「プラスの部屋」という家の住人なので、本来ならば、プラスフォーマットやそのフォーマットを使うことでの利点、アプリなどを、例えば自分の趣味などを交えて、分かり易く紹介するのが、本来の住人としての責任であり、それ故に住まわせてもらっているのでしょうが、もともと技術の知識がないのでそれをいいことに、公の場を、殆ど私小説化している今日この頃なので、ここで一発奮起して!とプラスについて考えました。 はい、かなり真面目に。
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で、やっぱり思い浮かばず、家賃の期限は迫るし、結果的に、さらに低俗な私小説をご披露することとあいなってしまいました。 ごめんなさい。 まぁ、こじつけるとすれば、こんなにひどい幼年、少年、青年、壮年時代を過ごしてきたのに、よく今生きていて、毎日インド人と戦い、「きゃつらの文化を変えてやるぅー!」とまで思えるほど、強くなれたのは、「プラス思考」があったからなのでしょう、というところでしょうか。
今回のタイトルは、「若気の至り」。 「馬鹿気の至り」ともとれるでしょう。 たまに「ホラー」が入ります。 そして、全部実話です。
内科医院のソファと針金(おそらく3歳)
覚えている限りでの最初の若気の至りである。 風邪を引いて医者に行った(多分そうだと思うのだが、理由はわからない)。 何故か待合室ではしゃぎまわる僕。 坂本九ちゃんの歌でも歌って、踊っていたのだと思う。 大人しくしなさい、と諭す母親を無視してソファの上で飛び跳ねているうちに、着地失敗で床にストンと落ちてしまった。 そのときソファの端から出ていた針金に太腿を引っ掛け、全体重をかけて落ちたものだからたまらない。 膝上から腰までが一直線に裂け、床は一瞬にして血の海になってしまった。 内科が外科に早代わり。 病院から病院に救急車で運ばれて、何針も縫われてしまった。 今でもその傷は、人生の戒めのように、くっきりと残っているが、未だに戒められていない人生を歩んでいる。
顔面野球(おそらく4歳)
おじさんたちが、声を上げながら楽しそうに野球をやっていた。 傍で見ていた僕は、なんだかそれが嬉しくて、トコトコと試合中のグラウンドへ・・・
「ピッチャー、振りかぶって投げましたぁ!」
「おっと、これはど真ん中! バッター、渾身の力でフルスィング!」
「打球は、ボールの芯を捕らえ、弾丸ライナーだ!」
「あれ?なんで子供がグラウンドにいるのぉぉ?」
「あの子、嬉しそうに笑って、バッターの方に向かってるよ!」
「キャー!」
「ワー!!」
「グワッシ!!」
暗闇の中で、ぱっと弾け散る花火を見ましたっけ。 それ以来、僕は鷲鼻です。 眉間に触ると、今でも丸いボールの凹みが、くっきりと残っています。
ブランコ殺人未遂事件(5歳)
長男長女にとって、弟や妹が生まれると、母親をとられたと思ってやきもちを妬き、親の見ていない隙に、鼻や口を塞ぐとか、虫を食べさせるとか、程度の差はあれ、彼らを虐めようとするものだ(ですよね?僕だけじゃないですよねぇ??)。 今でもそのときの場面を、映像と感触の両面から、鮮明に思い出すことができるのだが、僕は、ブランコとハーモニカが好きで、その2つに関しては、この世の誰よりも上手いと思っていた。 弟はまだ2歳半。 ブランコもハーモニカも、まともにはできないし、もちろん僕にかなうはずなどなかった。 ある日僕は、団地の広場でブランコを漕いでいた。 空高く、意気揚々と。 羨ましがる弟。 鼻高々の僕。 眩しい太陽。 「太陽がいっぱいだ」と言ったかどうかは、覚えていない。 怖いほどのスピードと頂点での無重力感。
「にいちゃん、ブランコー!」と叫ぶ弟を横目に、得意になって更に高くブランコを漕ぐ僕。 羨望と悔しさで、だんだん涙声になっていく弟。 それを見て更に激しくブランコを漕ぐ僕。 泣きながら訴える弟。 そして突然の衝撃。 「ガヅ!」というにぶい音とともに、弧を描いて空を飛ぶ弟。 激しく振動するブランコ。 周りにいた大人達の叫び声とうろたえ声。 死んだように倒れている弟。 幸いなことに、前歯に当たったので命に別状はなかったのだが、もちろん前歯は全部折れてしまった。 もしも、当たり所が悪ければ、僕は5歳で殺人者になっていた。
グリコのおまけの判別方法(5歳)
毎朝父親を、駅まで見送るたびに、お小遣いをもらった。 いくらだったのだろう? それで毎日(そのように記憶しているのだけれど、本当は毎日じゃなかったかもしれない)グリコのキャラメルを買ってもらった。 グリコのキャラメルの楽しさは、そのおまけにあった。 小さなプラスチックの車だったと思う。 友達が遊びに来ると、彼らもおまけを持ってくるので、どれが自分のものか分からなくなってしまう。 僕は、子供ながらに考えた。 そして最高の方法を思いついた。 お尻に挟んで臭いをつければ、嗅いだときにすぐ分かる。 そうして、何十とあるおまけを、片っ端からお尻に挟み臭いをつけた。 嗅いで見ると確かに遠くに連れて行かれるような郷愁の臭いがした。 そうして3人で遊んでは、臭いを嗅いでおまけを判別した。 その手でおやつも食べたし、指も舐めたし、まぁ動物だと思えば普通のことだけれど、そんなおもちゃで遊んでいた友達のことを思うと、気の毒なことをしたと思う。
ブレーキ(6歳)
僕は、幼少時代から、自転車が得意で、補助輪なしで走行できるようにうなったのも早かったし、ガンガンに自転車を乗り回していたわけです。 越してきた団地は、完成したばかりで、道路はまだコールタールと細かい砂利に覆われていて、そういう道を、ヘアピンで曲がるときのスリルは、たまりません。 自転車ごと、ザザーと横滑りするわけです。 ある日、あまりのスピードで曲がり角に差し掛かったため、さすがにバランスを保てず転倒。 ところが、両手を地面について、起き上がろうとするのに起き上がれない。 いくらやってもだめ。 力を振り絞って起き上がろうとしたら、なんと自転車が持ち上がってきた。 よーく見てみると、ブレーキがお腹に突き刺さっているんですね、これが! おーほほほほほ! 次の瞬間、青ざめました・・・ でも痛くないので、結局医者には行かず、そのまま放置。 いつの間にか、傷は塞がっていたけれど、もちろん今でも4cmくらいの刺し傷が、残っているのでございます。 なんで、破傷風とかにならなかったんだろう??
冬越しのカマキリ(8歳)
カマキリの卵を空き地で沢山拾って、家にもって帰りました。 あの造形美に惚れ込んでいました。 テレビのある部屋に空の水槽を置いてその中に入れ、毎日のように見ていました。 ある朝、母親の叫び声とともに目を覚ましました。 眠い目をこすりながらテレビの部屋に行ってみると、そこには狂ったように泣き叫ぶ母親と、絨毯とカーテンいっぱいに張り付いて蠢く、孵化したばかりのカマキリの幼虫がいました。 部屋が暖かくて、春と思ったカマキリが孵化してしまったわけです。 カマキリの幼虫は糸を出すので、僕には部屋中が綺麗に光って見えましたし、びっしりとカマキリの幼虫で覆い尽くされたカーテンは、大海原の波頭のようにうねり、壮大そのものでした。 もちろん、即カーテンを外し、焼却炉で燃やすよう命じられました。 それ以来、家の中で虫を飼うのは禁止されました。
ゴキブリが嫌いになったわけ(9歳)
神社にある公園で、学校の帰りに遊んでいるとき、ゆうだい円木(ゆうだい、をどう漢字で書くのか分からない)の端から足を滑らせ、そのまま地面に足を着いて戻ってきた円木ごと逆さまに引きずられたことがある。 そのとき、脛の肉を長さ3センチ幅2センチくらいの大きさでこそげ落としてしまい、白い骨が顔を出してしまった。 身体の外科的な傷に無頓着な僕は、そのままたいした治療もせず、日々を過ごしたのだと思う。 もちろん怪我の部分は、しばらくじくじくとして濡れた状態だった。 ある夜、突然目が覚めた。 妙に足右がチリチリする。 痛痒いような変な感覚と、ざわざわするような硬質な感覚。 起き上がって右足を見たとき、僕は全身が凍りついた。 金縛りにあったように動くこともできず、声も出ず、目だけはその部分にくぎ付けになって、その場でおきている状況を見続けた。 3匹の大きな黒いゴキブリが、僕の右足の、怪我をしてジクジクしている部分の汁とその肉を喰らっていたのだ。 長い細い触角をくねくねと動かし、満足げに僕の足の肉を啄ばむ3匹のゴキブリ。 ようやく呪詛を解き放ち、手で追い払ったゴキブリの1匹が、顔に向かって突進してきた。 どれくらいの大声で叫んだだろう。 恐怖のあまりそれからの記憶がなくなってしまっている。 以来、それがトラウマになって、僕はゴキブリだけはどうにもならない。 ムカデもミミズもなんでも大丈夫だけれど、ゴキブリだけは見ることも近づくことも殺すこともできず、身体が硬直し、震えるばかりなのである。 僕を殺そうと思ったらいとも簡単である。 狭い部屋に入れ、その中にゴキブリを10匹も放せば、1時間でまず気がふれるだろう。 怪我はきちんと消毒して治すべきである。
兄弟喧嘩と鉛筆立て(9歳)
「ふざけんじゃねーよぉ!」といって怒る僕。
自分が悪いんじゃないといって、言い返す弟。 喧嘩の理由は分からない。 僕は頭にきたあまり、思い切り床を叩いた。 次の瞬間、強烈な痛みが走り、床を叩いた左手を上げてみると、そこには7-8本の鉛筆が突き刺さっていた。 笑う弟。 慌ててしまいゆっくり抜かなかったので、そのうち1本の芯が折れてしまい、今でも左手の中央に刺さったまま残っている。 喧嘩をして何か行動を起こすときは、周りによく注意をしたほうがいいというお話しである。
鼻糞事件(9歳)
休み時間に窓の外を見ながら鼻を穿っていた。 人差指を抜いたとき、鼻の奥から「ズリ」っと何かか抜けていく感触があり、指先を見るとそこには見事な鼻糞の塊が張り付いていた。 僕は、丸めて弾き飛ばそうと、暫くそれを見ていたのだが、「食べたらどんな味がするんだろう?」という疑問というか、興味が湧いてきて、「いけない」という理性の声を聞きながらも、「パク」っと食べてしまった。 歯に絡みつくネットリ感と程よい塩味。 正直「旨い」と思った。 ところが、僕のその行動の一部始終を、クラスの女の子に見られていたのだ。 休み時間が終わる寸前、彼女と彼女の仲良しクラスメートが僕のところに来て、「さっき鼻糞食べたでしょう! 私達見てたんだよ」と、悪魔の言葉を浴びせかけて、僕を奈落の底に落とした。 「食べる前に注意してよ!」とは言えなかったし、 「人差指で穿ったけれど、舐めたのは中指だ」などと、嘘丸出し、馬鹿丸出しの返事をして、更に笑われてしまった。 それ以来、鼻糞は食べない。
半漁人(10歳)
ある夜、目が覚めると、天井に半漁人が張り付いておりました。 わたしは、2段ベッドの上に寝ておりましたので、半漁人まで、その距離わずか50cm! 「パパー、ママー!」 力の限り叫びました。 両親は「何事か?」と、わたしの部屋にきてくれました。 扉を開ける両親。 なんと彼らも「半漁人」でした。
学校のトイレ(10歳)
僕が小学校のころは、まだ貧富の差が激しく、給食費を払えないような友達もいたし、殆どの子供がお腹に回虫を飼っていたし、僕のように牛乳と肝油を友達からもらって食べて背が伸びたアホもいたし、肥溜めはあったし、そこに落ちる奴もいたし、チョウトンボは飛んでいたし、人口甘味料チクロのお菓子はあったし、駄菓子屋のばあさんが焼く5円のお好み焼きもあったし、立ちションするおばあちゃんはいたし、半漁人の夢は見たし、お十夜で蛇女は出没したし、空き地があって戦争ごっこは流行ったし、なんだかよく分からないけれど、貧しいのに気持ちだけは豊かな時代だった。 まことに原始的馬鹿だった僕達は、休み時間にトイレに行くと、おしっこをかけあったり、小便器の上にどれだけおしっこを飛ばせるか?というような、意味のないことで大騒ぎをしていた。 故に、学校のトイレはいつも臭かった。
誰かが「大」のほうに入っていようもんならもう大変。 その日1日「大」のレッテルを貼られた日陰者として過ごさなければならなかった。 ご多聞に漏れず、僕はそうやって友達をいびるのが大好きだったので、自分だけは決して学校でだけはしまいと思っていた。
ある日、罰が当たった。 その日は、もよおしていたのに、何故か家でせずにそのまま学校に行ってしまった。 でもこれだけクラスメートを陥れた自分が、学校のトイレに行くわけにはいかない。 何を言われ、何をされるかと思うと、背筋がぞっとした。 だから我慢をした。 その日1日、授業も聞くことができず、ただひたすら我慢をした。 何度下っ腹を刺すような痛みに襲われたことか。 何度目に涙を浮かべ空を見上げたことか。 終業の鐘の音。 幸せの音。 僕は一目散に家に向かった。 走りたいのに走れない。 括約筋を絞めてしまうので、オカマの内股歩きになる。 手は何かにすがろうとする。 思わず声が出る。 心臓の鼓動は200を超えたか? 4階の家までの階段の、チョモランマよりも高いこと。 腸がきゅるきゅると音を立てて縮こまる。 一歩一歩、洩れないように昇っていく、そう洩れないように。 やっと家の玄関に辿りつき、チャイムを鳴らした瞬間、僕は「ああ助かった、ああ救われた」と思った。 そして全てを放出してしまった。 あと10歩だったのに。 天国のような幸せが、地獄になった瞬間だった。
母親に叱られ、馬鹿にされ、蔑まれ、下着を洗わされた。 それでも、学校でトイレに行くより、学校で漏らすよりはましだと思った。
お正月の襖(10歳)
待ちに待ったお正月。 コマ回しと凧揚げとプラモ作りが全盛期。 コマには鉄の芯を入れて大暴れ、プラモには石油を仕込んでウルトラ怪獣との死闘を写真で撮って大暴れ。 おもちゃ屋で買った凧の竜の絵に惚れ込み、誰よりも大きな凧をあげたいと思った。 天啓が閃いたのはそのとき。 家の襖に竜の絵を描き、藁紐の足をつけ、北風がピューピュー吹く中、団地の運動場から夕方の空高く舞い上げて、皆で歓声を上げた。 夜になって親から往復ビンタをくらった。 ああ、いつまでもアホな奴。
金沢にて(11歳)
母親の母方の実家は、金沢にある。 子供の頃は、春夏冬の休みがあるたびに、豊中と金沢に帰省していた。 当時は、ウルトラQを始め、ゴジラ、ガメラが流行っていた。 僕はゴジラが大好きで、将来は、テンプターズのショーケンか、ゴジラの特撮技術者か、ファーブルのような昆虫学者になりたかった。 特に影響を受けたのがショーケンで、「精神的ショーケン性及び性格同一障害症候群」を患っていた僕は、毎日「エメラルドの伝説」を歌い、前髪を矢吹ジョーくらい伸ばして、父親のポマードを付けて鏡の前に立ち、歌うポーズを付けては、悦に入っていたので(要するに、全く勉強をせず、歌ばかり歌っていたので)、学校での成績は図工を除き、全て5段階で2になり、「将来は医者!」を信じていた両親は青ざめ、「今ならまだ間に合うかも!」ということで、家庭教師を付けられてしまった。 そのために! そう、そのために僕は、「巨人の星」も、「8時だよ、全員集合!」も、「謎の円盤UFO」も、いわゆる、子供から学生にとっての「土曜ゴールデンターイム!」を、笑って楽しく有意義に過ごすことができなかった。 トホホ。 ショーケンを怨みましたよ、後になって。 まぁ、その家庭教師が超怒級Sの英語オタクで、英語を徹底的に、ほんとうに、いやぁホントウの本当に徹底的に、スパルタ教育してくれたので、今の僕(英語もできるけれど、精神も歪んだ僕)があるわけですけどね・・・
11歳の冬休み。 金沢のお爺ちゃんの家(?)に遊びに行くと、2階の畳の部屋に、火のついたキセルと灰皿が置いてあった。 木枠の窓から、冬枯れの田んぼが見えたのを覚えている。 「キセルの煙=ゴジラの放射能火炎」という天啓が閃き(僕の天啓は、不幸の前兆が多い)、そのときだけ、愛したショーケンではなく、敬愛したファーブルでもなく、恋したゴジラになり、キセルを「スパスパ」やっては、口と鼻から煙を吐き、弟や従兄妹に襲い掛かっていた。 嬌声と奇声を上げて逃げる弟たち。 僕は、念願の「自由奔放に暴れるスター」になって、嬉しさのあまり煙を吐き続けた。 そして突然、意識が飛んだ。 「急性ニコチン中毒(キセルだから、フィルターもないし)」 目が覚めたときの、あの強烈な頭痛と吐き気は、今でも覚えていて、それ以来、煙草は吸っていない。 僕の中から「男の子の妖精」が、一つ失われた瞬間でもあった。 神様、僕の妖精を、2つか3つ返してください! できれば、10個くらい・・・ 20個? もっと失ったかな? あーん・・・シクシク・・・
子供を産みました(13歳)
やはりこれも、学校でトイレを我慢をしたのがきっかけとなる。 今度は、さすがに漏らしませんでした。 が、我慢しすぎて、硬くなりすぎてしまい出なくなってしまった。 13歳といえば育ち盛りの食べ盛り。 1日くらい出なくたって、気にならないし、ひたすら食べて飲みまくる。 翌日、もよおしてトイレに行ってもまた出ない。 それでも身体に起こっている変化や変調など気にもせず、飲めや喰えやで詰め込みつづける。 そんなことを繰り返すこと5日間。 6日目の朝、とうとう下っ腹が張りすぎて痛くなり(本当に狸のように張り出していた)、身の危険を感じて学校を休み医者に駆け込んだ。 笑いながら「浣腸をしましょうね」と先生に言われたとき、ぞっとして、他に方法がないかを聞くと、指で掻き出す方法があるらしい。 下剤をもらって家に帰った。 馬鹿は本当に死んでも治らない。 薬は大量に飲むほど効くと思い、もらった下剤を全部飲んでしまった。 そして爪を切り、便器に座り、医者から教えてもらった方法で、オロナインを人さし指に塗り、息を大きく吸い込んで掻き出した。 固くなったおはぎに指を入れるような感覚。 何十回と掻きだしたのだが、詰まっている量は焼け石に水の状態らしく、いくら踏ん張っても出てこない。 やがて大量に飲んだ下剤が効いてきた。 全身に鳥肌が走る。 「さぁ出るぞ!」と、出た後の開放感と爽快感を予期するのだけれど、いっこうに期待するものは出てこない。 それもそのはず、出口部分が固くなって膨れ上がり、その奥に控えている黒部ダムの貯水量ほどもある液体物をせき止めているわけだ。 絶体絶命。 とうとう心を決め、お尻に大量の紙を挟み、病院に駆け込んだ。 待合室での待ち時間の長かったこと。 周りの人は、僕の青い顔と歩くこともできない苦しみの姿を見て、どう思ったことだろう? 名前が呼ばれた。
そして浣腸。 5分後、僕は死ぬのかな、とも思った。 先生は、どうにもならなくなるまで我慢しなさい、と言った。 もうどうにもならない状態だった。 正気をとどめている1本の線が切れるほんの数秒前に、僕は大きな子供を産んだ。 そして昇天した。
カミキリムシの幼虫(14歳)
昭和40年代には、家の周りに空き地や林や森まであって、倒木がたくさん転がっていた。 倒木には、クワガタムシとカミキリムシの幼虫が埋まっていて、冬、虫が世界からいなくなると、倒木を穿り返しては、幼虫を集めた。 ファーブル昆虫記の一節。 「フランスでは、カミキリムシの幼虫を焼いて食べる、コッススという料理がある」 で、ファーブルを敬愛するからには、やるべきでしょう!ということで、やってみました。 わざわざ焚き火をおこして焼いて。 ジューシーで蝦のようにプリプリして美味しかった。 今はできません。 気持ち悪すぎます。 今ならたぶん、もっと違う表現になるのでしょう、こんなふうに。 「丸々と太った白い指。 膿んで腫れたようなその皮に歯を当てる。 焼けた皮膚が切れて、プチュという音と共に、ミルクのような体液が流れ出す。 木の香りと不思議な甘さ。 吸って中身を搾り出す。 ああ昼下がりの幻想」
夏目漱石の「こころ」とファーストキス(15歳)
Sさんは、武蔵野から茅ヶ崎に越してきた。 武蔵野に住んでいたということは、非常に格調高くおハイソで貴族であり、茅ヶ崎のど田舎に住んでいる汚泥のような我々とは、精神もライフも雲泥の差があった。 まことに大馬鹿な中学生活を追っていた僕などには、彼女の存在そのものが神のようなものであり、「考えることも許されない」というほど生活に違いがあった。 そのSさんは、海岸近くの一軒家に住んでいたのだが、僕が編集長をしていた調査研究部の、連続写真小説のシーンを撮るときには、何故かよく撮影現場に現れ、僕達の悲しいまでのアホな行動を見ては、鼻でせせら笑っていた(と思っていた)。 そのころ僕にはNという親友がいた。 「K・N・Y」というトリオで、いつも漫才をやりコントをやり、催し物の幹事をやり、学校の人気者だった(と思う)。
中学3年生の修学旅行で、京都・奈良に行ったときのことだった。 行きの新幹線で、僕はマハトマ・ガンジーの真似などをして、いつものようにふざけていたのだが、突然Sさんが僕のところにやってきて「コバ、ちょっと話しがあるんだけど」と耳打ちされた。 僕は、憧れのSさんに声をかけられたというだけで、呪文にかけられたマリオネットのようになり、フラフラと彼女についてデッキまで行った。 彼女は、映画のシーンのような美しい仕草で、振り向きざまいきなり僕にこう言った。
「わたしね、コバのことが好きなの。 ずっと好きだったんだよ」
突然の告白に、しかもあのお嬢様のSさんからの、印象派絵画のような告白に、頭が白紙となり、どう答えていいやら全く分からず、薄ら笑いを浮かべながらただ呆然と突っ立っていた。 そして彼女が言った。
「コバはどうなの? わたしのこと好きよね?」
「はい」 それが僕の答えだった。 だって他にありますか?
そして2人は、一瞬にして強制的相思相愛関係になった。
修学旅行の3日間、僕はいつも彼女から見られていた。 その視線を感じるたびに、僕はぽーっと舞い上がった。
帰りの新幹線を待つ京都駅。 今度は、Nが僕に近づいてきた。
「コバ、俺さぁ、好きな人がいるんだよ」
「え?誰? 教えてよ」
「じゃぁ今からその彼女の横を通るから、真横に来たときに手を上げて合図をするよ」
そう言ってNは、すたこらと歩き出した。 わくわくしながら彼の後を追う僕。 向こうのほうでSさんが僕を見ている。 Nはどんどんと進み、なんとSさんの前で手を上げた。 一瞬にして顔がこわばる僕。 Nが戻ってきたとき、作り笑いで答えていた。
「いいじゃない、お似合いだよ。 君ならきっと上手くいくよ」
Nが満足げに姿を消してから、僕はSさんを呼び出し、ことの始終を語った。 Sさんは言った。
「N君に告白ても、断ればいいんでしょう」
そう、僕は親友を売ったのだ。 Nは、はたしてきれいさっぱりと、Sさんにふられ、Yさんという美しい彼女が現れるまで、一人身の寂しさを味わった。 僕は、罪の意識に苛まれながらも、舞い上がる恋に心奪われていった。 その年の夏、僕は夏目漱石の「こころ」を読んで、死ぬほど驚いた。 自分を重ね見たような気がした。
秋になり、中学校最後の文化祭があった。 僕は、理科部の催し物の総指揮をとりながら、体育館でのコンサートにも出演していた。 理科部の出し物は「火山」というもので、理科室中を全てジュラ紀のパノラマにし、そこにいくつもの火山を作って砂糖を入れ、硫酸をかけることで溶岩を噴き出させる、という極めて危険なものだった。 もちろん天井からは、解剖に失敗した鳩の剥製が吊られ、水酸化ナトリウムで溶かされた蛙の骨格標本などが、パノラマのあちこちにちりばめられていた。
なぜ、ここにつながるのかは分からないのだけれど、文化祭が終わり、男3人、Sさんを含む女3人で、友人の家に集まり、「コックリさん」をやった。 出てきたのは外人の女の子で、交通自殺をしたとのことだった。 あのときの恐怖は、今でもよく覚えている。 今考えると、Sさんのトリックだったのだと思う。 彼女は、信じられないほどの読書家で、ありとあらゆる本を読んでいた。 本の解説を始めると、本の内容のみではなく、その背景や作家のことについても、評論家のようにすらすらと語ることができた。 僕が「こころ」などという本を読んだのも、ファーブル昆虫記を読んで改心したのも、それから哲学なんかにはまり込んで、カミュに傾倒していったのも、Sさんの影響である。
6人で川辺を散歩していたとき、僕はいきなりSさんに手を握られた。 フォークダンスくらいでしか女の子の手など握ったことのなかった僕は、飛び上がるほど驚いたが、Sさんの自然でありながらも「指導をしているのよ」という圧力感に気圧されて、おとなしく手を握られるままになっていた。 友人の家に戻り、僕達2人は壁に背を持たれかけさせて、金色に輝く夕日を正面から受けて床に座っていた。 手はつないだままだった。 彼女の頭が僕の左肩に触れたとき、ごく自然に唇を重ねあった。 彼女の顔が、金色の夕日に照らされて、小麦色に輝いていた。 僕のファーストキスの味は、だから秋の金色の夕日の味なのだ。 残りの友人4人に、ばっちり全てを見られていた。 翌日、学校はこの噂で大変なことになっていた。
高校時代そして辛い学生時代(16-20歳)
Sさんの言いなりで自分の意志もなかった僕は、案の定16歳になってあっさりと振られ、その悔しさを何故か勉学にぶつけてしまったのですね。 で、高校時代、そして学生時代の思い出や若気の至りはあまり記憶にないのです。 冬でも短パンで体育の授業を受けていたことくらいかな? フォークソングを卒業し、イエス、クリムゾン、クィーン、ツェッペリンが現役バリバリの時代で、この時代に生きられたことを幸せに思います。 ちなみに僕は、髪の毛が腰まであり、マントを着て団地を歩いていましたっけ。
初めての酒望郷熱海編(20歳)
僕が、正社員として勤めた最初の会社は運送会社だった。 40歳になるまでは、それは恥辱的なものだったのだけれど、ある日お世話になったヘッドハンターの一人が、「あなたは、この運送会社の経験があるから価値があり、だからこそあなた自身が頑張って、今ここにいるのだということを誇りに思いなさい」と言われたわけですね。 そのとき以来、「最初の仕事は運送会社です!!!」と「!マーク」を3つか4つつけるくらい、自信を持って、誰も尋ねていないのに、自ら胸を張って言うようになった。 困ったものです。 で、今はインドの会社・・・ これって何?
さてさて、これは、社員旅行で、熱海に行ったときの出来事。 宴会の席で、童貞(当時)で、しかもウブ(当時)な僕は、かっこうの餌食になるわけです。 毛むくじゃらのおじさんたちに、「小林飲め!」と脅されても、強要されても、「いいえ私は飲めません、父親譲りで飲まないの、飲んだらあかんのやぁ、身体が受け付けへんねん、酒なんて麻薬と一緒や、ぜったいにぜーったいにじえったぁーーいにぃ飲まへんでぇ、いやん!」と頑なに断っていた。 そこまで頑なに拒めば、さすがに無理強いはされなかったが、「飲まないなら芸をしろ!」ということで、赤いネグリジェ、赤いレースのブラとパンティ、金髪のかつらを身に纏い、真っ赤な口紅を付け、腰をフリフリ、妖しく踊らされた(これでも昔は綺麗だったんですよ・・・)。 何人かのおじさんは、酔っていることもあり、本当に興奮してしまって、僕の争奪戦を始めた。 ここで童貞(当時)を失ってなるものか! おやじと関係(当時、あっ今も)を持つわけにはいかず、「あら、いややめてぇ」と嬌声をあげながら逃げ惑い、優しそうなおじさんにすがり付いては助けを求めた。 「小林君、ずっとうちにいてくれるよな!」 社長にそう言われてしまうほど、おじさんたちに可愛がられていたんですよ(当時)。 うふふ。
事件は、そんなアホなことをやっていた直後に起こった。 宴会場の照明が、いきなり消された。 「何か始まるのかな?」と思っていたら、紫ピンク色のライトが、障子の向こうに現れた。 怪しげなメロディが鳴り始める。 そして入ってきたものは、僕より妖しい白のネグリジェを着た、化粧の濃いおばさん二人だった。 おじさんたちからは、ヤンヤヤンヤの大合唱。 「何が始まるのか」を、咄嗟に判断した僕は、「彼女ともまだなのに、見てなるものかぁ!」と、部屋から逃げ出そうとした。 ところが、僕がまだ肉体的童貞精神的処女と知っているおじさんたちは、「オラオラ、今さら見たくねぇじゃねえよ」と言いながら、逃げる僕を捕まえ、羽交い絞めにし、畳に押し付け、特等席(舞台まで約1mの極めて松席的至近距離)で、その淫らなショーを見せられることになってしまった。 目を固く閉じても、時計仕掛けのオレンジのようにこじ開けられ、流れてくる初めての強烈な映像を、そのまま受け入れるしかなかった。 舞台が終わったとき、そこには壊れた玩具のような自分が転がっていた。 そして僕は、酒に手を出しましたよ、ええ、自分から。 それは、初めてにして、初めての自暴自棄の酒でございました。 おーいおいおい・・・しくしく・・・ 飲んだものはビールで、結果は言わずと知れたこと。 後で、あれを「花電車」と呼ぶのだと知り、一生、彼女には黙っていようと思った。 そして、酒だけは今後一切やらないと、固く、そう固く自分に誓ったのだった。
飲み歩きの毎日(21歳―40歳)
永遠の 禁酒誓った 翌日に 酒で忘れる 誓いと苦悩
こうして、僕の中から妖精がいなくなってしまいました。
ワインと乾燥イチジク(40歳)
ワインと乾燥イチジクを一緒にやるときは、イチジクをよーく噛み砕いてから咀嚼すること。 何よりも、その場合泥酔しないこと。 何故かって? ユニットバスの床を溶かして、穴を開けたくなかったら、これは鉄則です。 家に帰り、風呂場で力尽き、朝起きたら、ワインと胃液をたっぷり含んで、5倍くらいの大きさになった、えび茶色の大きなイチジクが、風呂場の床に2-3つ「どろり」と落ちている。 その形どおりに、ユニットバスの床が溶けて、穴が開いているというわけです。 胃液って、とぉーっても酸が強いということを、悟った瞬間でした。
夜風(40歳)
6月の湿った夜でした。 蛍でも鑑賞しようと、南禅寺から哲学の道を散策し、宿泊する真如堂まで黒谷を抜ける山道での出来事です。
夜露が朧月の光を溜め込み、ツユクサの葉の上で消えかかる蝋燭のように揺れていたり、自分のいるところだけ虫の音が消えて、移動するとまたすぐに鳴き始めたり、何か鳥のような声が、静まり返った森の中を響かせているのを聞きながら、1本道を登っていました。 後ろの人影に気づいたのは、そちらの虫の音が消えたので、振り返ったときでした。 女性のように見えました。 相手も私を見て立ち止まっています。 全身に鳥肌が立ち、とにかくこの道の先、すぐ先にある外灯のところまで行こうと、逃げるのを悟られないように、歩調を速めて坂道を登り始めました。 ところが、足が思うように動きません。 振り返ると女性は、すぐ後ろまで迫ってきています。 「ああ、もうだめだ」「このまま冥府に連れて行かれても仕方ない」と、外灯を見ながら立ち止まっていると、その女性は、私の右横を通り過ぎていきました。 そしてまた虫の音が鳴り始め・・・
FちゃんとKちゃん(41歳)
被害者: FちゃんとKちゃん
目撃者: K嬢(Fちゃん、Kちゃんの同僚)
日時: 10月末の寒い日
場所: 西麻布のメキシカン
死因: 急性アルコール中毒と泥酔夜間屋外放置
殺害方法: テキーラで山手線ゲーム
予期せぬ問題: 二人の上司が、沖縄の式典より急遽帰京
被害者の証言: Fちゃん「恥ずかしくて、彼女には話せません」、Kちゃん「凍え死ぬかと思いました」、Fちゃん「でもMickさんは悪くありません」、Kちゃん「はい、Mickさんは無実です」
加害者の証言: 「顔をいくら叩いても反応がなく、そのときは、ついに人を殺してしまったと震えましたが、病院に搬送されて、容赦ない看護婦さんに、尿道管を挿入される際、狂ったように暴れたので、大丈夫だ!死なない!と確信しました。 「Kちゃんのほうが、むしろ心配でした。 あの寒い夜、上着も鞄も店に残して、消えてしまったのですから」「でも、これで、彼らは僕の奴隷だと思いました。 だから、僕に不利な証言はしないでしょう」
K嬢(41歳)
被害者: K嬢
目撃者: M氏、Y氏、Fちゃん、Kちゃん、H嬢
日時: 12月末のとても寒い日
場所: 新橋烏森口のメキシカン
退散方法: Y氏のおんぶにより、タクシーにて自宅へ搬送
死因: 泡吹き型急性アルコール中毒
殺害方法: 褒め殺し
事前対応策: 「打倒Mick!」を誓い、社員研修にテキーラを持ち込んでの、徹底的なスパルタ「山手線ゲーム」特訓
対戦前予測: K嬢の圧勝
勝負結果: Mickの楽勝
被害者の証言: それ以来、公の場に姿を見せず
加害者の証言: 「みんなが、彼女は強いと言うので、どんどん進めただけですよ」
Fちゃんの証言: 「いやぁ、酔っ払って泡を吹いた人を、始めて見ました、すごかったです」
M氏の証言: 「うーん、今回も負けてしまったか! 次は、誰を刺客に送ろうか?」
K嬢(41歳)
エレベータで4Fを押し、扉が閉まり際に、白い服を着た女性が歩いてきたように見えたので、「開」を押そうとしたのだけれど、タイミングが悪く、エレベータは動き出してしまった。 2Fを通過するとき、やはり白い服を着た女性が待っていた。 「2Fくらいからだったら、階段で降りればいいのに・・・」 私は、なんとなくそんなことを考え、3Fを通過するとき、そこにも白い服を着た女性が待っていた。 私は、咄嗟に「やばい!」と思った。 これでもし4Fに白い服の女性が待っていたら気絶する、と思った。 幸い4Fに着いたとき、そこには誰もいなかった。 胸を撫で下ろし、通路を歩いていると、後ろに人の気配がする。 振り返ると、そこには白い服を着た女性が立っていた。 私は、あまりの恐怖に立ち竦んでしまった。
「ごめんなさい、忘れ物をして階段を上がってきたんですけれど、脅かしたらいけないと思って、お声をかけなかったんです」