParisでHotel Californiaなのかは分からないが、歴史を感じさせる建物で、客室への廊下の壁は絵画で埋め尽くされていたのが印象に残る。

Excursion Tourは“ルーブル美術館30分ツアー”だったが、ホテルから美術館へのバスが有名な“パリの渋滞”に引っかかり到着が15分遅れたため、美術館閉館までの15分ツアーと成った。本当に駆け足で美術館内を移動し、ミロのビーナス・サモトラケのニケ・聖母子等名だたる作品をポイントで回り、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザに閉館間際にたどり着いた。基本的にルーブル美術館内での写真やビデオの撮影に規制は無いが、最近混雑を理由にモナ・リザの前だけ規制されるように成ったと聞く。この当時その様な規制はまだ無く、写真42は迷宮写真家とモナ・リザの貴重なツー ショット。

[World PC Expo 2004東京(2004/10)]

写真43:世界はPlusを求めてる日本国内の展示会へのBooth出展はこれが2回目だった。初回のWorld PC Expo 2003の時、迷宮写真家は社の別のMissionでGenevaに出張して参加出来なかった。欧米のCESやCeBITでのBoothは製品を展示して見せる物で有ったが、国内では初回から“アライアンス劇場”と称してステージとプレゼンテーションで抜群の集客を誇っていた。それが伝統と成り継続して来た。

この年のステージは、ミュージカル“世界は愛を求めてる”のテーマ曲を倍のアップテンポで歌い踊るダンサーチームによる寸劇となった。リピーターのカメラ小僧まで表れる人気であった。

[第2回上海Seminar(2004/11)]

写真44:第2回上海Seminarスピードが勝負と言う事もあり、3月に引き続き、早くも第2回目の上海セミナーを行った。分かり易いプレゼンを行う為に、World PC Expoで行ったライブでのDVD+R 16xの記録デモを取り入れた。プレゼンの頭で記録をスタートさせ、その画像を背景に説明を行うというもので、迷宮写真家と相方での掛け合いである。7分ほどで4.7GBのDVD+Rが書き上がるこのプレゼンテーションは、実にリアリティーが有り分かり易い物だったと今でも自負している。

[CES Press Event (2005/01)]

欧米地域への普及が有る程度進み、実ビジネスでの更なる普及段階に移行した事を受け、CESにおける活動は再びPress Eventに戻った。この年はCESの初日にPress Eventが設定された為に、正月三が日明けの4日にLas Vegas入りだ。

写真45:Lawry’s Las Vegas迷宮写真家はギャンブラーではないので、Las VegasでのOffの楽しみはShowとDinnerだ。Las Vegasには有名なShowが幾つも有るが、CESなどの大きな展示会開催期間中は休みになる事が多く、今までなかなか観る機会が無かった。この時は、会社の定宿で有るBally’sの伝説的なレビューであるJubileeの券を同行した仲間が入手してくれた。客席最前列ステージの被り付きで踊り子さんの衣装の羽飾りが飛んでくる最高の席で堪能した。

Las Vegasに来た時には必ず一回はDinnerに行くプライムリブの人気店Lawry’sでの一こまが写真45だ。この分厚いRawのプライムリブの一切れは格別だ。赤坂に東京店が有り行ったことが有るが、そのときはBSEでアメリカン ビーフ輸入禁止のときで代わりにOGビーフが使われていた。本場の味とは少々違っていたので、輸入が再開された今再度行って見ようと思う。

[CeBIT 2005 Press Event(2005/03)]

写真46:CeBIT Press EventCeBITもこの年から再びPress Eventに戻った。今までもこの様なPress Eventで迷宮写真家はプレゼンテーションを行っているのだが、たまには仕事をしている姿をお目に掛けよう。写真46は迷宮写真家が取材に集まってくれた記者団を前にプレゼンテーションを行っているところだ。この時は開発中のDVD+R DL8倍速規格の進捗と概要が中心だった。

[EC/SC会議Austin(2005/04)]

写真47:水陸両用車“Duck”DVD+RW Allianceメンバーで、創業以来直販でPC業界を席巻して来た最大手の一つであるPCメーカの2回目のホスティングでの開催だ。開催地はお決まりのテキサス州の州都で有るオースチン。

Excursion Tourは軍用水陸両用車を改造した“Duck”(写真47)を貸切ってのオースチン市内とLake Austin川のShort Cruiseだ。まずは陸上からの出発なので、乗車時に黄色いアヒルくちばし形の笛を全員がもらい、市内観光中通りかかる通行人に挨拶代わりに皆で“ガ~ ガ~”と吹きまくった。

[2nd台北Seminar(2005/06)]

フォーマット プロモーション活動の中心はアジア圏に移り、2回目の台北セミナーが開催された。

写真48:海鮮中華の露店台湾は周囲を海に囲まれている事も有り、海産物が新鮮で美味しい。同行仲間に台湾通が居り、行き着けの見掛けは汚いが安くて美味しい安全な店に連れて行ってくれた。そこは、店の前にその日仕入れられた海鮮食材が陳列されて居り、好みの食材を選び料理方法を指定して料理してもらうように成っていた。ビールなどの飲み物も客が勝手に冷蔵庫から出して飲み、後で本数を数えて清算するといういたって気さくなところだ。この後も訪問の都度何回か行って楽しんだのだが、昨年(2007年)秋頃に行って見ると店が無く成っていた。美味しかっただけに実に残念だ。

写真49:6th AP Seminar[6th AP Seminar東京(2005/07)]

AP Seminarも6回目を迎えた。迷宮写真家はこの回の“オープニング スピーチ”を担当した。写真49は受付の風景で有るが、同時通訳用のレシーバなど国際会議の雰囲気が窺えると思うが如何だろうか。

[World PC Expo 2005東京(2005/10)]

写真50:ステージ ショーDVD+RW Allianceとしては3回目のWorld PC ExpoにおけるBooth出展となった。開催の主管がDVD+RW Allianceメンバーでデジカメもやって居る日本のOA機器メーカから我社に代わったが、基本コンセプトで有る“アライアンス劇場”は健在だ。テーマは「二層DVD+Rの時代がやってきた!」で、大道芸人の“バーバラ村田”と“ホーリー”両パーフォーマーのステージ ショーでBoothを盛り上げた。

DVD+R/RWの素晴らしさを来場者に直に体験してもらう目的で、DVD+R/RW製品の抽選会を毎ステージ行い、最終日にはDVDレコーダの“スゴ録”までプレゼントされた。このBoothの様子はDVD+RWアライアンスのWebsiteの“DVDはプラスが良いでSHOW”(動画)でご覧いただける。

[OVC Expo Briefing武漢(2005/11)]

写真51:OVC Expo武漢中国の武漢は“Optics Valley”と呼ばれ、中国政府がレーザと光ストレージの研究拠点として武漢大学を中心に推進している地域だ。第4回OVC(Optics Valley of China) Expoの次世代光Discに関するInternational ForumにDVD+RW Allianceが招待され迷宮写真家がプレゼンテーションを行った。写真51はForum参加者の前でプレゼンをする迷宮写真家だ。

武漢は大都市だが、この当時は東京から直行便が飛んでいなかった。その為、北京経由で中国の国内線に乗り換えての往復だったが、復路でひどい目に遭った。中国の国内線が時間通り飛ばないのは当たり前のようで、武漢から北京も例外ではなく、遅れに遅れたため北京からの乗り継ぎ便に間に合わなかった。乗り継ぎ便のカウンターには人影は無く、航空会社の事務所を探し当て何とか成田行きの最終便に乗れた。旅なれた迷宮写真家であったから何とか成ったようなものだ。

[1st香港Seminar(2005/11)]

写真52:1st香港Seminarいよいよアジア圏における3箇所目の拠点として香港でSeminarを開催した。香港を拠点とするDisc Mediaメーカの多大なる協力により香港の政府系業界団体をパートナーに開催する事ができた。ご存知のように、アジア圏には“偽物”のDVD+R/RW Discなどが多く出回って居り、これらに対する牽制を目的に香港税関から取締りを担当する部署のトップによるプレゼンテーションも交えての開催であった。

Seminar終了後、中華料理を楽しみ、アライアンス チームは連れ立ってヴィクトリア ピークで百万ドルの夜景などを堪能した。

[東莞Seminar(2005/11)]

1st香港Seminarの翌日、そのまま香港から車2台に分乗して陸路で中国本土とのBorderを渡って珠海デルタ地域の東莞にアライアンス一団は移動した。ここで言う“Border”は国境では無い。一国二制度を取る中国の香港と本土を分ける境界のことだ。この陸路での移動に関しては「迷宮写真家の部屋 その1 世界の交通事情『東莞(トンガン)への道』」に詳しく書いてあるので、興味のある方は参照されたい。

写真53:東莞Seminar東莞Seminarは第3回上海Seminarのような物で、同じ現地パートナーで場所を東莞に移しての開催だ。Seminarでプレゼンテーションと共にデモを行う為の機材を現地パートナー宛に大手のCourier Serviceで香港への出発前に日本から送り出しておいたのだが、会場に届いていなかった。パートナーの担当者に確認してもどうもはっきりしない。根掘り葉掘り問い正すと、税金をケチる為に通関前の段階でCourier Serviceから引き取ってしまい通関できずに引っかかっていることがわかった。結局この機材は通関できず使うことが出来なかったが、バックアップとして香港経由でハンドキャリーした物があったので事無を得た。

[1st India Seminar(2005/12)]

2005年の最後を飾る圧巻はついに実現したIndia Seminarの第1回だ。このEventは構想から実現までに約一年を要し、夏の真っ盛りに現地に事前調査にまで赴いた。実現には今や世界最大となったインドの光Discメーカの日本支社長を勤めるMickの部屋の住人の絶大なるサポートがあったことは言うまでも無い。感謝の一言だ。

初回開催は首都のデリーで、インドのソフトウェア業界を牛耳るインド最大の業界団体をパートナーに開催した。セミナーは盛況で、来場者の中にはターバンを巻いた人も居り実にインドらしい雰囲気であった。また、Seminarとは別に、開催に協力してくれたインドの光Discメーカのエンジニア向けに技術講習会も開催した。

写真54:タジ マハルにてはるばるインドまで来てインドを知らずに帰る手は無いと言う事で、世界遺産のタジ マハルを見るためにインドの光Discメーカがデリーからアグラまで車を仕立ててくれた。アグラまでの道はローラーコースターのようにスリリングであった。その詳細は「迷宮写真家の部屋 その1 世界の交通事情『アグラへの道』」に詳しく書いてある。写真54はタジ マハルでのDVD+RWアライアンス チームだが、既に何人かはインドの魔力に取り付かれてしまったようだ。

[Board会議Miami(2006/02)]

DVD+RW Allianceメンバーでデジカメもやって居る日本のOA機器メーカ三度目のホスティングにより、同社としては初の海外での開催で、場所はMiamiだった。実は、場所選定の相談を受けた迷宮写真家が提案して決まったのであった。Miamiと言うと夏のイメージだが、実は冬の避寒地として有名なリゾート地だ。その為、このBoard会議はホテルの確保に苦労したと聞いた。

写真55:Miami Beach迷宮写真家は過去に数回仕事でMiamiを訪れているが、初めて訪問したのも冬場の1月だったと記憶している。そのときも結構暑く、のどが乾いたのでビーチのバーで初めて“フローズン マルガリータ”を飲み感激した。また、Miami近郊の海でした獲れないStone Crabが格別な美味で、10月~翌5月のシーズンしか食べる事ができない貴重品だ。当然このときもSouth Miami Beachにある有名なJoe's Stone Crab Restaurantに皆で繰り出した。

写真55は会議の休憩中にテラスでの一こまだ。背景のビーチとえもいわれぬ海の色が魅力的だ。

[7th AP Seminar東京(2006/06)]

写真56:Website披露7回目のAP Seminarは、このWebsiteのリニューアル オープンを披露した記念すべき回であった。Websiteのリニューアルは、双子美人姉妹の姉、A女史の貢献により実現した物で、その功績を称えプレゼンテーションとWebsiteのお披露目をしてもらった。写真56がリニューアル オープンしたWebsiteを披露するA女史だ。これは彼女のステージデビューでもあった。

前年(2005年)のWorld PC ExpoのDVD+RW Alliance Boothに妹さんが来てくれ、姉妹揃った写真があるが、そっくりで見分けが付かない程だ。

[3rd台北Seminar(2006/07)]

台北Seminarも3回目を数える事と成った。

写真57:3rd台北Seminarこの回の主目的は、2002年から日本で開催してきた互換性改善活動で有るDCCG-RG(DVD+RW Compatibility & Convergence Group - Recorder Group)に台湾の中小メーカも参加できる様、台湾ローカル活動の立ち上げにあった。その為にSeminarには台湾の業界紙や専門誌の記者も招き記事として取り上げてもらった。成果はこの10ヵ月後の2007年4月に実った。

写真58:Board会議[Board会議Eindhoven(2006/09)]

DVD+RW Allianceメンバーであるオランダの大手電子機器メーカの会議室で開催された。主な議題は、ネットワークでのコンテンツ ダウンロードに対応したフォーマットをどうするかであったと記憶している。写真58はその会議での白熱した議論の様子を写した貴重な一枚だ。

[2nd香港Seminar(2006/11)]

写真59:2nd香港Seminar香港Seminarは初回に引き続き11月の開催であった。この時期の開催は他のEventとの都合も有るが、やはり上海蟹のシーズンを選んでいることに変わりは無い。

写真59はSeminar関係者の記念写真で有るが、Seminar終了後関係者で連れ立って海鮮中華を堪能しにレイユームンに皆で繰り出した。

[Board会議長崎出島(2006/11)]

写真60:大浦天主堂にてDVD+RWフォーマット作成活動が始まったのは1996年の初め頃で、このBoard会議は10周年記念の意味を込めてDVD+RW Allianceメンバーであるオランダの大手電子機器メーカが長崎の出島で開催した。何故に長崎の出島かに関しては迷宮写真家の部屋の「エスニック長崎」に詳しく有るのでそちらを見ていただきたい。

[2nd India Seminar(2007/05)]

写真61:2nd India Seminarインドを初めて訪れた人の感想は両極端だ。方や「二度と来たく無い」と「何度でも来たい」だそうだ。どうも迷宮写真家は後者のようで、2回目のインドSeminarを実現してしまった。

二回目の開催地をインド商業の中心地ムンバイ(ボンベイ)と定めた。現地でのサポートは初回と同じく世界最大のインドの光Discメーカだが、社員の離職が頻繁なのはインドの国民性のようで、初回にサポートしてくれた現地メンバーは誰もいなかった。その為、一から教えなおしと言う事とコミュニケーションの問題から当初2月開催が土壇場で日程を変更せざるを得なくなった。その為、準備期間は初回よりも長くなってしまった。

会場は五つ星ホテルのBallroomを使うのはセキュリティー上の理由から当然の事で有るが、過日(2008/12)発生したムンバイ(ボンベイ)の無差別テロにはぞっとした。テロリストに占拠されたタジ マハル ホテルもトライデント ホテルも会場の候補地として訪れた事のあるところだったからだ。街は日中喧騒に包まれているが決して治安に不安を感じるようなところではなかった。日本人は“水と安全はタダ”と思っている人が未だに多いようだが、“自分の身は自分で守る”を心がけようと内心誓った迷宮写真家である。

駆け足でDVD+R/RWフォーマット誕生の歴史を写真と共に眺めてきたが、如何であったろうか。迷宮写真家も我ながら良くこれだけあちらこちらに出向いてプロモーション活動をしたものだと感心した。

では、何れまた何処かでお目にかかる機会までお別れだ。去らば。

迷宮写真家

▼▼以前の記事はこちらからご覧ください。
迷宮写真家の部屋 その1 世界の交通事情

迷宮写真家の部屋にようこそ。
DVD+RWアライアンスの仕事をしていると、その性格上どうしても海外出張は多く、世界各国を訪問するチャンスに恵まれます。しかし、それは人が羨む観光旅行では無く、あくまでも仕事としての出張で、多くの場合は空港・ホテル・仕事場位しか訪れる事が出来ません。にもかかわらず、迷宮写真家は常にカメラを持ち歩きます。シャッターチャンスは常に移動中に見つかります。

『東莞(トンガン)への道』
東莞でのセミナー開催決定の知らせを受けたとき、それが中国で有る事は直ぐに分かっても一体何処に成るのか見当が付きませんでした。地図で調べると、どうも香港から大陸へ200キロほど入った所に有るらしい事と、空港は無く飛行機の場合は広州または深■(シンセン ※■は土へんに川)の空港に成るらしい事がわかりました。何れの空港からも100キロほど有り、実に中途半端と思って居たところ、香港の優良メディアメーカから「東莞は香港から車で行くのが一番便利」とアドバイスいただけた上に車の手配までしてくれるとの大変ありがたい申し出を受けました。これで香港から東莞への車での移動が決まりました。
香港は一国二制度を採る中国の特別行政区で、中国本土に在る東莞へは香港と深■間に有る“関所”(同じ国なので国境では有りませんが、我々外国人はパスポートが必要)を通って行きます。また、香港は英国統治時代から車は日本と同じ左側通行ですが、中国本土は右側通行です。さて、“関所”で車の左右通行区分が入れ替わるのは大変興味の有るところです。
ナンバーが2種類ついている車いよいよ東莞へ移動する当日の朝、ホテルのロビーで待っていると迎えの車が来ました。車は真新しい右ハンドルの国産高級ワンボックスワゴンで、まったくの日本仕様車です。何故かナンバープレートが前後にそれぞれ二種類付いています。聞くと、香港と中国本土を往来する車は両方に登録する必要が有る為に、香港と中国本土それぞれのナンバープレートが付いて居るとの事です。
香港の道路事情は日本と良く似て居り、香港島中心部は交通量が多く渋滞勝ちですが、ルールが守られ整然と通行して居ます。一時間ほど素晴しい高速道路を走ると深■の“関所”です。近づくに従って、今まで快晴だった空がどんよりして来ます。
関所その1香港側の“関所”は車に乗ったままパスポートを高速道路の料金所の様な窓口に提示して“香港を出た”と言うスタンプをもらうだけでしたが、その先の深■側“関所”では運転手以外全員が車から降ろされ入国審査の様な窓口でパスポートに“中国本土に入った”と言うスタンプをもらいました。その後、建物の反対側に回って待っていた車に再び乗って、一路東莞を目指しました。関所その2
高速道路車の通行区分切り替えですが、香港側の“関所”手前から深■側“関所”の先しばらくは完全な一方通行と成って居り、深■側の高速道路に合流する時点で自然と右側通行に切り替わって居ました。深■から先の高速道路も、香港に負けず劣らず立派な物で、高速道路から見える深■の町並みも真新しい高層ビルが立ち並んで居ます。しかし、何か雰囲気が違います。
広告看板その1それは、スモッグに覆われた空と車窓から見える広告看板に有る事に気が付きました。香港よりの中国本土一帯は工業地帯で空がスモッグに覆われ、さながら高度成長期の日本の工業地帯を彷彿とさせます。広告看板は、中国企業の物ですが「祖国永在我心中」や「明思克航母世界」(Minsk World:軍事テーマパーク)等“国威発揚”的な雰囲気の物が散見される様に成りました。
広告看板その2更に2時間程快適な高速道路を走って無事に東莞のホテルに到着しました。ここで香港から我々を乗せて来た車は帰し、東莞での移動は地元の運転手と車を使う事と成りました。これにより交通事情は様変わりし、まったくの車優先社会に入り込んだ事を知らされました。聞くところによる中国では交通事故で死んでも補償金は良くて五万円程度との事で、これは外国人である我々も同じ様です。道を渡るときには充分に気を付けたのは言うに及びません。

『アグラへの道』
タージマハルニューデリーでのインドセミナーは盛況の内に終わり、帰国を翌日深夜のフライトに控え、珍しく時間的余裕の出来た我々DVD+RWアライアンスチームは有名な世界遺産“タージ・マハル”を見に行く事にしました。セミナー開催に多大なる協力をいただいた現地の大手メディアメーカ差し回しのオフローダー2台に分乗し、一路国道1号線でアグラを目指しました。
私の運転手はインド陸軍で13年輸送部隊のトラックを運転していたという男で、その技量の鋭さから通称“レーザー”(Laser)と呼ばれて居ました。彼はまったくの怖いもの知らずで、デリー市内でインド軍のトラックが自動小銃を持った兵隊を満載して前をノロノロ走っていると平気でクラクションをブーブー鳴らして道を明けさ、一緒に乗っている方がヒヤヒヤさせられます。どうもインドでは、特に大きなトラック等の後ろに付いたときは、クラクションを鳴らして後ろに居る事を運転手に知らせるのがマナーの様です。トラックやバスの後ろに”Blow Horn”と書いて有るのを良く見かけました。Blow Horn
インドの道路その1インドの道は究極の混合交通です。日本ですと、自転車・バイク・軽自動車・乗用車・トラック・バス・大型貨物くらいで、皆それなりに交通ルールを守っています。インドではこれに、牛(聖なる動物)・サイクルリクシャ(人が漕ぐ輪タク)・オートリクシャ(エンジン付き三輪タクシー)等がデリー市内では加わり渾然一体と成って道を流れています。インドの道路その2インドの道路その3さて、国道1号線を進み郊外に出ると、更に馬・馬車・水牛が引く牛車(水牛は牛とは区別されている)・駱駝が引く荷車等が加わります。我々は遭遇しませんでしたが、時には象も居るそうです。10人乗りリクシャ郊外では、オートリクシャは屋根にまで人を乗せている事も有り、運転手を含む定員5人に対し13人も乗っている物を見かけました。これはギネスブック物でしょう。残念ながら13人乗りの写真は撮りそこなってしまいましたが、右のオートリクシャには10人乗っています。
国道1号線は中央分離帯の有る片側2車線の舗装道路で、前記の乗り物?達が渾然一体と成って走る中“レーザー”が運転する我々のオフローダーは右に左にかわしながら、アグラを目指して突き進んで行きます。追い越し車線をノロノロ走る大型トラックの後ろに付き何時もの様にクラクションを鳴らすもなかなか道を明けません。2〜3分も後ろに付いて走ったでしょうか、ふとトラックが道を明けたので“レーザー”は一気呵成に前に出ようと加速しました。トラックが退いた途端何と有らぬ事に、前から逆走車が来るではありませんか。急ブレーキと共にトラックの後ろに避け難を逃れましたが、その逆走車は素知らぬ風に通り過ぎて行きました。
時間と共に夜の帷が下り、街路灯の無い国道1号線はヘッドライトのみが頼りの暗黒の世界に成りました。時折通り過ぎる集落の中心部は商店が点在し明かりが有るのですが、その前後はまったくの暗黒です。その中で目を凝らして良く見ると少なからぬ人数の人が居る事に気が付きました。そしてこれが本当のインドの姿なのかも知れないと思いました。
その後もこの暗黒の中を走り、何度と無く逆走車を寸でのところでかわし、無事アグラに到着した次第です。
喫茶店に集う人々そうそう、当然迷宮写真家としてはこの間に“真のインドの姿”を歴史に残そうとシャッターチャンスを追い続けたのは言うまでも有りません。街の喫茶店に集う人々や道端の床屋さんの傾いた椅子等いい雰囲気だと思いませんか。これら全て移動中の車窓からの風景です。道端の床屋さんシャッターチャンスは移動中にあります。

このようにして撮り溜めた写真は私の人生を記録に残す貴重なデータです。記録として残すからにはきっちりと整理し、必要な時に取り出せる様にしなくては成りません。しかし、なかなか時間が無いのも事実ですから、DVDの楽しみ方で紹介されているデジタル写真整理術で手早くDVD+Rに焼いてアーカイブして居ます。

それでは、次回まで。

速度 一層4.7GB
記録にかかる時間
2層8.5GB
記録にかかる時間
2.4X 〜31分 〜47分
4X 〜15分 -
8X 〜8分 〜16分
16X 〜6分 標準作成中

これらの速度はドライブやメディアのパッケージに掲載されています。実際の記録速度は使用するドライブとメディアの組み合わせによって異なります。例えば16Xメディアでも、8Xドライブで使用する場合は8Xでの記録となりますし、16Xドライブでも、8Xメディアを使用すると8Xでの記録となります。

さて、16Xでは実際の速度は、55.84m/sとなり、時速201kmという一昔前の新幹線並みの高速で、0.74μmごとの記録溝を制御しながら記録するという離れ業を行っています。この時のメディアの回転数は約1万回転です。
こうした高速且つ精密な制御を実現するためにドライブメーカは制御機構や回路の改良、メディアメーカは高精度のメディアを開発し、皆さんに提供しています。
しかし、DVDの最大スピードを決めているのは、メディアの基盤(透明な部分)に使用しているポリカーボネイトの材料の強度によって決まっています。
ポリカーボネイトは無色透明で強度があり、また変質しにくいことより、多くの工業製品に使用されており、特にDVDなどで使用されているものは光グレードと呼ばれるポリカーボネイトの中でも透明性、安定性の高いものですが、編芯や面ブレと呼ぶメディア寸法のズレが大きくなった場合、メディアがスムーズに回転せずにずれて回転し、ドライブの中で、振動を起こしたり、最悪時にはメディアが破壊したりします。
材料の限界はもっとありますが、安全を見て、メディアの回転数は、約1万回転を上限にして標準は作られています。
この時のスピードは16Xとなるため、標準でのDVDの最大スピードは16Xとしています。

エスニック長崎(その1)

長崎は“やはり”雨だった

昨年(2006年)11月下旬に、長崎の出島でDVD+RWアライアンスの幹事会が開催され、それに参加するため始めて長崎を訪れる機会を得ました。開催地が長崎と知らせられて最初にうかんだのがかの内山田宏とクールファイブでヒットした「長崎は今日も雨だった」です。その他には、チャンポンにカステラ、それから出島に平和公園があります。

まずは、何故長崎の出島が開催地として選ばれたかからお話しましょう。 ご存知の方も多いと思いますが、DVD+R/RWを作り推進している主要メンバーの一社にオランダのローヤル・フィリップス社が居ます。幹事会の開催は幹事会社持ち回りで開催して居り、この回はローヤル・フィリップス社がホスト役でした。丁度、DVD+R/RWフォーマットの開発が始まって10周年に当たる年でも有り、歴史的に日本とオランダの出会いの地である出島が選ばれました。 DVD+R/RWと日本・オランダの出会いとどう関係が有るかですか?それは、光ディスクの歴史の始まりであるCDがオランダのローヤル・フィリップス社と日本のソニーが手を結んだ結果誕生したからです。これにちなんで、ローヤル・フィリップス社がオランダに縁の深い日本の地長崎の出島を開催地に選びました。 開催地を長崎の出島にするに当たり、フィリップスの関係者は随分と気を使っていました。オランダを含む欧州の多くの国々が植民地政策を行いましたので、オランダとの出会いの場と成った特定の地に対して嫌悪感を持つ国も少なく無い為です。無論、長崎の出島は日本人にとってその様な歴史的な嫌悪感を持つ場所では無く、むしろ鎖国時代に唯一外国からの文化が入って来た有意義な地である事を伝えたのは言うに及びません。この様に、自国の過去の既に歴史の一部と成り、自らの時代とは直接関わらない過去に対してもこの様な配慮をするオランダ人の気持ちには敬意を表したいと思います。

長崎の出島に関しては中学の日本史で習うのでしょうが、記憶には扇形をした人工的に埋め立てて作られた島と残っています。現在この出島がどう成って居るかは行って見るまで知りませんでした。

結構広いと思い込んでいた出島は、実は約130メートル×40メートル位しか無く、また、既に周囲が埋め立てられて島では無く成って居ます。この様に成ってしまったのは少々寂しい気がしますが、一旦埋め立てられた以前海に面して居た護岸の石垣部分を再度掘り出し、史跡としてそのまま見える様に保存され、出島だった地域を史跡公園の様に整備して公開されて居り、新たな形で出島が再び活気を取り戻し始めて居ます。

幹事会が開催されたホテルが出島から道を一本渡ったところで会議室からも出島が見えていましたので、昼食休憩中にフィリップスのオランダ人達と共に出島見物に出かけました。私もそうですが、彼らも実物の出島を見るのは初めてで、オランダ人たちと共に日蘭の出会いの歴史を見るのは大変興味深い経験でした。

夕方、せっかく長崎に来たのだから何所か見物に行こうと言う事に成り、出島から歩いても15分ほどの小高い丘に在る大浦天主堂とその隣のグラバー邸を目指しました。長崎港を右手に、左手にオランダ坂を見ながら長崎の市電が往来する大浦海岸通を南に進むと程なく左前方に現れる丘に目指す大浦天主堂とグラバー邸があります。大浦天主堂へと続く淡い上り坂のグラバー通りの右手は、原宿表参道かと見紛うばかりの、きらびやかなみやげ物店が軒を連ねていました。ここを抜けると道が僅かに右に曲がった先に大浦天主堂が、今抜けて来た道とはまるで別世界の様な、その清楚な姿を現しました。

私はキリスト教徒ではありませんが、ここが徳川幕府の大禁教令以来250年の永きに渡り潜伏していた隠れキリシタン復活の歴史的な場所かと思うと、感慨深いものがありました。しかし、7世代もの間ひそかに語り継がれてくるとは、壮大な歴史ロマンと計り知れない宗教の力を感じます。 大浦天主堂の出口はそのままグラバー園の入り口につながっています。グラバー園はグラバー邸をはじめとする長崎の歴史的な洋館を多数移築して集めた公園です。園内は丘の西斜面を使用した造りで、入園するとエスカレータを乗り継いで丘の一番上まで登ります。ここからは、長崎市内を始め湾内が一望できます。頂上に建つ旧三菱第2ドックハウス内には、対岸に在る三菱重工長崎造船所で建造された主要な船が写真で展示されています。この時はまさか写真にある船の現物にその後出会うとは思っても居ませんでした。



グラバー園は閉園後30人以上から貸切でガーデンパーティーを開けるとの事で、幹事会後の10周年記念会をここでと考えた次第です。DVD+R/RWの活動は少人数で小回りが利くのが身上ですので、とても30名以上等という人数は集まりません。そこで、人数分の料金を払うのでとお願いしたのですが、残念ながらだめでした。10周年記念会は大浦天主堂近くのホテルの宴会場を借りて後日行いました。 グラバー園は結構広いので、気が付くと既に日は暮れて閉園時間が迫っていました。そろそろホテルに戻ろうと歩き始めたとき、ぽつぽつと小雨が降り始めて来るではないですか。そうです、長崎はやはり今日も雨だったのです。

出島ワーフ

ホテルに戻ると、幹事会メンバーの殆どが揃って居り、皆で夕食に出掛ける事に成りました。日米欧の人間が入り混じっての夕食ですが、このメンバーのオランダ人もアメリカ人も良く日本に来て居る事も有り、特段食べられない物は無いので場所選びに気を使わないで済みます。 昔、インドネシアに出張した時の事ですが、ヒンズー教徒とイスラム教徒のインドネシア人に現地の華僑の人と私で食事に行った時は店選びが大変でした。何せ、豚肉と牛肉が食材として選べないので、鶏肉と魚に野菜しかだめです。確かこの時は和食の店に行った覚えが有ります。 ホテルの裏が長崎湾に面し、その一角が長崎出島ワーフと言って洒落た観光埠頭に成って居ます。長崎港に浮かぶ船の明かりを見ながら食事の出来る店が十数店在ります。生け簀、ビストロ、中華、イタリアン、等など。皆で色々迷った挙句、しゃぶしゃぶ食べ放題の店に入りました。長崎で何故しゃぶしゃぶと言う方も居られるでしょうが、今でこそしゃぶしゃぶは和食と思われて居ますが、肉を食べるのですからこれは南蛮渡来の洋食です。その当時、西洋文化は全て長崎の出島に渡来する南蛮人(オランダの皆さん失礼)によりもたらされ日本各地に広まったのです。ですから、しゃぶしゃぶは長崎出島ワーフで頂くに相応しいレシピの一つなのです。 日本人・オランダ人・アメリカ人から成る10人程の一団が飲み放題付で食べ放題のしゃぶしゃぶ鍋を囲んだのですから、その夕食が盛り上がった事は言うに及びません。場所が出島ワーフですので、共通の言葉はオランダ語だったと言えればなかなかの落ちに成るのでしょうが、我々日本人もアメリカ人も流石にオランダ語は聞く事も話す事も出来ません。その場の共通言語は、やはり英語でした。

エスニック長崎(その2)〜Deja vu〜

●白い巨船

翌朝、ホテルの窓から長崎港を見ると昨夜までは無かった真っ白い巨大な船体が有ります。それは客船の様ですが、船名までは見えません。日本の大型客船と言えば、やはり思い浮かぶのは飛鳥U(50,142ton)です。しかし、見えている船はそれよりも大きい様に思えます。気に成りながらも、幹事会開始時間が迫って居り、そのままホテルの会議室に行きました。
会議室はホテルの最上階に有り眺めは最高なのですが、プレゼン用のデータプロジェクタのために窓は全て遮光カーテンで被われて居り景色は臨めません。幹事会の休憩時間に会議室横のテラスに出ると、皆話題は自ずと昨日までは無かった巨大な白い船に集まりました。所詮、光ストレージ業界に生きる我々は、船に関しては門外漢ばかりですので、誰もあの白い巨船が何者なのかはなど知る由もありません。父が海運会社勤務であった関係から太平洋を船で渡った経験のある私が、唯一の外洋乗船経験者だという事がわかったくらいです。この話題は別の機会に譲るとして、元来船が好きな私は昼食の休憩時に長崎港まで歩いて見に行く事にしました。
船は大きいだけにすぐそこに有る様に見えますが、ホテルから長崎港までは徒歩で10分ほどの距離です。ようやく長崎港までたどり着くと、その船はまさしく見上げる高さに、長崎の11月の小春日和の陽光に眩しいほどに輝いていました。確認できた船名は”Sapphire Princess”。そうです、グラバー園の頂上に建つ旧三菱第2ドックハウス内に三菱重工長崎造船所で建造された船として、姉妹船である”Diamond Princess”と共に日本で建造された客船としては史上最大(総トン数:116,000トン、乗客定員:2,670人)と紹介されていた船です。その現物を、それもここ長崎で見る事が出来ようとは想像もしていませんでした。

この船は、聊かいわく付であると共に、私個人には建造前から少々縁のある船でもあります。
テレビのニュースや新聞でも大きく報道されましたので覚えている方も多いと思いますが、”Diamond Princess”として進水後の2002年10月1日に艤装工事中の船内から出火して、全体の四割を焼失する火災に見舞われています。このため、続けて建造中であった姉妹船の”Sapphire Princess”を急遽”Diamond Princess”に改名して先に竣工させ、焼けた”旧Diamond Princess”を改修して2004年5月末に”Sapphire Princess”として竣工させた経緯があります。船乗りは縁起を担ぐと聞きますので、この様な事は不吉だと忌み嫌うのではないかと思いますが、特に縁起の悪い事がおきたとの話は聞きません。

話は2000年5月23日に遡ります。
私が光ストレージ業界にはまる以前の業務でお世話に成ったマイアミのビデオシステムインテグレータの社長からまる一年ぶりにE-mailが届きました。彼には私が仕事の分野を変えた事を知らせて有りましたので、再び連絡が来るとは思っても居ませんでした。
内容は、日本でケーブルテレビシステム納入設置の入札があり、応札したいので良いパートナーを紹介して欲しいと言う物でした。これがこの時はまだ建造計画段階で有った”Diamond Princess”と”Sapphire Princess”の船内テレビシステムの話だったのです。私は早速パートナーとなる会社を彼に紹介し、彼らは応札したのですが、残念ながら落札には至りませんでした。
この様に最新の巨大豪華客船に搭載されている船内テレビシステムは、千数百ある客室にテレビ放送を送るだけに止まらず、あらゆる船内サービスを双方向で提供する情報インフラです。もしこのビジネスが取れていたらどう成ったか、これは取らぬ狸の皮算用ですので、ここまでで止めておきましょう。

午後の会議が始まりますので、長崎港から歩いてホテルに戻る途中、行き交う人達に欧米系の初老の夫婦やグループが多い事に気付きました。そう、この人たちが停泊しているSapphire Princessの乗客達です。密かに何時かはクルーズの旅をしたいと計画している私には聊か羨ましい光景でした。

●10周年記念会

幹事会の午後の部がようやく夕方に終わり、今回のホストであるローヤル・フィリップス社から10周年記念会の会場に向かうバスの発車時間が伝えられました。記念会会場のグラバー園近くのホテルまでは歩いても行ける距離ですが、はるばる北米や欧州から長崎まで来た人も居ますので、空港とホテルしか見てないでは詰まりません。ホスト役の担当者が気を利かせて、ささやかな市内観光を手配していました。
バスはグラバー園とは逆方向に向かい、長崎駅前を過ぎ平和公園の「原子爆弾落下中心地碑」に向かいました。車窓からですが、爆心地に立つ石柱の碑を垣間見る事ができました。今回の会議参加者に一人だけアメリカ人が居ます。ホストは当初平和公園をルートに含めるか思案したそうです。これは会議の目的がお互いの歴史認識を問う物では無いからです。しかし、この心配は無用である事がわかりました。親が米海軍の軍人で、本人も佐世保の海軍基地で生まれたそうで、日本の歴史には興味を持っているとの事でした。
引き続き「浦上天主堂」の前を通り、グラバー園に向かいました。この先は前回の“エスニック長崎(その1)”に書いた大浦天主堂からグラバー園を再び回りました。
大浦天主堂からグラバー園を小一時間程散策した後、長崎全日空ホテルグラバーヒルで10周年記念会が執り行われました。少人数の記念会でしたが、参加者一人ひとりがDVD+R/RWの今までの歩みをそれぞれの立場から語り、大いに盛り上がった事は言うに及びません。

翌朝、海外に帰る一部の参加者は夕方のフライトだった事から、1日長崎観光の時間が取れ、件のアメリカ人は午前中に平和公園を訪れ、午後には佐世保まで足を伸ばしたと後日話して居ました。

エスニック長崎 おわり

60分の遊覧飛行

迷宮写真家です。

 それは桃園国際空港を離陸して15分程しての事だった。私の乗ったB777機が既に石垣島北方に達している事をシートモニターの地図は示している。「キャビン内に煙が充満したために、当機は桃園国際空港に引き返す。」と英語・広東語・日本語で機内アナウンスが流れた。目を上げると確かにキャビン内は僅かに霞んで居る。

 これは、第1回Taiwan DCCGミーティングの帰路、私が遭遇した実話である。

 早朝のボーディングは定刻に始まり、何所の空港にも在るゲートのフィンガー内を搭乗口に向かって歩いて行った。搭乗口が近付くに従い、何やらあまり覚えの無い鼻を突く臭気に気が付いた。我慢出来ない程ではないので、そのままプレミアムエコノミーのキャビンに入り着席した。程無くしてボーディングが完了しドアが閉まるとキャプテンから挨拶のアナウンスで、臭いの正体が分かった。どうも油圧系統のオイルがキャビン用エアコンのダクト内に洩れる事故が有り、オイル洩れの修理は行ったものの臭いまでは取り切れなかったとの事。離陸後ダクト内を空気が流れる事で臭気も飛んでしまうとの説明で、我慢する事とした。
 プレミアムエコノミーのシートは初めて見る新型で、航空会社のWebsiteにも何ら紹介記事は出ていない。座席配列横2-5-2のエコノミークラスの両外側のそれぞれ2列のみビジネスクラスの座席の幅を狭くした様なフットレスト付きシートが取り付けられて居る。離陸後、私がこのフットレストを出したのを見た通路を隔てて隣の乗客が、自席のフットレストを探していた。
 離陸後も、件の臭気は一向に消える様子は無いものの、鼻が慣れて来た為か、さして気に成らなくなった。見たい映画を決め、シートベルト着用サインが消えるのを待っているところにキャビン内煙充満の為引き返すとアナウンス。今まで100万マイル以上、フライト回数にして550回以上の中でも飛行中の機体トラブルで離陸した空港に引き返すと言うのは初めての経験。一瞬、緊張が走った事は言うまでも無い。

 再びゲートに着くまで45分程を要した。着陸までの間、状況の詳しい説明は無いものの、薄く靄の掛かったキャビン風景を除くと特段異常無く飛行して居り、たとえ油圧系統にトラブルが発生しているとしても、B777は安全策として3系統備えている事から、差し迫った危機は無いと判断でき、緊張は解けた。代りに成田への到着が遅れる事の方が気に成って来た。
 私は着陸後、修理に要する時間を推測していたが、この時既にキャプテンはこの機を今日中に再度飛ばす腹積もりは無かった様だ。ゲート到着直前に「ゲート到着後全員荷物を持ってゲートロビーで待機」とのアナウンス。
 ロビーで15分程待たされて居ると「出発予定時刻は11:45」とのアナウンスが有り、あまり遅れずに済むと安堵した。機体を窓越しに見ていると、なぜか整備士は右のエンジンカバーを開けている。訝しく思いはしたが、さして気に留めなかった。前日深夜に到着した機体を整備士は徹夜で修理したで有ろう事は容易に想像できる。にも関らず直らなかったトラブルがわずか一時間で直るはずが無い事に気付くべきで有った。案の定、11:30頃に「出発時刻は12:30に成る」との訂正が有った。
 12:15頃に、ファースト・ビジネス両クラスの乗客だけカウンターに来る様アナウンスが有り、ロビーから出て行った。私はこれをボーディングが始まったと勘違いし、まもなく出発できると期待したが「出発は更に遅れて13:45頃に成るので、ロビー内に食事を準備する」とのアナウンスで期待はすっかり裏切られてしまった。この時点で13:45出発も怪しいと踏んで、兎に角腹ごしらえとサンドイウィッチを食べた。
 13:00頃、とうとう最後通牒である。ロビー内に残っているのはエコノミークラスの乗客のみで、全員を15:00発の他社便に振り替えるとのアナウンス。この時、先にロビーを出て行ったファースト・ビジネス両クラスの乗客が優先的に早い便に振り替えられた事に気が付いた。これぞ究極のクラス別サービスである。程なくして、地上職員に先導されてぞろぞろとロビーを出て、乗継カウンターにつれて行かれた。幸い、私は列の先頭の方に居たため、殆ど待つ事も無くカウンターに行けた。その為、一つ早い13:45発のフライトに席を確保できた。
 時刻は既に13:40。足早にゲートに向かった。通常は既にドアは閉められている状況だが、連絡が付いて居る様で、同機は振り替えられた私を含む乗客数名を待って居た。満席フライトで、機体はB767と小さい為、手荷物を収納する場所が確保できない有様。CAに荷物を預け、何とかしてもらった。
 今度は引き返す事無く、当初の予定から遅れる事約4時間、無事に成田に到着した。
 私の手元には、引き返したフライトのボーディングパスの半券が残っている。マイレージアカウントをWebで確認すると、やはり帰路のフライトが計上されていない。Webでの事後申告をしたが、申告したフライトは存在しないと表示された。しかし、E-mailには事後申告を受け付けた旨届いた。さて、このマイレージは如何なる事か。
今回の事件、迷宮写真家として大変残念な事が有る。一枚も写真が無い事だ。そう、離着陸時電子機器であるデジカメは使用が禁止されている。その為に、煙の充満したキャビンの写真も撮れなかった。最も、あの程度の煙では、多分、臨場感の有る写真は撮れなかったろう。

この項終了。

初めての海外渡航(その1)

1. 僕、アメリカに行くんだ

父は海運会社の営業勤務で、1年程前から2回目の海外駐在で米国に赴任していた。私たち一家、母と弟の三人、は世田谷に有った社宅に住んでいた。家の裏の筋向いがその年の3月まで通っていた調布幼稚園で、4月に入学した小学校は、社宅すぐ前の仲原街道を北に洗足池まで15分程歩いた洗足池小学校だった。
どの様な言い回しで有ったかは覚えて居ないが、ある冬の日、母から父が赴任して居るアメリカに行く事に成ったと知らされた。アメリカ。まだ小学校1年の私には“外国”である事は何と無く理解できたが、“外国”即ち“アメリカ”でも有った。
その翌日で有ったと思うが、学校で担任のミツヤ先生に「僕、アメリカに行くんだ。」と話したところ「そんな嘘を言うんじゃありません。」と窘められた事を子供ながら鮮明に記憶している。信じて貰えなかったのも無理からぬ事で、時代は最近公開された映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の時代設定翌年に当る昭和35年(1960年)で、東京オリンピック開催は決定していたが、まだ海外渡航が自由化される以前で、今の様に誰でもが海外旅行に行ける時代では無かった。海外渡航が自由化されるのはそれから4年後、東京オリンピックが開催される年である昭和39年(1964年)4月である。

その後、パスポートの取得や渡航の準備がどの様に行われたのかは断片的な記憶しかない。パスポート用の写真は母と弟の三人で一枚に収まったのを覚えている。当時は、子供は親のパスポートに含む形で発行された。パスポートの申請がどの様に行われたかはまったく記憶が無いので、多分父の会社の方で全ての手続きをしてくれたので有ろう。当時のパスポートは今の物に比べるとたいそう立派な物で、黒皮の表紙に金文字と菊の文様が入っていたのを覚えている。そのパスポートは現在行方不明で、写真をお見せできないのが残念である。

年が明けた昭和36年(1961年)の3月上旬であったと思う。世田谷の社宅を引き払い、アメリカへの渡航に向けた出発の準備が始まった。今でこそ航空機が一般的だが、この当時旅客機はたいそう高価な乗り物だったらしい。既に日本航空は、日本のNational Carrierとして太平洋線にDC-8を飛ばしていたが、父の会社が海運会社で有った事からも船旅で有った。
船旅は最も贅沢な旅行形態と思われて居るが、海運会社としては、自社の船に社員の家族を乗せるのが最もコストの掛からない渡航方法だった。横浜港で待っていたのは新日本汽船の阿蘇春丸、1953年1月就航・総トン数7,839トン、の貨客船だった。

貨客船とは厳密には「旅客定員13名以上の貨物輸送のできる船舶」を指すらしい。 この点からすると、阿蘇春丸が貨客船に該当するかは今と成っては定かではないが、旅客キャビンは一等と二等それぞれが複数有った事を覚えている。我々一家は、もう一家族ニューヨークの赴任先に向かう同様な社員の家族と共に、一等船室の旅客と成った。一等旅客キャビンはブリッジ直下、船長室と同じ最上階のデッキに位置していた。

この当時“洋行”は一大イベントで有り、阿蘇春丸が接岸している横浜港の桟橋には母方の親戚一同がわざわざ大阪から見送りに来た。見送りに来た親戚一同皆船内に上がり、記念写真を撮り船内見学に勤しんでいた。 今ならば、さしずめ、成田や関空の国際線で出発する知り合いを見送りに来た人達がゲートに駐機している飛行機の機内まで入って来る様な物だ。
どの様に行われたかは覚えて居ないが、出発する我々母子は出国審査を済ませての乗船で有ったはずだ。或いは、出国審査は途中立ち寄る室蘭で行われたのかも知れない。そこにパスポートを持たない大勢の親戚が紛れている訳だ。いとも簡単に密航等出来てしまったのでは無いだろうか。まず、今ではあり得ない事だろう。
暫くして銅鑼が鳴り蛍の光が流れたかは定かでは無いが、出帆の時が来た。見送りに来た親戚一同はタラップが引き上げられる前に下船した事は言うまでも無い。“桟橋とデッキは無数の色とりどりのテープで結ばれ”と書きたい処で有るが、如何せん乗客は我々を含め三組全8名だ。幾ら親戚一同が見送りに着て居るとは言え、見送る側も十数人しかいない。無数とは言えないが、デッキと桟橋は色とりどりのテープで結ばれ、暫しの別れを惜しんだ。阿蘇春丸は岸壁を離れ、デッキと桟橋の見送り人を結ぶテープも一本また一本と切れ、最後の一本が切れると長い汽笛と共に横浜港を後に一路北海道の室蘭を目指して北上した。

確か、翌日には室蘭に入港した様に覚えている。室蘭までは沿岸に沿って進むので、船はさして揺れる事は無かった。室蘭の港には荷下ろしされた砂鉄が大きな山と成って幾つも積まれていた。砂場に磁石を持ち込み、一生懸命砂鉄を集めて遊んだ覚えが有るが、集まる量はせいぜい指先で摘める程度だった。この幾つもの大きな砂鉄の山から、秘かに一握りの砂鉄を貰って行った。
ここ室蘭に荷役のために船は二日間ほど停泊したので、二家族で列車に乗り登別温泉まで泊り掛けで出かけた。後で聞いた事だが、この登別温泉行きは船長からのお勧めだった様で、荷役作業の邪魔に成らない様体良く追い払われた様だ。登別温泉行きは予定外の事で、既に現金は米ドルにほとんど換えていたため日本円が余り手元に無く、どうするか躊躇したと母から最近聞いた。持ち出せる外貨の上限は500米ドルだった。
このときの登別温泉に関する記憶はまったくと言って言い程忘れている。多分、私の興味を引く様な事が何も無かったのであろう。唯一、泊まったのが温泉旅館で、その温泉が混浴だった事位だ。

 

2. 太平洋を渡る

室蘭からの新たな乗客は無く、出航を見送る人は居ない。阿蘇春丸は静かに岸壁を離れ、一路アメリカを目指して東に進路を取った。西海岸までは約二週間の航海だ。外洋に出るに従い波の周期が長く成り、スタビライザー等持たない全長130メートル程の船体は前後左右に波の長い周期に合わせて揺れだす。子供で有った私もこの揺れには勝てず、初日は終日船酔いで寝てしまったが、二日目には揺れに慣れて船内を遊び回って居た。大人は簡単に慣れる事は出来無かった様で、母等は何時までも船酔いが続いていた。

当時既にオートパイロットが装備されて居り、よく映画で見掛ける様に、ブリッジで常に大きな舵輪を船員が握っている必要は無く成っていた。ブリッジにはオートパイロットと並んで、昔乍らの大きな舵輪が残されて居たが、ブリッジに遊びに行く私に触らせてくれた事から操舵機能からは切り離されて居たので有ろう。
オートパイロットの姿形は何故か鮮明に覚えている。この頃から機械いじりが好きだった私は、幼いながらにエンジニアの血が騒いだのかも知れない。オートパイロットはグレー掛かった緑色にペイントされて居り、30cm角程の太さで床から立ち上がった支柱に直径40cm程の舵輪が垂直に付いて居た。また、舵輪の奥に成る支柱には方位を示す目盛り盤がガラスの奥に見えていた。まだGPS等無い時代で有った事から、ジャイロコンパスを用いたシステムで有ったと思われる。
ある日、ブリッジに私と弟が遊びに行って居た時、どちらで有ったかは忘れたが、このオートパイロットの舵輪を触って僅かに動かしてしまった。ブリッジに居たオフィサーから触ってはいけないと注意されたが、無事に目的地に着いた事から大きなトラブルには成らなかった様だ。しかし、その後ブリッジに入れてもらえなく成った。

二等キャビンに本当の乗客が一組二人乗船していた。我々社員の家族は言うなればタダ乗りしている様な物だが、彼らは船賃を払って乗船して居るれっきとした乗客だった。奥方が日系人のご夫婦で、何処の州だか忘れたがアメリカ南部の州で牧場を経営しると話していた事を覚えている。
乗客は誰も時間を持て余していたので、頻繁に遊びに行ったが、嫌な顔をされる事は無かった、と勝手に思っている。
ある日、鹿狩りの話を聞いたのが今でも印象に残っている。この当時は、日本でも地方により狩猟は行われていたので有ろうが、神戸で生まれ東京で育った私にとって、鹿狩りやライフルの話等まったく始めて聞く事だった。鹿狩りにはシーズンが有りライセンスを受けなくては成らない事、ライフルを持ち歩く時は常に銃身は下に向けておく事、服装は鹿と間違って撃たれない為に赤系の目立つものを着る事、等など。鹿狩りに連れて行くので是非遊びに来る様にと誘われたが、今と成っては名前も居所も忘れてしまった遠い昔の出来事だ。

今時の豪華客船による船旅で有れば、船内にありとあらゆるエンタテイメントが準備されて居り、乗客を飽きさせる事は無いので有ろう。当時はまだDVDビデオディスクはおろかホームビデオもまだ無い時代。客室は言うに及ばす船内にテレビは一台も無かった。仮にテレビが搭載されていても、陸から遥か離れた外洋では放送波が届くはずも無い。ビデオの一般向けパッケージメディアが出現するのは、これから10年後の1970年、Uマッチクビデオの出現まで待たねば成らない。光ディスクであるDVDビデオの出現は30年後の1990年だ。

貨客船では例え一等キャビンの旅客であれ唯一の楽しみは三度の食事しか無い。貨客船とは言え、旅客と船員の食事を賄うために専任のコックが乗っていた。また、食堂はオフィサーと一般船員は別でデッキも異なる。我々一等キャビンの旅客はオフィサーと同じ最上階デッキで、専任のウェーターによるサービスで朝昼晩と食事を楽しめる。しかし、これが次第に億劫に成ってくる。
ジャンボジェットの30倍以上の時間が掛かる低速な船舶でも東西方向に移動している限り時差の影響から逃れる事は出来ない。船の場合、太陽の昇る周期に合わせて生活上の一日の長さが決まる。ほぼ真東に進む場合、時刻が進む方角に移動している為に日の出から次の日の出までの時間、即ち生活上の一日、は船がその間に進んだ距離だけ日の出が早く成るので短くなる。阿蘇春丸は13ノット(約24Km/h)程で東に進む為、生活上の一日は1割程短い約21時間30分に短縮されてしまう。国際日付変更線を超えると再び同じ日付の日が繰り返されて、辻褄が合わせられる。西海岸まで実航海が14日間(336時間)丁度掛かるとして、この間に船は15日分の日の出と日没を迎える。従って、生活上の一日が短く成る為に、食事と食事の間隔が短く成り、お腹が空く間も無く次の食事時間と成ってしまう。その為、船酔いと合わせて次第に食事が億劫に成って来るのだ。

余談だが、国際日付変更線を越えるとき、船では盛大なパーティーを催す事が慣習として有る様だ。阿蘇春丸のこの航海でも船長主催に成るパーディーが開催された。

 

つづく

初めての海外渡航(その2)

3.アメリカへの到着

西海岸の目的地であるLong Beachに入港する日は雲一つ無い晴天で、今から思うとあれが正しく“カリフォルニアの青い空”だった。船首よりのデッキから海岸線が見え始める少し前から、船の両舷の澄み切った海を何頭ものイルカが船に添って泳ぎ始め、海原をはねて居た。イルカを初めて見る幼少の私は、大きな魚と思って居た。

航海中遊び相手に成ってくれ仲良く成ったアルバイトウェーターにあの魚(実はイルカ)を釣ろうと言い出した処、船を止めないと釣れないと言われた私はブリッジの船長に「魚釣りするから船を止めて」と無邪気に言った。「それは無理だ」と断られたのは当然である。

次第に海岸線が近づき、陸上の様子も見え始めた。初めて見る外国で有ったが、特に感動したとか特別な感情が湧いた覚えが無い。覚えて居るのは、Long Beachに有る遊園地の観覧車が見え、そこに遊びに行きたいと思った事だ。今考えると、スピルバーグ監督の1979年作品「1941」で三船敏郎が艦長を勤める大日本帝国海軍の潜水艦が攻撃する観覧車のモデルではないかと思う。映画では、攻撃された観覧車が転がって海に沈む、実に荒唐無稽な話だった。

やがて阿蘇春丸はLong Beach港岸壁に接岸した。岸壁には二人のアメリカ人と思しき白人が待っていた。多分、入国審査官と税関官吏だったのだろう。一人の船員がタラップを下ろす為にデッキから岸壁に飛び降りた途端、その内の一人が何か喚き出した。どうも、まだ入国手続きが終わって居ないのに勝手に船から下りるなと言って居る様に、まだ英語の分からなかった私には、聞えた。 アメリカ初日の夜は、現地駐在員事務所が手配してくれた、ロサンゼルス市内のホテルに別の赴任先に向かうもう一組の社員家族と泊まった。ホテルの名前は忘れてしまったが、もう一方の家族の姉妹が我々の部屋に遊びに来ようとして、ホテル内で迷子に成ってしまった。部屋が何階で有ったかは分からないが、階段の踊り場で泣いて居る二人を見つけて上の階から見下ろして居る光景を鮮明に思い出す。

最近に成って分かった事だが、はるか太平洋を越えてLong Beach港まで我々を運んでくれた阿蘇春丸のその後の運命は、昭和45年(1970年)までは合併した山下新日本汽船で運用され、その年の8月31日に香港の海運会社に売却されDona Anitaと改名されリベリア船籍と成ったそうだ。それから僅か1年4ヶ月後の昭和47年(1972年)1月9日にカナダ・バンクーバーから横浜に向けて航行中、バンクーバー西方沖120海里(約220Km)で荒天のため42人の乗組員と共に消息を絶ったとの事。未だに船体は発見されて居らず、消息を絶った後、アラスカ・ケッチカン(Ketchikan)沖で乗組員の遺体が何体か発見された様だ。自らが太平洋を渡った船が海の藻屑と消えた事を知り、複雑な思いだ。

4.ヒューストンへ

当初ロサンゼルスまで迎えに来るはずだった父は仕事の都合で来て居らず、我々母子三人は父の待つヒューストンまで旅客機で向かう事と成った。

どの様にしてロサンゼルス空港からヒューストン行きの飛行機に乗ったかは覚えて居ないが、これは全てロサンゼルスに赴任して居た当時の社員の方が面倒を見てくれた物と思う。ヒュ−ストンの空港には父が迎えに来ていると母は聞かされて居たので有ろうが、ろくに言葉も分からない初めての外国で乗った事も無い飛行機に母子三人でよくぞ乗ったもの。母は強しだ。

搭乗したエアライン名や機種等はまったく記憶が無いが、飛行中に弟がのどの渇きを訴え水をほしがった。言葉が通じない為にアテンダントに水を要求するのにたいそう苦労した覚えだけがある。”Water”と言って居るつもりでも発音が悪いのか通じない。挙句の果てには、コップを持って蛇口をひねり水を飲むジェスチャーまでやった。

流石にヒューストンの空港には父が迎えに来て居り、無事に合流出来た。 私は父の顔を覚えていたが、4歳年下の弟は父親と認識は出来無かった様で、しばらくの間“おじちゃん”と呼んで居た。 既に暗く成って居り、途中で夕食を済ませるため、迎えに来ていた父の車でレストランに向かった。目指すレストランはすぐそこと言う時に、突然パトカーにサイレンを鳴らされて停止を命じられた。運転していた父が一時停止の標識を見落とした為に、そこで張っていたパトカーに捕まってしまったのだ。この様な非日常的な出来事を経験したおかげで、この辺りの記憶は大変鮮明だ。

たどり着いたレストランは“カフェテリア”形式だった。トレーをレールに乗せ、カウンターに有る好きな料理をトレーに取って、最後にレジが有る。今でこそ日本国内でも良く見掛けるが、当時としては初めての経験だ。その後もヒュ−ストン在住中によく家族でこの様な“カフェテリア”形式のレストランに食事に行った覚えが有る。特定の曜日には、取り放題で1ドルなんてサービスも有った。今でこそ1ドルは百円少々だが、為替がまだ変動相場制に移行する以前なので1ドルは360円の固定レートだ。昭和36年の360円は今の2千円くらいに相当するが、当時からアメリカでは1ドルは日本での百円の感覚だった。百円も昭和36年頃の日本では今の5倍の価値が有ったので、五百円と言う処か。

ヒューストンでの当初の家は、モダンな新築のアパートメントだった。日本でイメージする所謂“アパート”とは異なり、木造(ツーバイフォー)二階建てのテラスハウスがロノ字に広い中庭を取り囲み、そこに居住者専用のプールが有ると言う結構豪華なものだった。我が家は一階がリビングとキッチンで二階にバスルームと寝室二部屋の2LDKだった。テキサスはアメリカ南部のため夏は大変暑く、とりわけヒューストンは湿度も高い地域で、エアコンが普及したから人が住める様に成ったとさえ言われている。その中でも、当時としては最先端で有ったCentral Air Condition付だった。 そうそう、コカコーラを初めて飲んだのもこの時だ。家に着いて、父がのど乾いたかと言ってコップに注いでくれたのが、今思えばコカコーラだ。一口飲んで、実に奇妙な味と言うのがその時の印象だ。

この当時、アメリカはまだ自国の石油を採掘して居り、テキサスは一大産油地で油井を見掛けるのは日常の事だった。“世界初”や“世界最大”は全てテキサスに有ると言われ、アメリカで最も豊かな州だった時代だ。この地にこれから3年間、私は小学校6年間の前半を過ごすので有った。この3年間の経験は、今までの私の半生に大変大きな影響を及ぼして居ると思う。 映画“13デイズ”のキューバ危機や“ダラスの熱い日”のケネディー暗殺等、今では歴史の一部に成ろうとしている事件を現実の世界としてリアルタイムで体験する事が出来た。今、私が英語を話せるのもこの経験が有ればこそだ。更には、英語がある程度出来るからこそ私はDVD+RWのフォーマット開発を始め関連する多くの活動に参加する事が出来た。これはある意味運命の巡り会わせの結果で有ろう。物質文明の頂点に有った当時のアメリカでの話は、またの機会に譲り一旦ここで筆を置くとしよう。

キャッシュレス海外出張
リスクはスキポールで列車の切符がJCBで買えるかに絞られる。リスク回避策を検討し、JCBカードでのキャッシングも考えた。しかし、このJCBカードは会社のファミリーカードのためキャッシングサービスが使えない。万事休すである。何とか成るだろうと判断して、このまま出発する事に腹を括った。

手荷物検査と出国審査を済ませ、出発までまだ小一時間有るので、ラウンジへと向かった。航空券はエコノミーだが、幸いマイレージプログラムのおかげでラウンジが使えるのは助かる。ルフトハンザは成田に自前のラウンジが無いので、スターアライアンスのどのラウンジでも使える。ゲートが近いと言う事も有り、ANAのラウンジにした。
ANAのラウンジは人気が有り、何時も結構人が多い。ここで温かいそばと生ビールで出発直前まで英気を養った。

ルフトハンザのエコノミーシートはご他聞に漏れず狭い。この日は最後部の通路側47Hだった。隣が不必要に大きな人の場合は悲劇だが、幸い、隣が日本人女性だったため窮屈な思いはせずに済んだ。
スキポールへの到着時刻は現地時間夕方となるため、私は機内では極力寝ないように勤める事にした。現地到着後しっかり夜寝るためだ。これは、現地到着後の時差ぼけ回避策で、到着が午前中の場合は機内では寝て、現地到着後日の光を浴びる。

長い一日だったが、フランクフルトで乗り換え、現地時間午後6時頃にオランダ・スキポール空港に到着した。
オランダ鉄道の列車 さて、これからが最初の関門、列車の乗車券購入だ。8ヶ月ぶり8回目の勝手知ったる空港である。自販機でもクレジットカードは使えるが、確かVISAとMASTERだけだったとの記憶がある。オランダ鉄道の切符カウンターを見つけ、いよいよ切符を買う。今日はアイントホーヘン泊まりだが、明日は会議の後アムステルダムに移動して一泊し、三日目にアムステルダムからスキポールと言うルートとした。切符が発券され、内容を確認して間違えが無い事を確かめた。さあ支払いだ。手元に有る唯一の支払い手段であるJCBカードを出した。すると“オッケー”の一言と共に、あっけなく受け付けられた。“おお、神よ”と言わんばかり私は安堵した。

スキポールからアイントホーヘンまでは1時間30分程だ。2006年のスキポールから直接アイントホーヘンに向かう新路線開通までは途中の乗換駅の治安が悪い為にアムステルダム中央駅経由にしていた。その当時は2時間以上掛かったので、随分と短縮された。件の乗換駅で、日本からの出張者が置き引きにあったとの話は枚挙に暇がない程聞いた事がある。

ビールの奇妙な看板 オランダの鉄道も、欧州の多くがそうである様に、駅に改札口という物が無い。切符を買わずともそのままプラットホームから列車に乗れてしまう。しかし、社内では確実に検札に来る。このときに無賃乗車が分かると、結構な罰金を取られるそうだ。
列車内からGSM携帯電話で先にホテルに着いて居る会議出席者に連絡が取れ、事情を話した。これで明日以降、万一現金が必要と成って場合の対応目処が立った。

アイントホーヘン駅前広場のP社創業者像 ホテル到着後、明日の打合せがてら皆で食事をしたが、財布の件では同情され感心され呆れられた。
翌朝、ホテルのチェックアウトが第2の関門ではあったが、スキポールでの乗車券に比べれば気楽である。JCBカードもすんなりと使えた。
P社まではタクシーだが、同じ会議の出席者と同乗する事で済んだ。会議その物は予定通りに進行し、ホストであるP社IP担当VP主催に成る遅めのランチで終わった。件のVPはえらく機嫌が良く、帰路はアムステルダムまで車を仕立ててくれると言い、その言葉に甘えた。



列車でベルギーに向かう二人を除き、私を含む5人で準備された中型のバスに乗り一路ハイウエーをアムステルダムに向かった。途中帰宅ラッシュに掛かりながらも、夕方のJAL便で帰国する二人をスキポールで下ろし、今夜アムステルダムに泊まる我々三人はそのまま残った。バスはアムステルダム市内のそれぞれのホテルに向かったが、市内中心部に近付くに従って運河を渡る橋の為に何時もの様に渋滞の連続だ。

跳ね橋 ある大きな運河に指し掛かった時、船を通す為に橋が通行止めと成り、跳ね上がる場面に遭遇した。仕事が終わり、既に観光客と化した我々はその珍しい光景にはしゃいだ。5分も経ったろうか、船は通過し、橋が元に戻され、バスは橋を渡った所で右折して運河と平行に船を追う方向に進んだ。見ると道は再び運河を橋で渡る様に曲がって居り、バスの右手には件の船が平行して進んでいる。程無くして、橋の手前の信号機が赤に変わり、前方の橋が跳ね上って行く。再び我々のバスは同じ船を通す為に待たされるのであった。この珍しい光景をカメラに収め様と迷宮写真家はバスから降りた事は言うまでも無い。

ホテルがアムステルダム中央駅により近い事も有り、私が一人最後と成った。
その夜は、再び先にバスを下りた二人と合流して夕食を共にした。

さて、翌朝で有るが、最後の関門と成るホテルのチェックアウトだ。予約は海外用に使っているVISAカードで行ってある。当然ホテル側もそのカードで決済される物と思っている。しかしだ、ここで登場するのが、現在唯一の決済手段であるJCBカードで有る。フロント係りが一瞬困った様な顔をしたところから、このホテルではJCBカードは取り扱って居ない様だ。予約に使用したVISAカードは無いのかと聞いて来る。丁寧に、今日は件のVISAカードを持っていない旨説明すると納得してくれ、ホテルのインボイスにJCBカード番号と有効期限を手書きしてチェックアウトが完了した。

私はその足でアムステルダム中央駅に向かい、到着事空港で購入した切符でスキポール空港まで行き、ミュンヘン経由のルフトハンザ機で翌5月16日(水)の朝に成田空港に無事到着した。
見事にJCBカード一枚で2泊4日のオランダ出張をキャッシュレスで完了する事が出来た。
実は、後日談がある。支払いは全てJCBカードで行って居るので、当然クレジットカードの請求も全てJCBから来る物と思って居た。所が、アムステルダムのホテルのみVISAカードから請求が来た。これは私も思いもよらない事で有ったが、金額など全て正しい事から、私の支払いに間違えは無い。念のため、VISAカードからホテルに問い合わせてもらい二重請求等が無い事だけは確認した。

これは、出張先が、カード決裁が発達している地域だったから出来た事と思うが、で有れば多分北米地域でも可能であろう。しかし、この様なはらはらする経験はもうしたく無いので、出発前には財布を確認する。


結婚式のビデオを再編集する

迷宮写真家は写真だけでなくビデオもやります。これは、昔の8ミリフィルムカメラの延長線上に存在するような物で、どちらも始まりは銀塩写真技術を使ったフィルム繋がりです。写真は一コマの静止画ですが、8ミリ映画は連続したコマによる動画です。技術の進歩でそれらが電子化され写真は一足飛びにデジタル化されましたが、8ミリフィルムカメラはアナログビデオを経て現在のデジタルハイビジョンに成りました。

再編集しているのは私と家内の結婚式のビデオです。素材はベータマックスです。まだデジカメなんぞは夢にも出てこず、家庭用ビデオはベータvs VHSの真っ只中の頃でした。何だか年がばれてしまいそうですね。 そもそも再編集をするきっかけは、私の義理の母、即ち家内の母が「母の踊りをもう一度見たいわね。」と言い出した事です。分かり難いので整理すると、家内の祖母が孫の結婚式で日本舞踊を披露してくれ、その姿を家内の母が見たいと言うわけです。

デジタル全盛の今、ビデオの編集も当然デジタル、即ちDVDレコーダかパソコンを使ってやるのが『正しい作法』です。ベータマックスはアナログなので、DVDレコーダで有ればアナログビデオ入力を利用する事で簡単に取り込めますが、手の込んだ編集をしようと思うとパソコンです。
パソコンを利用する場合は何らかの方法でデジタル化しなくては取り込めません。ノンリニア編集画面

DVDレコーダを使ってソース全体をDVD+RWディスクにDVD+VRで記録した物をパソコンのDVDドライブ経由で読み込むのも方法です。これはDVD+R/RWの“双方向互換(Two-way Compatibility) "の利点です。或いは、直接パソコンに取り込む為の小道具の利用です。USB接続のビデオキャプチャー機器などですんなりと取り込めます。現在、パソコン画面上で“ノンリニア編集"が進行中です。

自分の結婚式のビデオを、そのン十年後に再度編集すると言うのは、画面に登場する若い自分と家内の姿を見て何とも言えない気恥ずかしさを感じます。また、来賓の祝辞を年月を経て改めて聞くと果たして今の自分がその期待に応えられたか等、一瞬自分の人生を振返ってしまいます。
編集作業はまだ進行中で、完成にはまだ少々掛かりそうです。カット編集後に画質を調え、音声を調整し、テロップを入れ、プロっぽく仕上げる為にエンドロールも作るつもりです。これらはアナログでやるのは大変な作業ですが、デジタル化された事で誰にでも出来る様に成りました。大したもので、昔はテレビのキー局にしかなかった様な編集室の機能がそっくり一台のパソコンの中に入っているのですから。 最終的にDVD+RディスクでDVD-Videoに仕上げる予定です。しかし、完成したDVDを見てくれるのは、自分たちと一部の身内だけかな?

皆さんも結婚式に限らず、子供の成長記録や家族旅行など貴重なホームビデオや銀塩写真のアナログ資産をお持ちと思います。それを記録したメディア(ビデオカセットやフィルム)の劣化があまり進まないうちにデジタル化する事をお勧めします。また、アナログホームビデオの場合は再生出来るハードが使える事も重要です。自らカメラで撮影したホームビデオや写真は世の中に一つしか存在しない貴重な財産です。

ビデオカセットやフィルムは保管環境で劣化状況は大きく変わります。これはオプティカル技術を使うDVDやマグネティック技術を使うDVカセットやハードディスク等のデジタルメディアも同じです。コンテンツ(データ)自体はデジタルですがそれをメディアに記録する技術はそれぞれアナログ技術なのです。
アナログメディアは記録メディアの劣化がその進行状況に合わせて記録されて居るコンテンツにも反映されます。しかし、デジタルメディアは“誤り訂正"と言う夢の技術のおかげで、記録メディアその物の劣化が有る程度進行してもコンテンツを元の状態に再現する事ができています。でも、記録メディアの劣化が“誤り訂正"能力の限界を超えると全くコンテンツを読み出せなく成ったりしてしまいます。
ですから、デジタル化しても保管に使うメディアのタイプには注意を払う必要が有ります。DVDレコーダやパソコンのハードディスクに取り込んだからと言って安心してはいけません。ハードディスクは大変便利な記録メディアですが、寿命(数年と言われている)が有ります。万一のクラッシュや寿命が尽きたときにはすべてのデータが失われてしまうリスクが有ります。
デジタル化した唯一無二なコンテンツはDVD+R/RWに記録して湿度の低い冷暗所に保管しましょう。何故「湿度の低い冷暗所」かに関しては長く成るのでまたの機会にご説明しましょう。

カメラの無い『47時間』

序章

LAへの一泊三日の出張は金曜日に突如降って沸いた。目的はLA近郊にオフィスを構える某日系AVメーカーの現地法人SVP(Senior Vice President=上級副社長)とのとある件に関する話し合いだ。出発は次の水曜日だ。週末を含め準備期間は四日間も有る。航空券・ホテル・レンタカー全て手配は完了した。いまや航空券はe-Ticketなので予約と発券さえ完了すれば、後は“有効な”パスポートを持って空港に行けばチェックインできる。
はるか昔、おおよそ14年前、まだ航空券は印刷された紙が常識だった頃、前日の夕方にメルボルンへ出張する事が決まった事が有る。その時は、兎に角フライトを確保し、翌日出発時に空港のカウンターで数十万円の航空券をクレジットカードで買った覚えが有る。

今回の旅程は次の様に組んだ。

○第1日目 17:30: NRT出発
  11:33: LAX到着
  12:00頃: レンタカーを借り出す
  12:30頃: ホテルにチェックインし、シャワーと着替え
  15:00: 某日系AVメーカー現地法人SVPとのミーティング
     
○第2日目 10:30頃: ホテルチェックアウト
  11:00頃: レンタカー返却後LAXへ
  13:04: LAX出発
     
○第3日目 16:30: NRT到着
   
  *:NRT=新東京国際空港(成田空港)、LAX=ロサンゼルス国際空港
  備考:時刻は全て現地時間

一泊三日とは言え、NRT出発から帰着まで47時間だ。

第一章(第1日目)

今日は私、迷宮写真家、の誕生日だ。何歳に成ったかって?まあ、それはいいだろう。自分の誕生日を一人で祝う為でもないが、離陸前のウェルカムドリンクはシャンパンを選んだ。それを片手に機内誌に目を通していると、ドアを閉じる音がするのでふと時計を見ると定刻の17:30だ。旅客機はドアを閉めた時刻が出発時刻と成るので、定刻の出発に一先ず安堵した。因みに到着時刻はゲートでドアが開いた時だ。
シートベルト着用サインが点灯され、着席とベルト着用を促すアナウンスが繰り替えされ、アテンダント達が通路を行き来して着用を確認する。程なくして全員の着席とシートベルト着用が確認されたのだろう、機体はゲートをゆっくりと離れ滑走路に向かってタクシングを開始した。通路ではアテンダント達が非常用脱出装置とライフヴェストのデモをしている。
機種は超大型双発ジェットのB777だ。B747に比べるとエンジン音は静かだが、それでも左右のエンジン音は容赦なくキャビン内に入ってくる。ふと気が付くと、左からのエンジン音が聞こえない。何やら“悪い予感”がしたが、昨今の原油高騰のおり省エネの為に止めたのだろうと勝手に思い直した。
機体が止まり、”This is your captain”と機長からのアナウンスだ。混み合うNRTでは良くある離陸の順番待ち説明かと思ったがさにあらず。左エンジンの“スターター”が壊れており交換の為にゲートに戻ると言う事だ。“悪い予感”が的中した。
迷宮写真家とも有ろう者が、一泊三日と高をくくり今回に限りカメラを持って来なかった。このドキュメンタリーを写真なしでお伝えしなくては成らない事が悔やまれる。

ゲートにたどり着いたのは出発から25分程経った17:55頃だ。ゲートまでの間機長は地上の整備班と無線で連絡を取っていたのだろう。“スターター”交換には、ゲート到着後50~60分掛かると知らせて来た。また、“スターター”はさっきゲートを離れる前にエンジンを起動したときまで正常に作動していたと言い訳もして来た。
60分で修理が完了したとして新しい出発時刻は凡そ19:00と成り一時間半の遅れだ。東に向かうので偏西風は追い風だが、この時期風速は差して速くないので大幅な飛行時間の短縮は期待できそうに無い。この分だとシャワーと着替えは諦めて直接ミーティングに向かう事に成りそうだ。
幸い、ゲート到着後降ろされる事はなかったので、“スターター”の交換で修理できると見込んだ様だ。飛んでいても退屈な飛行機、止まった状態で一時間も機内で待たされるのは堪った物では無い。ドリンクのサービスを始めてくれれば気も紛れるのだが、日本の領空を出るまでは免税の酒のカートの封を切れないのだろう。配られた酒のツマミのミックスナッツをミネラルウォーターでつまみながら日本語の朝刊を読んで時間をつぶした。
修理が完了した様で、機長からその旨のアナウンスが有り、再度ドアが閉められゲートを離れた。公式出発時刻は19:00だった。

到着時刻が午前中乃至は午後早い場合、機内ではひたすら寝る事にしている。食前にブラディー・メリーを2杯、食事と共にシャドネーイを2杯いただき、ぐっすり眠った。
流石に10時間を越えるフライトに成ると到着2時間程前に目が覚める。一夜明けているのだが、日付変更線を東に向かって越えた為に同じ日の午前中だ。到着後昼食を取る時間は無さそうなので、到着前に出る朝食は“オムレツ”にした。LAXへの公式到着時刻は13:19、当初予定より一時間46分遅れだ。

16列目と言う地の利を生かし、ドアが開くと共にさっさと降り、一目散でイミグレーションに向かう。幸いまだ列は短く、待ち時間を含めて5分程で入国審査を完了した。私の当った審査官は偉く愛想のいい20台半ばのラテン系のなかなかイケ面なお兄ちゃんだった。何やら順番待ちの行列の方を気にして居るのでどうしたのかと聞くと、嬉しそうに「若い綺麗な娘が来ないか見てるんだ」そうだ。可也正常な人間だが、果たして入国審査官としてはどうなのか、よその国の事ながら気に成った。
3年半ぶりのLAXで有るが、来て見ると思い出す物で、チェックイン荷物の無い私は税関もスムーズに通過し、13:35頃にはレンタカーシャトルバス乗り場までたどり着いた。何時もは5分もせずにバスが来るのだが、こう言う時に限ってなかなか来ない。20分も待った頃にようやくバスが着たが、満員なのですぐ後ろから来るバスに乗ってくれと言い残して行ってしまった。続いてバスが直に来たが、散々手を振ったにも関わらず止まらずに行ってしまった。実に腹が立った。さらに10分ほど待たされ、来たバスに乗る事が出来た。思わずその運転手に経緯を話し文句を言ってしまった。
予約しておいた車にた