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Mickの部屋(エピソード12)

「大家さん、本当にすみません・・・」リカちゃんが小指の先を口の端で噛んではにかみながら、月光菩薩のように腰をくゆらせシナを作って、いかにも申し訳なさそうに言った。 僕は、その人懐っこそうに見える笑顔と、相手を真っ直ぐ見つめることで醸し出す誠実そうな目力に自信があった。 「どうだ、これで文句は言えないだろう、けへへ」頭を下げて詫びる振りをし、顔を隠しながらほくそ笑んだ。 仮病は使ってしまったし、忙しい忙しいと言いながら、いつもきっちりと飲み会にだけは出席しているので、今回は多忙という言い訳も使えず、だからといって何度も父親を殺したり、母親を病院送りにするわけにもいかず、「だってママン、太陽が眩しすぎたから」とか「お庭はシャボン玉の中には入れません」などとカミュやコクトーの無邪気を気取るわけにも行かず、いよいよもって絶体絶命・・・ で、詫びる美学を突き詰めようと考えたわけですね。 どうですか、この潔さ。 さすが仮面の天使。 話術のマイスター。 おほほほほ。
「Mickさん、いいんですよ、どうせ約束守らないことは分かっていましたから。 どんな言い訳が出てくるか楽しみにしてたんです、ふふふ。 今回は、仮面勝負に作戦変更ですね? でもね、今度のテーマは+Allianceの思い出です。 ずいぶん前に釘をさしましたよね、私小説ではありませんよと。 私の隣に、2−3歩歩くと約束を忘れる人がいますが、まさかMickさんはそうじゃないと信じています。 それに前回、あれほど大作を書く!と公約をしておられましたよね、証人も大勢います。 そして今度こそ更生して立派な人間になるとも!」大家さんに言われた。

仮面の堕天使、話術のバスターに成り下がった瞬間だった。 大家さんのバカ・・・
言い訳の私小説を少し書き始めてしまったので、仕方ないからそれも載せちゃいます。

チワワ

「あー、今日も疲れた」 ここのところ残業が続いていて、もうクタクタだ。 コンビニで買った弁当を温めて食べる気にもならず、駅近くの焼き鳥屋で飲んで食べた。 かつてはそれなりに綺麗であっただろう60歳近いママに、勧められるまま3合ほど飲んでしまい、ほろ酔いでマンションまで歩いた。 エレベータに乗ったとき、小さな茶色のチワワが入ってきた。 飼い主がすぐに来るだろうと思って、開ボタンを押して待っていたのだけれど、飼い主は現れない。
「ごちゅじんちゃまはどうちちゃったの?」僕は赤ちゃん語でそのチワワに聞いた。
「おいおっさん!グズグズしてんじゃねーよ、なぁにがごちゅじんちゃまだよ、けっ! 笑わせるんじゃねぇ、バーロー! 早く6階のボタンを押せってんだ、間抜けの腰ぎんちゃく!」チワワに怒鳴られた。
僕は「はい」と答え、震える指で6階のボタンを押して差し上げ、3階で降りるとき、「おやすみなさい」とご挨拶申し上げた。
「3階くらいでエレベータ使うんじゃねぇ、メタボリックのだあほ!」チワワにまた叱られ、僕は「ひっ」と叫んで飛び上がり、内股で走って家に逃げ込んだ。

彼女

満員電車の中でも、彼女を見つけ出すことは難しくはなかった。 通勤時間の群集が鰊の群れのように大きな塊になって移動する駅の出口でも、彼女を見失うことはなかった。 彼女がエスカレータに乗ったとき、気づかれないように、6人分ほどの間を空けて後ろについた。 これくらい距離のあるほうがいいのだ。 エスカレータの途中で、わざわざ空けた間隙に、むさ苦しそうな男が割り込んできた。
「くそ、邪魔だ! いや待てよ、もしや、まさかこいつもか?」
彼女がエスカレータを降りる直前、靴紐を結びなおす振りをして屈み、上を見上げた。 前の男も鞄を下に置いて腰を屈めている。 「やはりな」彼も同業だった。
見上げれば 男心を くすぐれる 女子高生の 超ミニ姿

レインコート

6月の雨の日。 僕はグレーの雨合羽を着て、自転車を漕ぎ、本の配達をしていた。 安い時給だったけれど、本が好きだし、気楽だし、東海岸通りの瀟洒な家に本を届けたりすると、有閑マダムたちが焼いたピロシキやクッキーをご馳走になるとか、役得にもありつくこともできた。 そぼ降る雨の中、神社の横を通りがたったとき、黄色いレインコートを着た男の子が、鋏で生垣の葉っぱを切っていた。 切り葉(そんな言葉があるかどうかは分からないけれど、切り紙のようなもの)でもしているのかな?と思い、それに一人ぼっちで寂しそうだったので、近づいて聞いた。
「何を切っているの?」
男の子は、実はニコニコ笑っていて、僕の問いに対して満面の笑みで答えた。
「でんでんむしの目玉だよ!」

Memory in +Alliance

1996年からの長きに渡り、他の+Allianceメンバーは、「フォーマットと互換性」の布教活動をしてきているので(僕は、ひそかに彼らをエヴァンゲリオンと呼んでいる)、また光ディスクの黄金期を経験してきているので、海外などでの会合やセミナーなど、想い出は数々あるのでしょうが、あっイヤミを言っているわけではありませんよ・・・僕のこの数年間の経験では、足元にも及ばないため、別の観点、要するに自らの光ディスクと係わりの観点から、想い出を書こうと思っています。 「おい!結局私小説じゃないかよ!」などと虐めないでくださいね。

僕が最初に光ディスクと出会ったのは、ある会社の完成品調達部門(OEM部門)に入社したときだった。 1987年のこと。 生命保険会社向けのシステムで、顧客の契約書を、なんと直径14インチもある、しかもガラス製の光ディスクに、スキャナーで取り込まれたイメージを保存するというものだった。 契約書という証拠品をデジタルにしてしまうのだから、画期的なことだったし、受けた生命保険会社も、すごい決断をしたものだと思う。 当時のディスクは、カートリッジに収められていた。 ダミー品としてもらったカートリッジを分解して、中のディスクを見たときの衝撃は今でも忘れられない。 七色というか、ダイヤモンド色というか、得も言われない輝きを放っている。 このディスクを家に持ち帰り、家族や友人に見せびらかし自慢し、夜には月や星を映して、「僕なら宇宙の謎が解けるだろうか?」「愛しいあの人は今何をしているのだろうか(あっ、やばい、既に結婚してた)」などと考えながら、煌めく光の中に幻想と想像を巡らせていた。
その後、複写機やプリンタの相互OEMビジネスなども担当となり、幻想ではなく現実の厳しさに翻弄され、また多くのことを学び、ジュリアナ東京真っ盛りの時代、殆ど家に帰らない生活が続いた。 でも楽しい時代だった。

次に光ディスクに出会ったのは、CDRだった。 上司から、以下のような相談があった。

上司: 「Mick、君は性癖がアブノーマルだから病院に行ったほうがいいよ」あっ、間違えました、「Mick、君は人を騙すのがうまいからセールスやったほうがいいよ」あっ、また間違えました、「Mick,性格が頑固で思ったことをやり通すから、ちょっと新しいことをやってもらいたいんだけれど」
Mick: 「なんでしょう?」
上司:  「マイクロフィルムを殺してくれない?」
Mick:  「はぁ? だってマイクロフィルムは我社の大黒柱では?」
上司: 「笑いながら人を殺すのがうまいって自慢してたじゃないか。 CDRに置き換えて欲しいんだ。 書類だけじゃなくて写真とかも」
Mick: 「営業ってことですか? 経験もありませんけど・・・自信ないです」
上司:  「部長にしてあげるよタイトル」
Mick: 「はい、受けます! 今受けます! すぐやります! もう昨日からでもやります!」

で、受けてしまった。
待っていたのは、地獄だった。 しかも社内地獄。
部長の座に目が眩んで立ち上げた部署名は「システム営業部」。 ところが所属は、マイクロフィルムを販売する事業部内。 マイクロフィルムを売ること30年、業界の生き字引、鬼の営業といわれた事業部長が上司。 僕の部下は年上、しかも元マイクロフィルムのバリバリ営業。 周りはみんな敵。
「おまえか、おまえがマイクロフィルムを殺すために送られた刺客か!」
「営業の経験もろくにないくせに、なぁにがシステム営業じゃい!」
「ぜーーーーったい協力しないもんねー」
しかも、しかもですよ。 売る商品は、高速スキャナーとCDライターで、今なら両方で10-20万円もあれば買えるだろうに(スキャナーがもっと高いかな?)、当時の値段は6倍速CDライター330万円なり! 分速90枚スキャナー1100万円なり! CDRメディア1枚2700円なり! 目の前真っ暗。 敵だらけなことも大問題なのに、どうやってこんなもの売るの? でも、売りましたよ。 どう売ったかは、映倫と放送コードに引っかかるのでここでは書けないけれど、とにかくまずは部下と毎日話し合い、殆ど毎日酔わせて潰して介抱し「こいつに逆らったら急性アルコール中毒で死ぬ」と思わせ強制的に奴隷にし、「飲み明かした後の夜明けの牛丼」を合言葉に、デジタルに変革しなければならない理由をとうとうと説明し、次に顧客を巻き込み説得し、顧客からマイクロフィルムグループを逆に説得してもらうという作戦。 結局この頃も家に帰らない日々だった。 当然、家庭は壊れたけれど・・・ って、これ書き始めると本当に私小説になるのでやめておきます。

ある日、上司からまた相談を受けた。

上司: 「Mick,ご苦労様、頑張ったね2年間」
Mick: 「はい、死に物狂いで頑張りました、Sir! 敬礼!」(まぁ、確かに頑張った)
上司:  「そろそろ戻ってくるかい?」
Mick:  「はい、ぜひ、よろこんで、General!」 と、同時に手のひらをスリスリしながら小声で「タイトルは部長のままですよね、お代官様?」(もうこのときは、涙でウルウル状態、そのくせに取引をしようという魂胆だけはある)
上司: 「君は外国を飛び回るの好きだよね?」
Mick: 「はい、大好きであります、閣下! なんなりとご所望ください、いつまでも閣下についてまいります!」(いよいよ世界戦略担当かぁ!?)
上司:  「よし! じゃあAPR(アジア・パシフィック・リージョン)で、CDRとスキャナー売ってもらおう」
Mick: 「・・・・・(言葉の理解ができない)」
上司: 「タイトルは部長でいいよ」
Mick: 「はい先生(あんまり嬉しくない、でも仕方ない)」

で、飛び回りましたよ、アジアを。 日本→韓国→香港→シンガポール→オーストラリアを1週間で回る、いわば環太平洋暖流回遊魚コースを毎月1回。 日本でも数社とOEM契約を結び、香港・シンガポールでは、廃ビルか!と思うようなところまで、飛び込みセールスのように営業し、CDR上がり調子の時代だったこともあり、それなりの顧客とビジネスをとることができた。 このころ、我が朋友、技術開発担当の髭もじゃBrianと出会った。 技術的な知識のない僕は、Brianを連れて営業ドサ周りをすることで、相手をロジックでねじ伏せたということです。 ある出張で、大きな交渉が成立し、そのお祝いにと、シンガポール、ボートキーにあるタイ料理屋で「世界一辛いトムヤムクンを出してくれ!」と頼んだのだけれど、翌日の飛行機で、お尻を座席に乗せられないほど、出口がホットで痛くなったのが、今では最高の思い出の一つだ。

次に光ディスクと出会ったのは、今の会社に入ってからだった。 友人とこんな会話をしていた。

Mick: 「ねぇねぇ、Brianがインドの会社に入ったって知ってる? 馬鹿だよねー、何を好き好んでインドなんかに・・・」
友人:  「ホントだよなぁ、あり得ないよね」

そんな話しをしていて1年後、Brianから連絡が入り、東京に行くから会おうと言われた。 品川のホテルのロビーで待っていたら、Brian以外にインド人と思わしき人が3人ついてきた。 昔話などをして、楽しく一緒に食事をして、別れ際にBrianがインド人に聞いている。

Brian 「どう思う?」
謎のインド人:  「いいと思う」

その翌週でした。 「面接も終わったし、うちに来ない?」と、Brianから連絡があったのは。 何、面接ってぇ? 騙されたってこと?
僕の最初の答えは、もちろん「嫌だよ、インドなんて」だった。


Brian: 「とにかく一度工場に来てみてよ、費用は全部出すし」笑っていても目が真剣だ。
Mick: 「えー、だって入社しないこと分っていてそれはできないよ」行かない理由を考えてる。
Brian: 「まぁ、インドに観光に行くつもりでさ」髭が細かく震えている。
Mick: 「うーん、週末ならいいかな」もう断りきれなくなっている。
Brian: 「じゃぁ、決まりだね。 再来週末にインドでね」勝ち誇った顔。
Mick: 「うーん、分ったよ、でも本当に入社しないからね」諦めの境地。

デリー空港についた瞬間、絶対に絶対にぜーったいに働かないと思った。 空港は物乞いだらけ。 ターバンを巻いた運転手がイミグレーションを出たところで待っているからすぐ分ると言われ安心していたら、おいおい全員運転手がターバン巻いてるジャン!!ばか! 誰が運転手か分らない。
見渡す限りの物乞いとオートバイとリヤカーと牛と駱駝と猿が蠢く道をひた走り、やっぱり絶対働かない、働けないと暗くなり、工場を見て、本社を見て、社長に会ったらこう言われた。

社長: 「で、Mick、いつから働けるの?」当たり前という顔をしている。
Mick: 「へ? だって何にも決まっていませんが・・・」もう必死。
社長: 「Mickの好きなようになるよ、で、いつから?」明日からでもいいよ、という言い方。
Mick: 「考えて返事します」日本人的なNOを伝えたつもりだったんだけれど・・・

結局、Brianと社長の熱烈で強烈な勧誘に負け、入社することになった。 そのBrianはもういない、ひどくないかい?! 以来、毎日インド人と戦っている。

さて、+Alliance。
僕が今の会社に入社したときには、光ディスクというのは、存在意味や文化よりも先に、また品質とロイヤルティよりも先に、価格ありきの世界になりつつあり、シェアをとることがビジネスの意味になりつつあった。 今もそれは変わらないのだけれど、というかもっと激しくなっているのだけれど、+Allianceの物理互換グループ(PCG)のCo-Chairをさせていただいたことで、いかに品質と互換性とフォーマットが大切かを再認識できたことが、そして少しでもその浸透に貢献できたことが、最大の自分にとってのベネフィットだった。 そして何よりも、本来最初にあるべき、光ディスクの存在意味、すなわち「想い出を記録する、事実を記録する、永遠に残す」という、僕自身が写真フィルムの時から抱いていながら忘れてしまった記録メディアの本当の価値を、もう一度思い起こさせてくれたことが、何よりも+Allianceでの最高の出来事で想い出だ。

▼▼以前の記事はこちらからご覧ください。
Mickの部屋(エピソード1)

これは、私がまだ青二才だった頃の話でございます。
翁Mじいという方がおりました。 私がさらに若かった頃、まだ世間というものを知らないときに、一度、一緒に天竺に旅立ったことがございました。 天竺には「決まりごと」「常識」という概念がなく、全ての人の中に神が宿り、すなわち全ての人が神であり、意の向くままに生きる人々の暮らしがございました(単に血液B型人口が、90%以上を占めているからだというという、全くもって説得力のある意見もございますが・・・)。  「全ては無に帰す」という仏様の教えは、天竺の旅で目の当たりにし、少しだけ自分が成長したようにも感じられました。 もう一人同行されたお坊様は、かの地タージマハルからの帰りに、厠休憩で立ち寄った怪しげなお店で、昔懐かしいミリンダを飲まれました。 栓を抜いたら、口に錆がべっとりとついているにもかかわらず、「我が仏の道を絶てるものはいない、ナンマイダブー」と唱えられ、一気に飲み干されました。 私は、臆病、かつ冷ややかにその全てを観察しておりましたが、案の定、天竺の空港で、発熱され、「水のごとく」お腹を壊され、仏の道ではなく、厠への道を、まっしぐらに突き進まれる結果となってしまいました。 アーメン。
そのような、ほろ苦くも、多少甘美で臭い想い出があったためか、ある日、翁Mじいからお電話をいただきました。 「天竺の会社で、プラス物理互換性のチェアをやってみてはいかがかな?」 通訳を生業の一つとして生きてきた私には、翁Mじいのその言葉は、こう聞こえました。 「天竺の奴らは、マイナスなんだからよー、まったくもって協調性がねえから、表に出てきて、一度は世間を知るためにも、調整役をやったほうがいいんじゃぁねーのかい?」 私は、それまでに1年ほど、天竺との聖戦を行っておりましたので、全面的絶対的確信的非の打ち所がなく完璧に同感で、早速、天竺に遣いを送ったのでございます。 結果は、予想とは大きく違い、「天竺は従う」でございました。  「これで、天竺も、少しは変わってくれるだろう。 最大積載量は、積めるだけ!じゃなくて、機能的、かつ法律的に認められた積載量だということにも気づいてくれるだろう。 合意をしたのに、最終日になって、ここ変えたいなぁ、いいかなぁ?だめ?そうだよねー。ダメもとできいてみただけ、テヘ!なんて言わないようになってくれるだろう。  便りのないのはいいことだ!なんて言って、便りもしなけりゃ仕事もしてないなってこともなくなるだろう」と、私は、心から期待をしておりました。 そして、名前を登録する当日。 「誰が担当か教えて欲しい」という私の問いに対し、「天竺からコンスタントに行くのは大変だし、君はまだ世間を充分知らないから、君がチェアをやるのが最良の決断だと思うよ。 必要なサポートは全面的にするから」という答えが戻ってまいりました。 通訳をさせていただくと、「俺たちゃぁ毎回倭の国に行くほど暇じゃねえんだよ! 言いだしっぺが責任とりな。 拝み諂えば協力すっぺ」ということになりますでしょうか?
その日から、私はきっちりと責任を取り続けております。

Mickの部屋(エピソード2)

MumbaiでのDVD+RW Allianceセミナーにやってきた。 インドでのセミナーは、2005年12月のデリーでの開催以来2回目。そのときも開催にこぎつけるまで、担当者が、それはそれは大変な苦労をした。今回も、予期していたとはいえ、開催に至るまで、諦めと怒りと妥協とを幾度となく繰り返し、くじけそうになる心に対して、「絶対に成功させるのだ」と活を入れ自らを鼓舞し、結果、セミナーそのものは功のうちに幕を閉じた。「インド人と日本人は、カルチャーが違うのだ」の一言では、決してくくれない苛立ちは、実際にインド人と仕事をしてみて、初めて身に沁みて感じることができる。 Mumbaiという土地の持つエネルギーと大いなる混沌も、とてつもなくすさまじいものがあり、表現してみたいと思うのだけれど、「苛立ちに振り上げた拳」と「爆裂するカオス」の話は、またの機会に書くとして、今回は、私自身が、このセミナーを通して目を覚まされ、もう一度少年に戻れるかもしれないと思ったことについて書いてみたい。

「記録メディア」をひとことで述べるとしたら、皆さんはどう定義するだろう? 私の定義はこうだ。

「思い出を残す、事実を残す、そしてそれらをシェアする媒体」

子供の頃から写真が好きで、いつもカメラを持ち歩いていた。趣味の一つの昆虫採集にも、カメラを欠かさずに持っていった。友達がオオムラサキという蝶を採ったときの悔しさは、交わした会話や蝶の飛ぶ音(オオムラサキは、蝶の癖にバタバタと羽の音をさせて飛ぶ)、初夏の草の香りに至るまで、その写真を見るたびに、羨望と嫉妬の複雑な甘美さを伴って、今でも鮮明に思い出すことができる。カセットテープレコーダーもよく持ち歩いた。初めて結成したフォークバンドの合宿では、一つの曲が完成するまでのプロセスが、中学生の無知で笑える下ネタ話を含めて録音されていて、出来上がった曲を聴くよりも、そのときのことをより鮮明に思い出させてくれる。会社を数社変わっていることもあり、引継ぎ資料を兼ね、自分自身が仕事でのプロセスと軌跡を忘れないために、それぞれの会社で成してきたことを、紙を含めた記録メディアに残してきた。「思い出」や「事実」は、コンテンツであり、確かにそれらにこそ意味があるのだけれど、数十年という人生や会社、社会の時間軸を考えると、むしろ重要なのは、コンテンツではなく、それを「残すこと」そして「シェアすること」だと、私は思っている。残す方法とシェアする方法があれば、コンテンツは再生され、思い出も事実も甦る。

言葉も文字もない時代、人類の最初の記憶媒体は、自分の脳そのものしかなかったはずだ。人それぞれ、違った、または同じ記憶や経験を持っていても、それをシェアする方法はなく、記憶はエントロピーの増大とともに無秩序状態になっていく、すなわち薄れていく。即ち、コンテンツを残す方法は、壁画くらいしかなかった。やがて、言葉が生まれ、文字が生まれ、紙など、それを残すための媒体(メディア)が現れた。ところが、現代になり、記録された情報は、それ自体が可視、或いは可聴、可触、可味、可嗅でない限り、情報を人間の五感で理解できるもの(アナログ)に変換できなければ、情報を伝えることすらできない。要するに、記録メディアは、長期間保存が可能で、現行の世界で、また世代を超えて互換性を持ち、コンテンツをシェアできることが、最も重要な条件の一つであるということだ。
DVD+RW Allianceを含めた、いわゆるフォーマットを支えるForumは、その重要さを、訴え続けているのだけれど、果たして、どれだけ一般ユーザーに知らしめられているだろうか?
私の場合、過去、「文化を創る」「使っている人の笑顔を想像しながら商品企画をする」ことを、仕事の美学としてきたし、それが自分の生きがいだった。ところが今は、価格と数量と政治的な駆け引き交渉に埋もれてしまい、記録メディアが、根本に持っている価値の素晴らしさを伝承するという役目を、完全に忘れてしまっている。 DVD+RW Allianceセミナーでは、互換性の重要性をくどいほど訴えた。情報は、シェアされて始めてその価値を分かち合える。HP社は、記録メディアを使う「生活の楽しみ」と「仕事の意味」を、分かり易く説明した。情報にも、価値があるということだ。聞いているうちに、心が逸ってきた。 さてさて、私は、もう一度初心に戻り、夢を持ってこの仕事に携わり直さなければいけないな。また音楽を創ってみようか?また網を持って山を走り回ってみようか?今、新たな思い出を記録するほうが、自分の感情や気持ちを、より簡単に封じ込められるかもしれない。

Mickの部屋(エピソード3)

寝苦しい夜。 昼間、身体じゅうを濡らして膨張しすぎた熱気と湿気は、夜になっても乾くことはなく、むしろ風がない分密度を増し、更に飽和状態となり、寝返りを打ち続けることだけが、窒息を免れる唯一の方策だった。私は、ヘドロのように澱んだ部屋の中で、全身に脂を含んだ汗をかき、縛り付けられたミミズのように疲れてしまい、布団に脂汗のしみを作りながらのた打ち回っていた。黴て腐ってしまいそうなほど動かない頭の隅で、「涼みたい」と叫んだけれど、うだる暑さの呪縛から、自らを解き放つことができず、冷たい水をグラスに一杯飲めば、或いは熱いシャワーをひとしきり浴びれば、地獄から抜け出せると分かっていながら、それができないでいた。 悶々とのた打ち回り、自分の存在に嫌気が差し始めた頃、「パシャ」という音が聞こえた。 いや、聞こえた気がしただけのかもしれない。その音は、少し粘り気を帯びていたが、涼しそうな響きだった。神社の近くにある小さな池が、頭に浮かんだが、魚が踵を返したときに立てるような小さな音が、こんなに遠くまで聞こえるはずはない。一方では、こんな風もない静かな夜、暑さで飽和した空気が共鳴して、聞こえてもおかしくないのだろう、とも考えた。 蛙や魚、白鷺など、何が立てた音なのかを暫く考えていると、暑さを忘れることができた。 そしてまた、「パシャ」という音が、今度ははっきりと鼓膜に響いた。夜中に、一人で神社まで行くのは、なんともいえない恐怖を憶えたが、音の主が何なのかを知りたい、という気持ちの方が勝り、重たくなった魂を、更に重たくなった身体から剥ぎ取るように起き上がり、湿度が重力となった外に出た。

月には、陽炎のような輪がかかっていた。子供のころ、月に輪がかかると、翌日は雨だと聞いたが、そう教わったとおり、明日は雨なのかな?と思った。 そして、そう思った自分が可笑しくなり、小声で笑ってしまった。池までの道は、人通りもなく、いつも騒がしく啼いている犬の声も聞こえなかった。聞こえるのは、自分が立てる「ヒタヒタ」という足音と、電灯にあたってもあたっても諦めずに命を縮める、ヒトリ蛾の「ツンツン」という音だけで、その他の音は全て、湿度で濡れ、腐り、地面で死んでいるようだった。 やがて、神社に近づくと、木々の隙間から、ちらちらと池に映る月の光が見え始めた。 光は、輝いているのではなく揺れていて、不快感に満ちたものだった。暑くてかいていた汗は、ぼうふらのように不吉に粟立ち始め、不快感は、自分の背後から迫ってきているように感じた。感覚を自分の後ろに集中すればするほど、後ろに何かがいるという気配は大きくなり、その存在する意識を感じそうになったので、振り向かずにそのまま弧を描くように逃げようと考えた。足を踏み出そうと、前を見ると、池に映っていた月の光が私を見ていた。そんなはずはないと、目を凝らすと、それは光ではなく、女性だった。その女性は、薄開きの目で、私をぼんやりと、でもしっかりと捉えていた。 私は、全身に鳥肌を立てた。しかし、その恐怖は、長くは続かなかった。熱気に咽たような、朧げな月の光に照らされながらも、女性は儚く冷たく凍え、薄氷のように青白く透明で、風を包み込んだヴェールのように、池の畔で揺れて震えていたからだ。その悲しげな瞳の色を見たとき、私の心を占めていた恐怖は決壊し、絵画を鑑賞する眼差しで、女性の肢体を眺め始めた。頬や襟足には、白桃を思わせるような産毛が、水を吸ってしっとりと濡れており、その滑らかさは、儚いというよりも、むしろ熟しきったエロティシズムを感じさせた。そのとき私は、アダムとイブの、禁断の実のことを考えていたのだけれど、それなのに、決して触れてはいけないものだと思いながらも、どうにも衝動を抑えきれず、ついに、その頬に人差し指の甲で触れてしまった。その途端、女性は吊っていた糸が切れたように、私の腕の中にしな垂れかかってきた。 突然の重さに、私は平衡を崩し、池に溺れると思い堅く目を閉じたが、倒れこんだのは、意外にも女性と同じ産毛を持つ大きな葉の上だった。水の上に張られた葉は、柔らかなベッドのように、女性を傷つけることなく包み込み、私を心地よく受け入れた。 女性は、依然として動かずに横たわっていたままだったが、私が指で触れた頬だけは、高揚を始めていた。私は、こんな状況にいて興奮していた。横たわった女性の頬に再度触れた瞬間、分子レベルで同化が起こる感覚で、女性の肌に、私の指の皮膚が吸い込まれていった。そして突然、私の興奮が冷めた。こんなところに、女性が一人でいるはずがない・・・

その途端、女性は枯れ始めた。美しい肌が、火をつけたラシャ紙のように、しわがれめくれ、剥がれ落ちていった。枯れ落ちていきながらも、女性は満足そうに微笑んでいた。私は、突然我に返り、既に茶色の乾いた皮となってしまった女性を残し、家へと逃げ帰った。何か、とんでもないことをしてしまったか、幻惑なのか、走りながら考えたが分からなかった。月は西に沈みかけ、家に着くころには、じっとりとした蒸し暑い世界に戻っていた。何が起こったのかわからないまま、私は、暗い天井を見つめ、震え続けた。やがて、気だるい朝を迎えるとともに、あの出来事は夢だったのではないか、と思うようになっていた。 私の身体には、気だるさだけが残っていた気がしたが、それも夢だと思い込ませた。朝、陽が高くなり、日常の喧騒が戻り、不可思議なことなども、暑さの名の下に消滅してしまうころになって、あの池に向かった。夢であることを証明したかったのだ。あたりには、昨日感じた静寂が、そこだけ包み込まれたように、少しだけ名残っていた。池の畔に立ったとき、私は全てを理解した。目の前に、花びらを枯らして落とし、種子をつけた蓮が、女性のように揺れていたからだ。葉に触れると、女性の肌と同じ産毛の感覚が蘇った。私は、やはりここに来ていたのだ。そして、花と一夜を過ごしたのだ。辺りに目をやると、白と薄桃色の蓮の花が、数本見事に咲いていて、昼間だというのに、月の光を放ち、妖しく揺れていた。花たちは無言だったが、明らかに夜の訪れを待ち望んでいた。

Mickの部屋(エピソード4)

母なる川「ガンガー」を訪れた。
今まで見たことないであろう景色に・・・貧困、悲哀、這い回る蛆、飛び回る蟲、飽和する臭い、澱んだ空気、あらゆる死、溢れる汚物などなど・・・立ち直れないほどの、もの凄いショックを受けるだろうと、ほぼ確信しながら、そして、見知らぬ土地に、一人で旅することの不安と興奮も手伝って、デリーからの飛行機の中では、いつになくソワソワしながら、ガンガーのある、ヴァラナシに降り立った。 もちろん、ジーンズに、着古した綿シャツ、そして裸足にスニーカー、少し怯えているのを悟られないために目を隠すサングラスといういでたちで。 空港の出口から一歩外に出ると、案の定、お土産売り、身体売り(嘘です)、お菓子売り、野菜売り、ホテル勧誘、保険勧誘(嘘です)、赤い幻覚剤売り(本当です)、人攫い(嘘です)、ライフルを持ったおじさん(本当です)、物乞い、冷やかし、野次馬、猿、犬、リス、駱駝、豚、牛、山羊、羊、猪、鳶、鴉、驢馬、インコといった類の有象無象が、僕の周りに20人と30匹、3頭くらい集まってきて、あっという間に、人気芸能人の、スキャンダル後の成田帰国のような絵図になってしまった。 ふぅ。 この中から、タクシーの勧誘を捜すのは面倒くさいので、大声で「タクシー!」と叫んだら、なんと人攫い、じゃなくて、お土産売りのおやじが、タクシーの勧誘もやっていた。 早速、価格交渉。 往復、約2時間の運転と、ガンガーで2時間待つパッケージが1000ルピー(2500円くらい)というので、「そりゃ、社長、あまりに高いあるよ!(だって、会社のオペレータの月給が1万円くらいだからね)」と、何故か中国人風に叫び、600ルピーまでまけさせたが、多分、これでも高いのでしょう、まぁいいや。 そうそう、社員の一人が、最初にインドに来たとき、空港からホテルまでの、タクシーの値段交渉をしたのだけれど、彼は、最初に言われた金額を3分の1までまけさせることができたので、自分の価格交渉術を「超一流」と思ったらしい。 その次の出張で、メーターでホテルまで行ってもらったら、そっちのほうが、遥かに安かったとか・・・ それがインド! ああ、インド人! でも仕事を思うと、笑ってられない・・・

ガンガーに着くまでの道は、ひとことで言うと「懐かしい」と思わせる風景で、果てしなく平たい大地一面に咲き乱れる菜の花や、そのところどころにポツポツと生えているガジュマルの木、春風のようにチロチロと飛び交うモンシロチョウ、土の匂い、戯れる光、ゆっくり流れる雲、土埃の混ざった乾いた風、寝ている犬、人と一緒に生活をする牛と山羊(動物が人間的なのか、人間が動物的なのか、分からなくなって眩暈をおぼえる)、裸で遊んでいる子どもたち、新聞配達に使われるような、屈強な自転車に乗る、真っ黒に日焼けして痩せたおじさん、チャイを飲みながら物思いに耽る老人、頭に大きな藁の束を乗せて、列を作って歩くサリーの女性たち、道の両脇の生活の喧騒、様々な音や色や空気や匂いが、子供のころ、春休みに田んぼでザリガニ採りをしたときのことを思い出させる。 自然にあるものを見て、心象風景を描き、そこから懐古に走っていくのは、自分の心の中に、何か子供のころに忘れてきたものがあるからなのか、それとも風景そのものに、視覚的麻薬効果があるからなのか? 細切れに、いろいろなことを考えながら、或いは、勝手にそういう考えが浮かんでくるのを、そのまま受け入れながら、穴だらけの道を、上下左右前後過去未来に、激しくジャンプしながら、きちんと閉まらないタクシーのドアを、必死で引っ張りとめていた。 約1時間、幼年回帰とジェットコースターの狭間に揺られ、タクシーは、それはそれは汚い、襲われても、殺されても、犯されても分からない、吹き溜まりのような場所に停車した。 1cmくらいある長い睫毛なのに、焦がした肉団子のような顔をした運転手に、「2時までに戻るから待っててね」と言う。 彼は、笑って「テケテケガチャガチャ!」と答えた。 こちらの意図が、分かったんだか、分からないんだか、それが分からない。 後で考えたら、イントネーションから、きっとヒンズー語で「了解、分かった分かった」と言っていたのだろう。 車から降りると、申し合わせていたように、猿に逃げられた猿使いのような悲しい顔をした、更なる怪しいおやじが現れ、「Come with me!」と、手招きされた。 「タクシーは、2時まで本当に待っているんだろうか?」、「この、悲しい猿使いおやじを信じていいんだろうか?」という、2つの究極の不安に苛まれながら、到着した怪しい吹き溜まりよりも、もっと怪しい町の懐に足を踏み入れた。 2メートル幅くらいの曲がりくねった道が、毛細血管か葉脈のように走っている。 先斗町とは大違いだ。 その両脇に、びっしりと、野菜売り、揚げ物屋、洋服屋、土産屋、雑貨屋、鶏屋、人の臓器屋(嘘です)、羊の内臓屋(本当です)、タバコ屋、お祈りの場所などが立ち並び、人とすれ違うように牛とすれ違い、牛も人も構わずその辺で用を足し、いろいろな色が混ざりすぎて黒にしか見えないゴミ溜りが30cmくらいにまで堆積している。 ところが、何故か「異臭」がしない。 それが不思議だ。 悲しい猿使いのおやじは、わざと帰り道を分からなくするかのように、クネクネ道をあっちこっち歩き回り、更に狭い、真っ暗な洞穴に折れた。 こうなると不思議なもので、置いてきた長い睫毛のタクシーの運転手が、あの時は、あんなに怪しかったのに、「彼が待っていてくれる」ということだけで、恐怖を跳ね返す信仰のようになってくる。 さすがに、この穴に入るのには勇気がいった。 だって、なんとなく見える通路の両脇には、生きているんだか死んでいるんだか分からない人影が、闇より黒くなったボロに身を包んで、寝てる(死んでる?)んですよ! 「ここで、捨て去られたら、僕もこうなるのか!」と思いながら、暗闇に目が慣れるころ、突然エメラルド色の光が穴の向こうに見えてきた。 その光に満ちた色の正体がガンガーで、「驚くほど美しい」というのが、第一印象だった。

ガンガーは、右側にゆるく湾曲していて、手前側(左側)に、どこまでも、果てしなく地平線に続く階段と建物があり、黒く見える人が、ばら撒いた擂り胡麻のごとく水辺に群がっている。 一方、向こう側(右側)に、果てしなく広がる空と荒野が広がっていて、途中から霞がかかっているので、その向こうに何があるのか、よく分からない。 宗教的に考えると、黄泉の国、或いは極楽浄土があるようにも見える。 先入観では、向こう岸が見えないほど大きな川だと思っていたのだけれど、川幅は100メートルくらいだろうか? 水食も、茶色のヘドロ状というイメージとは、まったく異なり、むしろ澄んだ緑色をしている。 あれだけの人が蠢いているのに、水や土や空気が、音を吸収してしまうのか、近くの音しか聞こえないほど静かで(無反響部屋に入ったときのように、音が密閉されている?)、今、通り抜けてきた汚泥と混沌の坩堝の世界は現実だったのだろうか?と錯覚を起こすほど、静かで穏やかで優しい風が流れている。 平和だ。 一瞬のうちに、日常の煩わしさや時間から、それに日常の楽しみや贅沢からも解き放たれて、肩の力が抜けた自分を発見する。 心は、すぐに幽体離脱状態になり、放心している自分の姿を、少し離れた空から見下ろしている気持ちになる。 「母なる川」とは、よく言ったもので、母体の中で、生まれ出ずる時を待ちながら、子宮と羊水を通して聞こえてくる音を子守唄にして、まどろむ胎児のような感覚になる。 僕は、ここでならすべてを許せる、と思った。 怪しいおやじもね・・・

怪しいおやじは、僕が当然そうするのだとでもいうように、頼りない細いカヌーのところに連れて行き、これに乗れと手招きした。 既に、「なんでも許そう」と思っていた僕は、逆らうことなく、ごく自然にカヌーに乗った。 示し合わせたように、5歳くらいの、可愛い女の子が乗ってきて、僕の前に座り、黄色い花と蝋燭を、カヌーの縁において火を点けた。 お祈りをしてくれた。 10ルピーを渡す。 女の子は、満面の笑みでカヌーを降りる。 そしてカヌーは、岸を離れた。 すぐ後ろで、荼毘に臥された遺体を焼いている。 その煙が、川面を浮かび、別の川が川の上を流れているように見える。 煙は、自然と僕の肺にも入ってくる。 思い切って、深呼吸をしてみる。 金色や赤の布を巻かれ、そのまま流されている遺体もある。  船頭の男の子に聞くと、聖職者、妊婦、新生児は、焼かれないのだそうだ。 穢れていないからだ、とのこと。 岸の火葬場の横では、洗濯をしている、そしてその横では身体を洗い、髪を洗い、歯を磨き、そのさらに横では、水牛が水に浸かり、水中で糞を垂れ流す。 煌びやかな傘を持った人たちが、金色の壺を持って、川に遺骨を撒いている。 川に目を移すと、実にいろいろなものが浮かんでいて、そして水に浸かり、底に堆積している。 焼かれた遺体、布に包まれた遺体、死んだ牛、死んだ鳥、死んだ犬、藻の生えた糞便、食べかす、花、ビニール袋、洗剤の泡、髪の毛、ありとあらゆるもの・・・ 川の中心まで行くと、カヌーの3mくらい右横で、白い大きな、数メートルある生き物が、2頭、突然顔を出し、すぐに水中に消えた。 川イルカだ! とてつもない恐怖に襲われる。 あんな大きなイルカに接触されたら、こんなちっぽけなカヌーなんて、すぐにひっくり返る。 泳げない僕は、この川の水を飲んで溺れ死ぬ。 焦っている僕を尻目に、川イルカは、浮かんでいる遺体を弄ぶ。 遺体の裏には、たくさんの魚がくっついていて、それを食べている。 人は、その魚を採り、そして食べる。 思い切って、水に手を浸けた。 とても冷たい。 両手に掬い、祈りをささげた。

輪廻転生とか、食物連鎖とか、学校や社会で習うけれど、30年前ならまだしも、今の日本や欧米では、それがどういうことなのか、感覚ですら分からない。 ここでは、それが日常として営まれているし、否応なしに、目に入ってくる。 気持ちの豊かさ、心の穏やかさとは何なのか? 「自分の部屋」と名づけ、隔離された小さな空間で、好きな酒を飲み、好きな音楽を聴くことなのか? 家族と幸せな日々を過ごすことなのか? 気の置けない友人と、解放された心で、同じ時間を共有することなのか? 何もない、何も持たない、何も与えられない時間と場所で、宇宙の一部であることを感じられること以上に、豊かなことはないのかもしれないと、ここでは、そう感じさせられる。 帰りの飛行機で、下に広がる赤い大地を見て、「今なら安らかに死ねる」と思うほど、心は落ち着いていた。

Mickの部屋(エピソード5)

クリスマス2部作

1. クリスマスイヴの話: Noel_de_Gien
2. クリスマスの話:  トナカイたちの陰謀


Noel_de_Gien

その話し声は、11月も終わりに近づいた頃、夜中の12時近くになると聞こえ始めました。 どこからともなく聞こえてくるので、最初は、お隣の人たちのお喋りなのかな?とも思いましたが、部屋から聞こえてくるというよりも、庭や池みたいな、もっと広いところから聞こえてくるようで、それに毎晩こんな時間からお喋りをするはずがありませんよね? それで、やっぱり家のどこかから聞こえてくるんだろう、と思い始めました。 最初は、少し怖かったのですが、その話し声が、とても明るくて、それに可愛らしくて、何を言っているのかまでは聞き取れないけれど、例えば、カフェでくつろいでいる時に、隣の席にいる人たちが、他愛のない話しで幸せに微笑んでいるような情景が浮かんできて、暫くすると、自分もそのお洒落で小さなパーティに参加しているような、そんな気持ちになってきました。 時折、鈴を転がしたような、無邪気な笑い声もするようになり、そのお喋りを子守唄に、眠るようになりました。 それからというもの、お星様とかお月様が、海辺を走り回ったり、大きくて白くて透明な鹿が、空を彗星のように駆け巡ったり、そんな夢を見るようになりました。 空も海も、夜だというのに、それはそれは美しく深い青色をしていました。

12月に入り、街もクリスマス一色になると、話し声は、どんどん大きくなり、まるでキッチンで、今そこでケーキパーティでもしているかのように、聞こえるようになりました。 でも、笑い声以外は、何を喋っているのかは、分かりませんでした。 言葉というよりも、キラキラとか、ピカピカとか、そんなふうに聞こえました。 ある晩、あんまり楽しそうな声がするので、思い切ってキッチンの扉を開けてみました。 すると、突然話し声は止んでしまって、せっかくお話しに加わりたかったのに、と少しがっかりしてしまいました。 扉を閉めようとしたとき、「チンチラリリリン」と聞こえました。 それはまるで、「も少し待ってて」と言っているようでした。 大好きな人にその話しをすると、にっこりと笑って「夢見る王女様」と言いながら、髪を撫でてくれました。 「信じてくれないんでしょ!」と、少し膨れた振りをすると、「可愛いね」と言って、優しくキスをしてくれました。 「可愛いね、リリリン」、その日の夜からは、今まで意味を聞き取れなかったお喋りの声の中に、そんな言葉が混じるようになりました。 夢の中でも、鬼ごっこをしているお月様とお星様が、「可愛いね、リリリン」と言っては、海辺を走り回るので、とても嬉しくなって、ついに足を青い砂浜に下ろし、お星様たちの鬼ごっこに入れてもらいました。 そうして明け方まで鬼ごっこをすると、お月様とお星様は、すぅっと透明になって西の空に消えていきました。 「キラリンキラリン」、「また遊んでね」と言ったつもりなのに、そんな言葉が口から出てきました。

明日のクリスマスイヴは、大好きな人を家に呼んで、二人で祝うクリスマスです。 ただでさえ心が浮き立つクリスマスなのに、二人一緒のクリスマス。 嬉しくて眠れないでいると、いつものように話し声がしてきました。 でも今夜の話し声は、いつもとは違っていて、なんだか会議をしているような、そんな感じでした。 たまに「キラキラ」という笑い声が聞こえるのですが、真面目な話しをしているようなのです。 相手にしてもらえないようで、つまらなくなって眠ってしまうと、夢の中では、たくさんのお星様とひときわ輝くお月様、そして白い鹿が、満天の空に溢れ、出演者全員のオンパレードで、微笑みかけてくれました。 そして突然、眩しいほど輝いて、いっせいに流れ星となって西の空に消えていきました。 「ずっと一緒」と、最後に消えた流れ星が、そう言いました。

ケーキを作り、チキンを揚げて、カポナータを温め、フランスパンを切って、パスタの用意をし、サラダを作り、シャンパンを冷やし、後は大好きな人が来るのを待つだけです。 盛り付けをしようと、この日のために買った、GienのNoelという器を、食器棚から出しました。 「あなたたちだったのね」、その瞬間、全てを理解しました。 夢の中で見た、あの深く美しく青い空が、器いっぱいに広がっていて、その中で、お星様とお月様、白い鹿、流れ星が、ロウソクの炎に揺れていたのですから。
「見て、この子たちがお喋りをしてたのよ」そう大好きな人に言うと、「そうだね」と、テーブルに置いた左手に、そっと左手を乗せてくれました。 「この子たちと、夜の渚で遊んだのよ」そう言うと、「僕も一緒に遊びたかったな」と言って、左手の薬指に、キラキラ光るブルーサファイアの指輪をはめてくれました。 「お祝いの乾杯をしようね」と、テーブルのロウソクに灯りを灯したその瞬間、呪文が解けたかのように、器の中に閉じ込められていた、お星様やお月様が弾け飛んで空に昇り、キッチンだったはずの場所が、あの夜の渚になりました。 不思議そうな顔をしている、大好きな人の手を引いて、砂に足をおろし、そして手をつないで波打ち際を歩きました。 いつも鬼ごっこをしていたお星様たちは、今夜はお行儀よく空に瞬き、砂浜を優しく照らしてくれました。 きっとこの打ち合わせを、昨日の夜していたのでしょう。 薬指にはめられた青い指輪に、空の星を映して眺めていると、「ずっと一緒にね」と、大好きな人が言いました。 すると、お星様やお月様が、一斉に指輪の中に落ちてきたのです。 あとからあとから、光の滝が零れるように。 「うん」と頷くと、大好きな人は、包み込むように抱きしめてくれました。

翌朝、朝日にくすぐられて目が覚めると、隣で大好きな人が微笑んでいました。 そして、「不思議な夢だったね」と言いました。 「夢じゃないのよ」と思いながら、大きな青いディナー皿を洗っていると、そこにあったはずのお星様が、一つだけなくなっているような気がしました。 「あ」っと思って、急いで指輪を見てみると、その中にお星様が一つ、光っていました。 一昨日の夜、「ずっと一緒」と言って、最後に消えた流れ星だったのでしょうか。

トナカイたちの陰謀

今から数百年前、トナカイは、それはそれはサンタクロースに従順な動物でした。 何しろ、かつて坂本九ちゃんも歌ったように、「今宵、つまりクリスマスの夜だけが、彼らのピカピカの真っ赤なお鼻が役に立つ日」だった訳で、それはとりもなおさず、「その日」しか、トナカイたちの存在価値がなかったということだからです。 その価値ある日に、その価値を認めて使ってくれるサンタクロースに、どうして逆らうことなどできましょう? それで、とても従順でした。 残りの364日は、国民の3大義務の一つである「就労」もせず、かといってパスポートがないので、シベリアから出ることもできず(クリスマスだけは、サンタクロースのパスポートを使い、橇引き動力として、国外に出ることができたわけです)、来る日も行く日も、花札をしたり、噂話や自慢話をしたり、大きな角で悪戯に他の動物を虐めたり、メスを見つけては我先につがったりと、ひたすら怠惰な日々を送っていました。 お父さんも、おじいちゃんも、ひいおじいちゃんも、そのまた先祖も、トナカイ族は、その長い歴史の殆どを、そんなふうに過ごしていましたから、世界で最も使い物にならない生き物になってしまったわけです。

サンタクロースは、妻を娶ることもなく、何百年もの間、その地位を継承してきました。 いきなりお爺さんとして、次の世代のサンタクロースが現れるのには、れっきとした理由があります。 クリスマスの夜、訪れた家の、気に入った生娘に種を植え付け、生まれた子供を長い間その両親に育てさせ、ある日、人買いのように札束を置いて、成長した男子をさらい、老けるまで証券会社で働かせていたわけです。 サンタクロースの、あの豊富な資金源は、実はこの、証券会社での経験を元にした、様々な先物取引や、業界に対しての、流行ものの操作から来ていたわけです。 「今年はこういうおもちゃが流行しそうだ」「こういう色や洋服が流行しそうだ」という噂をまことしやかに流し、そのときジャンクになっている会社の株や債券、商品といったものを、デリバティブを最大限に利用して買いまくり、クリスマス商戦を前に上向きになった株や、ブームになった商品にプレミアムをつけて売ることで、その差額利益で儲けていたわけです。

ところがこの5−6年というもの、どうもおかしなことが起こり始めました。 経済成長率がマイナスになったりとか、子供たちが自分で流行を作ってしまうとか、サンタクロースの存在そのものが冷たく否定されるとか、ハイテク武装していないため、シベリアからでは最新の情報が取れず、サンタクロースの「先物読み」が不発で大損をしたりとか、予期しない出来事が起こり、資金源が心もとなくなってきました。 しかも、最近の子供たちの望むプレゼントというものが、「離婚したお父さん」とか「慶応大学付属中学部入学」とか「セックスのエクスタシー」とか「ファイナルファンタジーXを完全制覇したあいつが憎いから殺してくれ」とか、これまでの常識では考えられない願い事が増えてきました。 人殺しや裏口入学は、トナカイを刺客に使って実行したり、学長を賄賂で釣ってできましたが、さすがにお父さんを連れてくるとか、エクスタシーを感じさせるとかは、叶えることができませんでした。 「何かが欲しい」というリクエストでさえ、今までなら「お人形さん」とか「プラモデル」だったのに、それらが「コンピュータ」だとか「○△□英語会話教材」など、金額も高く重たいものになり、挙句の果てには「金が欲しい」「美が欲しい」「大きな逸物が欲しい」など、訳のわからないものをリクエストしてくる始末で、毎年楽しみにしていたクリスマスが、サンタクロースやトナカイたちにとっても、だんだん憂鬱なものに変わってきてしまいました。 おまけに、サンタクロース自身が、いいものを食べ過ぎて、椅子から動かないので、肥満になったり脂肪肝になったりで、体重が300kgを超えてしまい、3年前は、ある家に忍び込んだまま、いつまでたってもサンタクロースが帰ってこないので、また生娘を捕まえて種を仕込んでいるのかと思いきや、煙突の中で挟まって圧死してしまうという事件まで、起きてしまいました。 煙が煙突を伝って出てこず、逆流してしまうので、不審に思った家の人が調べてみると、いい具合に焼けたサンタクロースが、燻製になって転がり落ちてきたということです。

人間も動物も、怠惰な生活に慣れすぎると、時折ひょんなことから大きなことを夢見たり、暇にあかして悪戯や周りの迷惑になることを考えてしまうものです。 トナカイたちは、ここ数年間のサンタクロースの言動や商売の翳りによる彼への不信感、また醜いまでに太り切った赤い身体に辟易とし始め、伝統のように従順だった気持ちが、いつのまにかどこかに吹き飛んでしまいました。 しかも、毎年1回、12月25日の夜にしか働かないのに(その日は、月の位置に沿って夜を移動するので、実働24時間になるわけですが)、PCや札束、英語教材、簀巻きにしたお父さん、串刺しにした恋敵の心臓、バイアグラ、伝染病ウィルスなど、魔女の呪い紛いのものを、山のように橇に積んで、おまけに重いサンタクロースまで乗せて空を駆けなければならず、クリスマスは苦痛に満ちた一日になってしまったわけです。 トナカイたちは、その1日の仕事まで、放棄して楽になりたいと思うようになってしまいました。

2001年は、新しい千年紀の最初のクリスマスです。 ところが、トナカイにはまったくやる気がありません。 ある日、リーダー格のトナカイが集まり、樅の木のように立派に生えそろった角をコツコツと打ち鳴らしながら、どうすれば、今年から楽ができてサボれるかを話し合いました。
「コツコツ、全く働かないでいいか、働くなら超楽でスカッとできるものはないだろうか?」
「コツコツ、ストライキは?」
「コツコツ、そんなことをしたら、あの好色サンタ爺さんから餌をもらえなくなっちゃうよ」
「コツコツ、そうだな、それはまずい。 では、片っ端から子供を皆殺しにするっていうのは? 来年からプレゼント配る手間も省けるよ」
「コツコツ、我々がやったってバレバレじゃないか、なにせ我々には、この角と蹄しか凶器がないんだから」
「コツコツ、どうにか変態サンタ爺さんのせいにできないかな? あの爺さんが捕まれば、我々は可哀想な動物ということで、動物園あたりでガキ相手にのんびりと暮らせるよ」
「コツコツ、そうだ、それがいいよ、あの肉布団サンタ爺さんのせいにしよう!」
「コツコツ、フォアグラサンタ爺さんのインサイダー取引を暴露したら?」
「コツコツ、だめだよ、今は少なくとも我々の飼主で、餌を与えてくれているんだから。 巾着サンタ爺さんが捕まったら、明日から食いっぱぐれちゃうよ」
「コツコツ、あのスイトピーみたいな赤い花の種から取れる、変な気持ちにさせる媚薬みたいなのがあるじゃない。 あれを大量にばら撒いて、子供たちを腑抜けにすれば、もう何も望まないよ。 常習性があるっていうから、毎年ばら撒いているうちに、子供たちがあれ無しでは生きられなくなって、我々を神様として崇めるようになるかもよ。 サンタのせいにもできるし、暫くしたら、従順な子供たちを使って、何か新しいビジネスができるかも。 そのときは、あのロリコンサンタ爺さんともおさらばだね」「コツコツ、それはいいアイデアだよ!」
「コツコツ、喜怒哀楽の楽だけを子供たちに与え、我々も楽を得るということだね? 誰かが、喜怒哀楽の喜怒哀は理由が要るけれど、楽だけは理由が要らないって言っていたよ」
「コツコツ、なに哲学的なこと言ってるんだよ! 早速準備に取り掛かろう」

こうして、2001年のクリスマスを皮切りに、トナカイたちの陰謀が秘密裏に始まり、やがて子供たちだけではなく、一部の大人までも巻き込んでの、年に一度の大イベントとなりました。 「クリスマスには、サンタクロースがトナカイたちの牽く橇に乗って、子供たちにプレゼントを持ってくる」という、キリスト教の聖なる夜の暖かな逸話が出来上がった、数百年前のあのときのように、今再びミレニアムの時を越えて、クリスマスの晩のサンタクロースを、全ての子供たちが待ちわびるようになりました。 彼らは、もうおもちゃも人形も、PCも札束も、避妊具も人殺しも望みません。 ただひたすら、サンタクロースが、そっと靴下に忍ばせてくれるプレゼントを待っているのです。 宗教も国も政治もなく、諍いや憎悪や欲もなく、喜びも怒りも悲しみもない、ただ楽しみがあるだけの世界が、子供たちを中心に世界中に広がっていきました。 それは、未だかつて人類が生きているうちに経験したことのない、楽園、または極楽浄土と呼ばれるにふさわしい世界でした。

大多数の大人たちは、その楽園を受け入れることができず、また様々な宗教もその楽園を受け入れることができず、なんとか子供たちを、苦しんで生きることに意味のある世界に呼び戻そうと試みましたが、いかなる手を打っても呼び戻すことができませんでした。 ある日、子供たちは、申し合わせたように、広場などに集まり始め、集団を作ってビルの屋上などの、高いところに向かって暴走を始めました。 そして、次から次へと飛び降りて、命を落としていきました。 大人たちが「何故そんなバカなことをするんだ!?」と聞くと、「何故大人たちはしないんだ!?」と答えが返ってきました。 大人たちが「身体が潰れて痛いじゃないか!?」と言うと、「僕たちは後からゆっくりと降りるから、痛くないんだ」と答えが返ってきました。 やがて、世界から子供たちが消えてしまいました。 大人たちは、悲痛に暮れ、この忌まわしき事態を引き起こしたサンタクロースを、堕天使サタンクロースと呼び、悪魔として指名手配しました。 シベリアの彼の塒がとうとう見つかり、大勢の精鋭特殊部隊を送り込み、サタンクロースの捕獲に成功しました。 「私は何も知らない」と、サタンクロースは言い張りましたが、誰もそんな言葉を信じません。 考え得るありとあらゆる拷問を架され、じわじわと処刑をされ、世界中にその光景が放映されました。 楽園のあった世界は消え、またもとの世界に戻っていました。

こうして、トナカイたちの陰謀は成功し、彼らは自由と巨額の富を手に入れたわけです。 そして今度は、大人たちに与える夢を、画策し始めたのでした。

Mickの部屋(エピソード6)

クリスマス2部作

1. クリスマスイヴの話: Noel_de_Gien
2. クリスマスの話:  トナカイたちの陰謀


Noel_de_Gien

左義長祭

「湘南」という地名は、明治・大正時代、夏の避暑地・冬の保養地として、政治家や役者が、別荘を大磯に構え、行き来していたことに由来している。 夏目漱石の「こころ」を中学時代に読んだとき、「鎌倉=湘南」と勝手に解釈していたけれど、どうもそうではないらしい。 今では一般的に、逗子や葉山までを含む鎌倉地区から藤沢、辻堂、茅ヶ崎までが、「湘南」と認識されているけれど、僅か数十年の間に、地名が平塚、大磯から茅ヶ崎、藤沢のほうに移動してしまったのだ。 子供の頃、まだ部落意識というものが根強く残っていて、団地に住んでいた僕たちは、いつも(特にお祭りのときには)村八分にされていたし、その僕たちは、馬入川(相模川)を西に越えたら別世界と差別していた。

大磯という町は(街ではなく、町と書いたほうが大磯らしい)、ほっとするほど変わらない。 昔のままだ。 子供の頃、湘南平という小高い瓢箪山に虫を採りに行っては、大磯まで降りてきて、田んぼや海で遊んだけれど、今でもその頃通った道が、そのまま残ったりしていて、塀の凸凹や道の曲がり方、木の茂り方までが、当時と変わらないところもある。 40年ほど経っているのに、木(特に松)の成長は、それほどゆっくりしているということなのだろうか? ノスタルジーだなぁ。
避暑地で、有名人が多く住んでいたこともあり、大磯には、意外と美味しいお店や昔からの老舗が多い。 最近、主人が変わって味が落ちたとは言われながらも、調理するのに1時間たっぷり待たされて、それでもやっぱり美味しいうなぎの国よしを始め、塩味と甘味のバランスが絶妙な銘菓花吹雪(予約しないと買えません。 毎日まいにちマイニチ、何十年もこうして手で焼いているとのこと)、今や全国的に有名な井上蒲鉾店(小判焼きが美味しい)、葉山が本店だけれど、場所が鴫立庵の近くにあるから、こっちが本店じゃないかと信じたい、フランス菓子の鴫立亭(ここのタルトタタンとモンブランは唯一無二)などなど。 極め付きは、立田丼と雉丼なら、関東一美味しいと自信を持って勧められる、鳥料理専門店の杉本だろう。 女性でも「もう少し食べたいかな?」と思うほど、量が少ないとはいえ、杉本の立田丼を一度食べたら、病み付きになること請け合いだ。
大磯の海岸には、よく石ころを拾いに訪れる(石に絵を描くので)。 藤沢や茅ヶ崎とはまた違う、要するに客商売で漁をしているのとは違う、漁港の姿がそこにある。 岩場なので、地引網もできないし、海水浴には向かないが、江ノ島のように遮る物がない分、波が荒く、サーファーには面白いらしい。 誰もいない駐車場で、ウエットスーツを着た人が、空中を滑るように軽やかにムーンウォークをやっていた。 その動きが超人的に軽やかだったので、なんだか怖くなり、そぉっと後ろから近づいて見てみたら、干されて風に揺れるウエットスーツだった。 てっきり透明人間かと思った。

話しが、脱線に次ぐ脱線で、お祭りかけ離れてしまった。 1月14日は、多分日本全国の神社で、古い護摩やお守り、達磨などをお焚き上げし、木の枝や竹に刺した赤や白の米粉だんごを焼いて食べる、どんど焼き(一部ではどんどん焼き)が催される。 大磯では、このお祭りを「左義長祭(さぎちょうさい)」と呼び、大磯海岸に巨大な竹と藁の塔を建て、そこにお守りや達磨を吊るして、午後7時に点火して焚き上げる。 祭りのいわれは、昔、大磯の町人たちが、当時流行った疫病から町を守るために、スエノカミサン(道祖伸のこと)に頼んで、セエトバレエ(セエトバライ)という厄神祓いの儀式をしたのが始まりらしい。 巨大な塔はサイトと呼ばれ、町ごとに海岸に建てて火を放つ。 轟々と燃え盛るサイトの横で、ヤンナゴッコという、藁でできた小さな神の宮に、米粉だんごの串を突き刺し焼いた後、六尺の褌一丁の男たちが海で、町民が浜で、大磯甚句を謡いながら綱引きをする。 最終的には、そのヤンナゴッコを褌の男たちが足で踏み潰し、翌日町の中を練り歩き、道祖神のご利益で、厄神が退散させられたことを祝うのだそうだ。 大磯に住んでいた伊藤博文が、この祭りを左義長祭と名付け、昭和32年に国の無形文化財に指定された。10メートルほどもあるサイトが10基ほど。 猛烈な煙と空を染める火の粉、そして爆ぜる竹と達磨の音、戦争映画で見たような、炎の怒り狂う様を見ていると、幻想的というよりも、これなら疫病も厄神も退散するだろう、と信じてしまいそうになるほど現実的である。 火の力は恐ろしい。 火にかけられた達磨の皮が燃え、梁が骨のようになって、目や口から炎を噴き、まるで悪魔の断末魔のようにも見える。 昼間、ひょうきんな顔をして藁に飾られていたのに、今は悪魔の形相かぁ。 こうして、砂と海と炎と幟のはためきと星の煌く空の祭りを見ていると、なんだかとても気持ちが軽くなり、きっと今年も北風の吹く寒い海岸に訪れるのだろう。

Mickの部屋(エピソード7)

「プラス思考」という言葉がありますね。
私は、生まれつき、或いは、成長過程における暗い経験からなのかもしれませんが、極度な心配性、僻み癖、妬み嫉み、イジケ、意地悪、残忍性、人のせいにするのと泣くのは上手いのでも落ち込み始めたらどこまでも果てしなく堕ちていくのよぉ〜的演歌感覚、ひとりぼっちなんだもーん症候群、自分が好き好き病、全ての失敗は神様の選択だからしかたないジャン思考、隅っこ大好きお願いだから先生おいらを指名しないでね目も合わせないかんねバーロー!支離滅裂症なので、もとよりプラス思考などという考え方は、ありませんでした。 ところが、29歳のときに、海外営業・マーケティングの仕事を任命され、ディベート好きの外国人と、泣きながらでも話す方法を身につけなければ、仕事も無くなるし死ぬしかないわ、絶体絶命、いやんばかん!というところまで、追い詰められてしまいました。 そこで生み出したのが、鳥人ミル・マスカラスも真っ青の七色仮面装着術。 それが、最初の私のプラス思考の始まりだったと思います。 あるときは悪徳弁護士、あるときはコスプレ女王、あるときはカモメの水兵さん・・・じゃあなくて・・・あるときは攻めの営業、あるときは命捧げるおべっか使い、あるときは歌はうまいが売れない演歌歌手と、今では13−14個ある各種仮面を用意して、商談などに臨んだわけです。 今こうして、優しくも逞しく生きているところを見ると、仮面術はある意味、とても成功したのでしょう。 でも、根っこにある自分は、上に記述したとおりなので、たまに本当の自分が誰だかか分からなくなったり、そのギャップに悩んだりするわけですね。

そういう生活を20年以上もしてきて、いろいろな顔とバランスをとりながら、社会と共生できるようになってきましたが、バランスがとれるのは、あくまでも責任が自分にあるときであって、何か他の要因で、相手の立場や顔を潰してしまいそうなことになると、それはなかなかバランスのとれるものではありません。 インドの会社に入って早5年。 これまで、相手に丸出しの怒りをぶつけたり、激しく口論することを最も嫌っていた自分だったのに、お客様が苦しんだり悲しんだりしている姿を見て、そしてそれを救えない自分がいて、いったい何百回、我を忘れるくらい怒りまくり、もどかしさで唇を噛んだことでしょう? つい最近も、大きな事件があって、あまりの悔しさと申し訳なさに、どうやって担当のインド人を刺し殺し、自分も果てようかと思い悩んでいました。 でもそのとき、その事件の被害者でもあり、私が最も尊敬する人からこう言われました。 「Mickさん、挨拶、笑顔、感謝、そして深呼吸ですよ」 この言葉に、どんなにか救われたことでしょう。 たくさんの眩いばかりのきらめきが、その言葉の周りで瞬いていました。 50歳を超えて、今でも毎日のようにインド人と怒鳴りあっている自分は、まだまだ子供で、でも家に戻ってお風呂に入って、鏡を見て笑ってみて、深呼吸をすると、「もう1回、明日も頑張ってみようかな」と思えるので、不思議ですね。 でもね、よーく考えてみると、「問題ばかり起こしているインド人の馬鹿!」に見えていても、彼らは彼らで必死だったり、頑張っていたりすることもあるんです。 もちろん、なぁーんにもしないで責任逃れする輩もたくさんいますが・・・ お互いに違う文化をもってプラス思考になると、漫才コンビが二人とも突っ込みじゃ成り立たないように(ちょっと表現が違うかな?)、やはり問題が起きます。

前振りの方が長くなってしまいましたが、今回は、日本人とインド人という、2つの民族の基本的な考え方の違いに焦点を当てて、プラス思考の部分のみを選び、お互いが分かり合いたいのに、何故なかなか分かり合えないのかをご紹介したいと思います。 解決策? それは、あと500年くらい勤めないと、見つけ出せない気がします。 あっ、ちょっとマイナス思考になってしまいましたね。 では、5年でなんとか。 それじゃ短か過ぎるか、では50年? 私は、死んでるか仙人になっていますね・・・

有名な格言があります。 「優秀なMCは、インド人を黙らせて、日本人に発言をさせられる」 これは、誠に正しく真理を窮めている言葉です。


日本人とインド人の考え方対比表

日本人 インド人
会社のために働く 家族のために働く
1を聞いて10を知れ 10を聞いて10をする
そこのところを分かってよ 徹底的に話しましょう
ビジネスは人間関係で成り立つ(紳士条約 ビジネスは契約である(事前に罰則を決める)
意見はちょっと違うけど多数派にいたい 11億人みんなバラバラ
グループによる意思決定 トップダウン
会議の前にある程度合意をしておきましょ! 最後の最後まで諦めません
貯蓄をする その日を生きる
総合判断 勘定科目ごとの判断
自分の範囲を超えてでも 自分の縄張りを守る
気に食わなければ次に買わない 文句があるならその場で解決
つながり ニュートラル
会議は2時間で充分 会議は2日でも足りない
一つのことに一生懸命 トリプルCPU
一人一人がきっちり話す 目立たないと存在価値がない

こうして挙げてみると、11億人全員が違う考え方をしているインド人のほうが、上に述べられた法則にぴったりとはまっていて、むしろ単一の顔を持っていると思われがちな日本人のほうが、上記法則では当てはまらない気がします。 事実、インド人に対して、このレクチャーをしたときは、インド人に関しての部分は、珍しく全員一致で合意を得たのですが、日本のお客様何社かにお送りしたときは、日本人の部分が、うちは違うかな?自分は当てはまらないかな?という意見が多くありました。

私が、常日頃直面している問題は、上記それぞれが絡み合って起きる問題ばかりなので、一筋縄ではいかないのですが、例えば、契約書の話しをする場合、「紳士条約と罰則を事前に決める」「よしなにーと最後まで諦めません」「2時間で充分と2日でも足りない」が重なることで、会議は阿鼻叫喚烏飛び交う修羅場と化します。 2年かかって、ようやく合意に漕ぎ着けても、最後の最後にインド側から出てきた「署名用コピー」にいくつか直しが入っている。 こういうときは、おとなしい日本人でもさすがに怒ります。 でもインド人は、ポカァーンとしている。 「なんでこんなふざけたことをするんだ!」と叫んでも、「駄目もとで言ってみただけ、カラスノ勝手でしょぉ〜、テヘ」という回答。

私が入社するとき、「給料はルピーだ」と言われ、日本では換金できませんと、1ヶ月かけて交渉し「じゃぁUSドルで」という回答。 それでは固定給にならないからと、さらに2ヶ月かけて交渉し、やっと日本円になったところでめでたくサイン! で、忘れてました、ボーナスの交渉・・・ ということで、日本社員は全員ボーナスがありません。 インド人は、確かに複数のCPUをもっていて、導きたい方向に持っていくのが上手です。

社員の一人は、初めてインドに行ったとき、空港からホテルまでタクシーに乗り、1/3まで値段を下げさせたので、「うわっはっはっはぁ、俺様はインド人に交渉で勝った!もう世界で通用するぞ!ざまぁ見ろ!」と、帰国後1ヶ月ほど、マンドリルのごとく、この武勇伝を語っていましたが、2回目に行ったとき、今度はメーターでタクシーに乗ってみると、実際にはメーターのほうが安かったということで、ミジンコのように打ちひしがれて帰ってきましたっけ。

ちょっと冗談ぽく書いていますが、基本的には、お互いがビジネスをうまくやろうと努力をしているわけです。 ところが、そうはいきません。 やっぱり500年くらいかかるかなぁ、分かり合えるの・・・

Mickの部屋(エピソード8)

今回は、仕事が増えるほど(或いは歳をとるごとに)、趣味が増えてしまう(プラスしていく)というお話しです。 相乗効果ならばいいのでしょうが、昔から、人の影響を受けやすく、スポーツを除いて、それなりにこなしてしまう、典型的器用貧乏が、どんどんと趣味を増やしてしまいます。 なんでもやりたい! 折り紙から作曲、俳句まで、まぁ切がありません。 その趣味の一つに、狛犬コレクションというのがあります。 全国の神社を巡り(趣味の旅行に組み込まれたプログラムの一つですが・・・)、阿吽の狛犬の阿(口を開けている方です)を、趣味の写真でパチリとやります、そして趣味の俳句を一句詠む、しかもダヴィンチの影響を受け、左手で鏡文字で・・・ いろいろ見てきましたが、基本的に、狛犬は犬系と猫系に分けられますね。 最初は、ただただ撮っていたのですが、そのうちレア物だけを撮りたくなってくる。 京都は、このレア物の宝庫で、狛狐、狛猿、狛鳶、狛鼠、狛鹿、狛猪、狛鳩、狛亀みたいなものまでいます。 ここでは、変な顔シリーズをご紹介しましょう。

悪戯がすぎたピノキオみたいでしょ!
犬の身体に「たまげた海賊」の頭を乗せたよう・・・

神様を守る番犬というより悪魔

よだれかけと皺々の猫背で迎えられてもねぇ

頬かむりをして、今から夜逃げ?
ただの溶岩岩かと思った
そんなに睨まないでよ!
ふんがぁーーー!
Alice in wonderland
口が臭そう・・・
ねぇ、なんか病気じゃないですよね?
Mickの部屋(エピソード9)

「最近は、Mickさんの文章に毒気がない!」「つまらない!」と、このプラスの部屋の管理人、兼家賃(エピソード)収集人の大家さんから言われており、この公共の場を使って反論するわけではないのですが・・・すみません、出張が多すぎて、インド人がらみのトラブルが多すぎて、全てのフラストレーションと毒気は、インド人に対して使ってしまい、仕事から離れると、僕ちゃん、とっても純な「おこちゃま」になってしまうのよねー。
と、いうことで、まったくイントロダクションとは関係ありませんが、今回は、高校時代から書いている「4コマ漫画」のご紹介です。 ここで、決まりごとがあります。
・ 私の4コマ漫画には、言葉がありません。 俳句の逆で、絵を見て言葉をイメージしてください。
・ 「絵が下手だ、古い、汚い」の言葉は禁物です。 だって下手なんだもーん、しょーがないじゃん。
少し、インド人との喧嘩を我慢して、次回は、ばっちり「怪しい」「毒」「エロイ」エピソードをご披露したいと思います。

ヒヨコとカラス 東の空から 餌付け
手乗り文鳥 抜歯 オオカミと子羊
ろうそくの命 展覧会の絵 蛙と蛇
犬のおまわりさん ウサギと亀
Mickの部屋(エピソード10)

「プラスの部屋」という家の住人なので、本来ならば、プラスフォーマットやそのフォーマットを使うことでの利点、アプリなどを、例えば自分の趣味などを交えて、分かり易く紹介するのが、本来の住人としての責任であり、それ故に住まわせてもらっているのでしょうが、もともと技術の知識がないのでそれをいいことに、公の場を、殆ど私小説化している今日この頃なので、ここで一発奮起して!とプラスについて考えました。 はい、かなり真面目に。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、やっぱり思い浮かばず、家賃の期限は迫るし、結果的に、さらに低俗な私小説をご披露することとあいなってしまいました。 ごめんなさい。 まぁ、こじつけるとすれば、こんなにひどい幼年、少年、青年、壮年時代を過ごしてきたのに、よく今生きていて、毎日インド人と戦い、「きゃつらの文化を変えてやるぅー!」とまで思えるほど、強くなれたのは、「プラス思考」があったからなのでしょう、というところでしょうか。
今回のタイトルは、「若気の至り」。 「馬鹿気の至り」ともとれるでしょう。 たまに「ホラー」が入ります。 そして、全部実話です。

内科医院のソファと針金(おそらく3歳)

覚えている限りでの最初の若気の至りである。 風邪を引いて医者に行った(多分そうだと思うのだが、理由はわからない)。 何故か待合室ではしゃぎまわる僕。 坂本九ちゃんの歌でも歌って、踊っていたのだと思う。 大人しくしなさい、と諭す母親を無視してソファの上で飛び跳ねているうちに、着地失敗で床にストンと落ちてしまった。 そのときソファの端から出ていた針金に太腿を引っ掛け、全体重をかけて落ちたものだからたまらない。 膝上から腰までが一直線に裂け、床は一瞬にして血の海になってしまった。 内科が外科に早代わり。 病院から病院に救急車で運ばれて、何針も縫われてしまった。 今でもその傷は、人生の戒めのように、くっきりと残っているが、未だに戒められていない人生を歩んでいる。

顔面野球(おそらく4歳)

おじさんたちが、声を上げながら楽しそうに野球をやっていた。 傍で見ていた僕は、なんだかそれが嬉しくて、トコトコと試合中のグラウンドへ・・・
「ピッチャー、振りかぶって投げましたぁ!」
「おっと、これはど真ん中! バッター、渾身の力でフルスィング!」
「打球は、ボールの芯を捕らえ、弾丸ライナーだ!」
「あれ?なんで子供がグラウンドにいるのぉぉ?」
「あの子、嬉しそうに笑って、バッターの方に向かってるよ!」
「キャー!」
「ワー!!」
「グワッシ!!」
暗闇の中で、ぱっと弾け散る花火を見ましたっけ。 それ以来、僕は鷲鼻です。 眉間に触ると、今でも丸いボールの凹みが、くっきりと残っています。

ブランコ殺人未遂事件(5歳)

長男長女にとって、弟や妹が生まれると、母親をとられたと思ってやきもちを妬き、親の見ていない隙に、鼻や口を塞ぐとか、虫を食べさせるとか、程度の差はあれ、彼らを虐めようとするものだ(ですよね?僕だけじゃないですよねぇ??)。 今でもそのときの場面を、映像と感触の両面から、鮮明に思い出すことができるのだが、僕は、ブランコとハーモニカが好きで、その2つに関しては、この世の誰よりも上手いと思っていた。 弟はまだ2歳半。 ブランコもハーモニカも、まともにはできないし、もちろん僕にかなうはずなどなかった。 ある日僕は、団地の広場でブランコを漕いでいた。 空高く、意気揚々と。 羨ましがる弟。 鼻高々の僕。 眩しい太陽。 「太陽がいっぱいだ」と言ったかどうかは、覚えていない。 怖いほどのスピードと頂点での無重力感。 「にいちゃん、ブランコー!」と叫ぶ弟を横目に、得意になって更に高くブランコを漕ぐ僕。 羨望と悔しさで、だんだん涙声になっていく弟。 それを見て更に激しくブランコを漕ぐ僕。 泣きながら訴える弟。 そして突然の衝撃。 「ガヅ!」というにぶい音とともに、弧を描いて空を飛ぶ弟。 激しく振動するブランコ。 周りにいた大人達の叫び声とうろたえ声。 死んだように倒れている弟。 幸いなことに、前歯に当たったので命に別状はなかったのだが、もちろん前歯は全部折れてしまった。 もしも、当たり所が悪ければ、僕は5歳で殺人者になっていた。

グリコのおまけの判別方法(5歳)

毎朝父親を、駅まで見送るたびに、お小遣いをもらった。 いくらだったのだろう? それで毎日(そのように記憶しているのだけれど、本当は毎日じゃなかったかもしれない)グリコのキャラメルを買ってもらった。 グリコのキャラメルの楽しさは、そのおまけにあった。 小さなプラスチックの車だったと思う。 友達が遊びに来ると、彼らもおまけを持ってくるので、どれが自分のものか分からなくなってしまう。 僕は、子供ながらに考えた。 そして最高の方法を思いついた。 お尻に挟んで臭いをつければ、嗅いだときにすぐ分かる。 そうして、何十とあるおまけを、片っ端からお尻に挟み臭いをつけた。 嗅いで見ると確かに遠くに連れて行かれるような郷愁の臭いがした。 そうして3人で遊んでは、臭いを嗅いでおまけを判別した。 その手でおやつも食べたし、指も舐めたし、まぁ動物だと思えば普通のことだけれど、そんなおもちゃで遊んでいた友達のことを思うと、気の毒なことをしたと思う。

ブレーキ(6歳)

僕は、幼少時代から、自転車が得意で、補助輪なしで走行できるようにうなったのも早かったし、ガンガンに自転車を乗り回していたわけです。 越してきた団地は、完成したばかりで、道路はまだコールタールと細かい砂利に覆われていて、そういう道を、ヘアピンで曲がるときのスリルは、たまりません。 自転車ごと、ザザーと横滑りするわけです。 ある日、あまりのスピードで曲がり角に差し掛かったため、さすがにバランスを保てず転倒。 ところが、両手を地面について、起き上がろうとするのに起き上がれない。 いくらやってもだめ。 力を振り絞って起き上がろうとしたら、なんと自転車が持ち上がってきた。 よーく見てみると、ブレーキがお腹に突き刺さっているんですね、これが! おーほほほほほ! 次の瞬間、青ざめました・・・ でも痛くないので、結局医者には行かず、そのまま放置。 いつの間にか、傷は塞がっていたけれど、もちろん今でも4cmくらいの刺し傷が、残っているのでございます。 なんで、破傷風とかにならなかったんだろう??

冬越しのカマキリ(8歳)

カマキリの卵を空き地で沢山拾って、家にもって帰りました。 あの造形美に惚れ込んでいました。 テレビのある部屋に空の水槽を置いてその中に入れ、毎日のように見ていました。 ある朝、母親の叫び声とともに目を覚ましました。 眠い目をこすりながらテレビの部屋に行ってみると、そこには狂ったように泣き叫ぶ母親と、絨毯とカーテンいっぱいに張り付いて蠢く、孵化したばかりのカマキリの幼虫がいました。 部屋が暖かくて、春と思ったカマキリが孵化してしまったわけです。 カマキリの幼虫は糸を出すので、僕には部屋中が綺麗に光って見えましたし、びっしりとカマキリの幼虫で覆い尽くされたカーテンは、大海原の波頭のようにうねり、壮大そのものでした。 もちろん、即カーテンを外し、焼却炉で燃やすよう命じられました。 それ以来、家の中で虫を飼うのは禁止されました。

ゴキブリが嫌いになったわけ(9歳)

神社にある公園で、学校の帰りに遊んでいるとき、ゆうだい円木(ゆうだい、をどう漢字で書くのか分からない)の端から足を滑らせ、そのまま地面に足を着いて戻ってきた円木ごと逆さまに引きずられたことがある。 そのとき、脛の肉を長さ3センチ幅2センチくらいの大きさでこそげ落としてしまい、白い骨が顔を出してしまった。 身体の外科的な傷に無頓着な僕は、そのままたいした治療もせず、日々を過ごしたのだと思う。 もちろん怪我の部分は、しばらくじくじくとして濡れた状態だった。 ある夜、突然目が覚めた。 妙に足右がチリチリする。 痛痒いような変な感覚と、ざわざわするような硬質な感覚。 起き上がって右足を見たとき、僕は全身が凍りついた。 金縛りにあったように動くこともできず、声も出ず、目だけはその部分にくぎ付けになって、その場でおきている状況を見続けた。 3匹の大きな黒いゴキブリが、僕の右足の、怪我をしてジクジクしている部分の汁とその肉を喰らっていたのだ。 長い細い触角をくねくねと動かし、満足げに僕の足の肉を啄ばむ3匹のゴキブリ。 ようやく呪詛を解き放ち、手で追い払ったゴキブリの1匹が、顔に向かって突進してきた。 どれくらいの大声で叫んだだろう。 恐怖のあまりそれからの記憶がなくなってしまっている。 以来、それがトラウマになって、僕はゴキブリだけはどうにもならない。 ムカデもミミズもなんでも大丈夫だけれど、ゴキブリだけは見ることも近づくことも殺すこともできず、身体が硬直し、震えるばかりなのである。 僕を殺そうと思ったらいとも簡単である。 狭い部屋に入れ、その中にゴキブリを10匹も放せば、1時間でまず気がふれるだろう。 怪我はきちんと消毒して治すべきである。

兄弟喧嘩と鉛筆立て(9歳)

「ふざけんじゃねーよぉ!」といって怒る僕。
自分が悪いんじゃないといって、言い返す弟。 喧嘩の理由は分からない。 僕は頭にきたあまり、思い切り床を叩いた。 次の瞬間、強烈な痛みが走り、床を叩いた左手を上げてみると、そこには7-8本の鉛筆が突き刺さっていた。 笑う弟。 慌ててしまいゆっくり抜かなかったので、そのうち1本の芯が折れてしまい、今でも左手の中央に刺さったまま残っている。 喧嘩をして何か行動を起こすときは、周りによく注意をしたほうがいいというお話しである。

鼻糞事件(9歳)

休み時間に窓の外を見ながら鼻を穿っていた。 人差指を抜いたとき、鼻の奥から「ズリ」っと何かか抜けていく感触があり、指先を見るとそこには見事な鼻糞の塊が張り付いていた。 僕は、丸めて弾き飛ばそうと、暫くそれを見ていたのだが、「食べたらどんな味がするんだろう?」という疑問というか、興味が湧いてきて、「いけない」という理性の声を聞きながらも、「パク」っと食べてしまった。 歯に絡みつくネットリ感と程よい塩味。 正直「旨い」と思った。 ところが、僕のその行動の一部始終を、クラスの女の子に見られていたのだ。 休み時間が終わる寸前、彼女と彼女の仲良しクラスメートが僕のところに来て、「さっき鼻糞食べたでしょう! 私達見てたんだよ」と、悪魔の言葉を浴びせかけて、僕を奈落の底に落とした。 「食べる前に注意してよ!」とは言えなかったし、 「人差指で穿ったけれど、舐めたのは中指だ」などと、嘘丸出し、馬鹿丸出しの返事をして、更に笑われてしまった。 それ以来、鼻糞は食べない。

半漁人(10歳)

ある夜、目が覚めると、天井に半漁人が張り付いておりました。 わたしは、2段ベッドの上に寝ておりましたので、半漁人まで、その距離わずか50cm! 「パパー、ママー!」 力の限り叫びました。 両親は「何事か?」と、わたしの部屋にきてくれました。 扉を開ける両親。 なんと彼らも「半漁人」でした。

学校のトイレ(10歳)

僕が小学校のころは、まだ貧富の差が激しく、給食費を払えないような友達もいたし、殆どの子供がお腹に回虫を飼っていたし、僕のように牛乳と肝油を友達からもらって食べて背が伸びたアホもいたし、肥溜めはあったし、そこに落ちる奴もいたし、チョウトンボは飛んでいたし、人口甘味料チクロのお菓子はあったし、駄菓子屋のばあさんが焼く5円のお好み焼きもあったし、立ちションするおばあちゃんはいたし、半漁人の夢は見たし、お十夜で蛇女は出没したし、空き地があって戦争ごっこは流行ったし、なんだかよく分からないけれど、貧しいのに気持ちだけは豊かな時代だった。 まことに原始的馬鹿だった僕達は、休み時間にトイレに行くと、おしっこをかけあったり、小便器の上にどれだけおしっこを飛ばせるか?というような、意味のないことで大騒ぎをしていた。 故に、学校のトイレはいつも臭かった。
誰かが「大」のほうに入っていようもんならもう大変。 その日1日「大」のレッテルを貼られた日陰者として過ごさなければならなかった。 ご多聞に漏れず、僕はそうやって友達をいびるのが大好きだったので、自分だけは決して学校でだけはしまいと思っていた。
ある日、罰が当たった。 その日は、もよおしていたのに、何故か家でせずにそのまま学校に行ってしまった。 でもこれだけクラスメートを陥れた自分が、学校のトイレに行くわけにはいかない。 何を言われ、何をされるかと思うと、背筋がぞっとした。 だから我慢をした。 その日1日、授業も聞くことができず、ただひたすら我慢をした。 何度下っ腹を刺すような痛みに襲われたことか。 何度目に涙を浮かべ空を見上げたことか。 終業の鐘の音。 幸せの音。 僕は一目散に家に向かった。 走りたいのに走れない。 括約筋を絞めてしまうので、オカマの内股歩きになる。 手は何かにすがろうとする。 思わず声が出る。 心臓の鼓動は200を超えたか? 4階の家までの階段の、チョモランマよりも高いこと。 腸がきゅるきゅると音を立てて縮こまる。 一歩一歩、洩れないように昇っていく、そう洩れないように。 やっと家の玄関に辿りつき、チャイムを鳴らした瞬間、僕は「ああ助かった、ああ救われた」と思った。 そして全てを放出してしまった。 あと10歩だったのに。 天国のような幸せが、地獄になった瞬間だった。
母親に叱られ、馬鹿にされ、蔑まれ、下着を洗わされた。 それでも、学校でトイレに行くより、学校で漏らすよりはましだと思った。

お正月の襖(10歳)

待ちに待ったお正月。 コマ回しと凧揚げとプラモ作りが全盛期。 コマには鉄の芯を入れて大暴れ、プラモには石油を仕込んでウルトラ怪獣との死闘を写真で撮って大暴れ。 おもちゃ屋で買った凧の竜の絵に惚れ込み、誰よりも大きな凧をあげたいと思った。 天啓が閃いたのはそのとき。 家の襖に竜の絵を描き、藁紐の足をつけ、北風がピューピュー吹く中、団地の運動場から夕方の空高く舞い上げて、皆で歓声を上げた。 夜になって親から往復ビンタをくらった。 ああ、いつまでもアホな奴。

金沢にて(11歳)

母親の母方の実家は、金沢にある。 子供の頃は、春夏冬の休みがあるたびに、豊中と金沢に帰省していた。 当時は、ウルトラQを始め、ゴジラ、ガメラが流行っていた。 僕はゴジラが大好きで、将来は、テンプターズのショーケンか、ゴジラの特撮技術者か、ファーブルのような昆虫学者になりたかった。 特に影響を受けたのがショーケンで、「精神的ショーケン性及び性格同一障害症候群」を患っていた僕は、毎日「エメラルドの伝説」を歌い、前髪を矢吹ジョーくらい伸ばして、父親のポマードを付けて鏡の前に立ち、歌うポーズを付けては、悦に入っていたので(要するに、全く勉強をせず、歌ばかり歌っていたので)、学校での成績は図工を除き、全て5段階で2になり、「将来は医者!」を信じていた両親は青ざめ、「今ならまだ間に合うかも!」ということで、家庭教師を付けられてしまった。 そのために! そう、そのために僕は、「巨人の星」も、「8時だよ、全員集合!」も、「謎の円盤UFO」も、いわゆる、子供から学生にとっての「土曜ゴールデンターイム!」を、笑って楽しく有意義に過ごすことができなかった。 トホホ。 ショーケンを怨みましたよ、後になって。 まぁ、その家庭教師が超怒級Sの英語オタクで、英語を徹底的に、ほんとうに、いやぁホントウの本当に徹底的に、スパルタ教育してくれたので、今の僕(英語もできるけれど、精神も歪んだ僕)があるわけですけどね・・・
11歳の冬休み。 金沢のお爺ちゃんの家(?)に遊びに行くと、2階の畳の部屋に、火のついたキセルと灰皿が置いてあった。 木枠の窓から、冬枯れの田んぼが見えたのを覚えている。 「キセルの煙=ゴジラの放射能火炎」という天啓が閃き(僕の天啓は、不幸の前兆が多い)、そのときだけ、愛したショーケンではなく、敬愛したファーブルでもなく、恋したゴジラになり、キセルを「スパスパ」やっては、口と鼻から煙を吐き、弟や従兄妹に襲い掛かっていた。 嬌声と奇声を上げて逃げる弟たち。 僕は、念願の「自由奔放に暴れるスター」になって、嬉しさのあまり煙を吐き続けた。 そして突然、意識が飛んだ。 「急性ニコチン中毒(キセルだから、フィルターもないし)」 目が覚めたときの、あの強烈な頭痛と吐き気は、今でも覚えていて、それ以来、煙草は吸っていない。 僕の中から「男の子の妖精」が、一つ失われた瞬間でもあった。 神様、僕の妖精を、2つか3つ返してください! できれば、10個くらい・・・ 20個? もっと失ったかな? あーん・・・シクシク・・・

子供を産みました(13歳)

やはりこれも、学校でトイレを我慢をしたのがきっかけとなる。 今度は、さすがに漏らしませんでした。 が、我慢しすぎて、硬くなりすぎてしまい出なくなってしまった。 13歳といえば育ち盛りの食べ盛り。 1日くらい出なくたって、気にならないし、ひたすら食べて飲みまくる。 翌日、もよおしてトイレに行ってもまた出ない。 それでも身体に起こっている変化や変調など気にもせず、飲めや喰えやで詰め込みつづける。 そんなことを繰り返すこと5日間。 6日目の朝、とうとう下っ腹が張りすぎて痛くなり(本当に狸のように張り出していた)、身の危険を感じて学校を休み医者に駆け込んだ。 笑いながら「浣腸をしましょうね」と先生に言われたとき、ぞっとして、他に方法がないかを聞くと、指で掻き出す方法があるらしい。 下剤をもらって家に帰った。 馬鹿は本当に死んでも治らない。 薬は大量に飲むほど効くと思い、もらった下剤を全部飲んでしまった。 そして爪を切り、便器に座り、医者から教えてもらった方法で、オロナインを人さし指に塗り、息を大きく吸い込んで掻き出した。 固くなったおはぎに指を入れるような感覚。 何十回と掻きだしたのだが、詰まっている量は焼け石に水の状態らしく、いくら踏ん張っても出てこない。 やがて大量に飲んだ下剤が効いてきた。 全身に鳥肌が走る。 「さぁ出るぞ!」と、出た後の開放感と爽快感を予期するのだけれど、いっこうに期待するものは出てこない。 それもそのはず、出口部分が固くなって膨れ上がり、その奥に控えている黒部ダムの貯水量ほどもある液体物をせき止めているわけだ。 絶体絶命。  とうとう心を決め、お尻に大量の紙を挟み、病院に駆け込んだ。 待合室での待ち時間の長かったこと。 周りの人は、僕の青い顔と歩くこともできない苦しみの姿を見て、どう思ったことだろう? 名前が呼ばれた。
そして浣腸。 5分後、僕は死ぬのかな、とも思った。 先生は、どうにもならなくなるまで我慢しなさい、と言った。 もうどうにもならない状態だった。 正気をとどめている1本の線が切れるほんの数秒前に、僕は大きな子供を産んだ。 そして昇天した。

カミキリムシの幼虫(14歳)

昭和40年代には、家の周りに空き地や林や森まであって、倒木がたくさん転がっていた。 倒木には、クワガタムシとカミキリムシの幼虫が埋まっていて、冬、虫が世界からいなくなると、倒木を穿り返しては、幼虫を集めた。 ファーブル昆虫記の一節。 「フランスでは、カミキリムシの幼虫を焼いて食べる、コッススという料理がある」 で、ファーブルを敬愛するからには、やるべきでしょう!ということで、やってみました。 わざわざ焚き火をおこして焼いて。 ジューシーで蝦のようにプリプリして美味しかった。 今はできません。 気持ち悪すぎます。 今ならたぶん、もっと違う表現になるのでしょう、こんなふうに。 「丸々と太った白い指。 膿んで腫れたようなその皮に歯を当てる。 焼けた皮膚が切れて、プチュという音と共に、ミルクのような体液が流れ出す。 木の香りと不思議な甘さ。 吸って中身を搾り出す。 ああ昼下がりの幻想」

夏目漱石の「こころ」とファーストキス(15歳)

Sさんは、武蔵野から茅ヶ崎に越してきた。 武蔵野に住んでいたということは、非常に格調高くおハイソで貴族であり、茅ヶ崎のど田舎に住んでいる汚泥のような我々とは、精神もライフも雲泥の差があった。 まことに大馬鹿な中学生活を追っていた僕などには、彼女の存在そのものが神のようなものであり、「考えることも許されない」というほど生活に違いがあった。 そのSさんは、海岸近くの一軒家に住んでいたのだが、僕が編集長をしていた調査研究部の、連続写真小説のシーンを撮るときには、何故かよく撮影現場に現れ、僕達の悲しいまでのアホな行動を見ては、鼻でせせら笑っていた(と思っていた)。 そのころ僕にはNという親友がいた。 「K・N・Y」というトリオで、いつも漫才をやりコントをやり、催し物の幹事をやり、学校の人気者だった(と思う)。
中学3年生の修学旅行で、京都・奈良に行ったときのことだった。 行きの新幹線で、僕はマハトマ・ガンジーの真似などをして、いつものようにふざけていたのだが、突然Sさんが僕のところにやってきて「コバ、ちょっと話しがあるんだけど」と耳打ちされた。 僕は、憧れのSさんに声をかけられたというだけで、呪文にかけられたマリオネットのようになり、フラフラと彼女についてデッキまで行った。 彼女は、映画のシーンのような美しい仕草で、振り向きざまいきなり僕にこう言った。
「わたしね、コバのことが好きなの。 ずっと好きだったんだよ」
突然の告白に、しかもあのお嬢様のSさんからの、印象派絵画のような告白に、頭が白紙となり、どう答えていいやら全く分からず、薄ら笑いを浮かべながらただ呆然と突っ立っていた。 そして彼女が言った。
「コバはどうなの? わたしのこと好きよね?」
「はい」 それが僕の答えだった。 だって他にありますか?
そして2人は、一瞬にして強制的相思相愛関係になった。
修学旅行の3日間、僕はいつも彼女から見られていた。 その視線を感じるたびに、僕はぽーっと舞い上がった。
帰りの新幹線を待つ京都駅。 今度は、Nが僕に近づいてきた。
「コバ、俺さぁ、好きな人がいるんだよ」
「え?誰? 教えてよ」
「じゃぁ今からその彼女の横を通るから、真横に来たときに手を上げて合図をするよ」
そう言ってNは、すたこらと歩き出した。 わくわくしながら彼の後を追う僕。 向こうのほうでSさんが僕を見ている。 Nはどんどんと進み、なんとSさんの前で手を上げた。 一瞬にして顔がこわばる僕。 Nが戻ってきたとき、作り笑いで答えていた。
「いいじゃない、お似合いだよ。 君ならきっと上手くいくよ」
Nが満足げに姿を消してから、僕はSさんを呼び出し、ことの始終を語った。 Sさんは言った。
「N君に告白ても、断ればいいんでしょう」
そう、僕は親友を売ったのだ。 Nは、はたしてきれいさっぱりと、Sさんにふられ、Yさんという美しい彼女が現れるまで、一人身の寂しさを味わった。 僕は、罪の意識に苛まれながらも、舞い上がる恋に心奪われていった。 その年の夏、僕は夏目漱石の「こころ」を読んで、死ぬほど驚いた。 自分を重ね見たような気がした。
秋になり、中学校最後の文化祭があった。 僕は、理科部の催し物の総指揮をとりながら、体育館でのコンサートにも出演していた。 理科部の出し物は「火山」というもので、理科室中を全てジュラ紀のパノラマにし、そこにいくつもの火山を作って砂糖を入れ、硫酸をかけることで溶岩を噴き出させる、という極めて危険なものだった。 もちろん天井からは、解剖に失敗した鳩の剥製が吊られ、水酸化ナトリウムで溶かされた蛙の骨格標本などが、パノラマのあちこちにちりばめられていた。
なぜ、ここにつながるのかは分からないのだけれど、文化祭が終わり、男3人、Sさんを含む女3人で、友人の家に集まり、「コックリさん」をやった。 出てきたのは外人の女の子で、交通自殺をしたとのことだった。 あのときの恐怖は、今でもよく覚えている。 今考えると、Sさんのトリックだったのだと思う。 彼女は、信じられないほどの読書家で、ありとあらゆる本を読んでいた。 本の解説を始めると、本の内容のみではなく、その背景や作家のことについても、評論家のようにすらすらと語ることができた。 僕が「こころ」などという本を読んだのも、ファーブル昆虫記を読んで改心したのも、それから哲学なんかにはまり込んで、カミュに傾倒していったのも、Sさんの影響である。
6人で川辺を散歩していたとき、僕はいきなりSさんに手を握られた。 フォークダンスくらいでしか女の子の手など握ったことのなかった僕は、飛び上がるほど驚いたが、Sさんの自然でありながらも「指導をしているのよ」という圧力感に気圧されて、おとなしく手を握られるままになっていた。 友人の家に戻り、僕達2人は壁に背を持たれかけさせて、金色に輝く夕日を正面から受けて床に座っていた。 手はつないだままだった。 彼女の頭が僕の左肩に触れたとき、ごく自然に唇を重ねあった。 彼女の顔が、金色の夕日に照らされて、小麦色に輝いていた。 僕のファーストキスの味は、だから秋の金色の夕日の味なのだ。 残りの友人4人に、ばっちり全てを見られていた。 翌日、学校はこの噂で大変なことになっていた。

高校時代そして辛い学生時代(16-20歳)

Sさんの言いなりで自分の意志もなかった僕は、案の定16歳になってあっさりと振られ、その悔しさを何故か勉学にぶつけてしまったのですね。 で、高校時代、そして学生時代の思い出や若気の至りはあまり記憶にないのです。 冬でも短パンで体育の授業を受けていたことくらいかな? フォークソングを卒業し、イエス、クリムゾン、クィーン、ツェッペリンが現役バリバリの時代で、この時代に生きられたことを幸せに思います。 ちなみに僕は、髪の毛が腰まであり、マントを着て団地を歩いていましたっけ。

初めての酒望郷熱海編(20歳)

僕が、正社員として勤めた最初の会社は運送会社だった。 40歳になるまでは、それは恥辱的なものだったのだけれど、ある日お世話になったヘッドハンターの一人が、「あなたは、この運送会社の経験があるから価値があり、だからこそあなた自身が頑張って、今ここにいるのだということを誇りに思いなさい」と言われたわけですね。 そのとき以来、「最初の仕事は運送会社です!!!」と「!マーク」を3つか4つつけるくらい、自信を持って、誰も尋ねていないのに、自ら胸を張って言うようになった。 困ったものです。 で、今はインドの会社・・・ これって何?
さてさて、これは、社員旅行で、熱海に行ったときの出来事。 宴会の席で、童貞(当時)で、しかもウブ(当時)な僕は、かっこうの餌食になるわけです。 毛むくじゃらのおじさんたちに、「小林飲め!」と脅されても、強要されても、「いいえ私は飲めません、父親譲りで飲まないの、飲んだらあかんのやぁ、身体が受け付けへんねん、酒なんて麻薬と一緒や、ぜったいにぜーったいにじえったぁーーいにぃ飲まへんでぇ、いやん!」と頑なに断っていた。 そこまで頑なに拒めば、さすがに無理強いはされなかったが、「飲まないなら芸をしろ!」ということで、赤いネグリジェ、赤いレースのブラとパンティ、金髪のかつらを身に纏い、真っ赤な口紅を付け、腰をフリフリ、妖しく踊らされた(これでも昔は綺麗だったんですよ・・・)。 何人かのおじさんは、酔っていることもあり、本当に興奮してしまって、僕の争奪戦を始めた。 ここで童貞(当時)を失ってなるものか! おやじと関係(当時、あっ今も)を持つわけにはいかず、「あら、いややめてぇ」と嬌声をあげながら逃げ惑い、優しそうなおじさんにすがり付いては助けを求めた。 「小林君、ずっとうちにいてくれるよな!」 社長にそう言われてしまうほど、おじさんたちに可愛がられていたんですよ(当時)。 うふふ。
事件は、そんなアホなことをやっていた直後に起こった。 宴会場の照明が、いきなり消された。 「何か始まるのかな?」と思っていたら、紫ピンク色のライトが、障子の向こうに現れた。 怪しげなメロディが鳴り始める。 そして入ってきたものは、僕より妖しい白のネグリジェを着た、化粧の濃いおばさん二人だった。 おじさんたちからは、ヤンヤヤンヤの大合唱。 「何が始まるのか」を、咄嗟に判断した僕は、「彼女ともまだなのに、見てなるものかぁ!」と、部屋から逃げ出そうとした。 ところが、僕がまだ肉体的童貞精神的処女と知っているおじさんたちは、「オラオラ、今さら見たくねぇじゃねえよ」と言いながら、逃げる僕を捕まえ、羽交い絞めにし、畳に押し付け、特等席(舞台まで約1mの極めて松席的至近距離)で、その淫らなショーを見せられることになってしまった。 目を固く閉じても、時計仕掛けのオレンジのようにこじ開けられ、流れてくる初めての強烈な映像を、そのまま受け入れるしかなかった。 舞台が終わったとき、そこには壊れた玩具のような自分が転がっていた。 そして僕は、酒に手を出しましたよ、ええ、自分から。 それは、初めてにして、初めての自暴自棄の酒でございました。 おーいおいおい・・・しくしく・・・ 飲んだものはビールで、結果は言わずと知れたこと。 後で、あれを「花電車」と呼ぶのだと知り、一生、彼女には黙っていようと思った。 そして、酒だけは今後一切やらないと、固く、そう固く自分に誓ったのだった。

飲み歩きの毎日(21歳―40歳)

永遠の 禁酒誓った 翌日に 酒で忘れる 誓いと苦悩
こうして、僕の中から妖精がいなくなってしまいました。

ワインと乾燥イチジク(40歳)

ワインと乾燥イチジクを一緒にやるときは、イチジクをよーく噛み砕いてから咀嚼すること。 何よりも、その場合泥酔しないこと。 何故かって? ユニットバスの床を溶かして、穴を開けたくなかったら、これは鉄則です。 家に帰り、風呂場で力尽き、朝起きたら、ワインと胃液をたっぷり含んで、5倍くらいの大きさになった、えび茶色の大きなイチジクが、風呂場の床に2-3つ「どろり」と落ちている。 その形どおりに、ユニットバスの床が溶けて、穴が開いているというわけです。 胃液って、とぉーっても酸が強いということを、悟った瞬間でした。

夜風(40歳)

6月の湿った夜でした。 蛍でも鑑賞しようと、南禅寺から哲学の道を散策し、宿泊する真如堂まで黒谷を抜ける山道での出来事です。
夜露が朧月の光を溜め込み、ツユクサの葉の上で消えかかる蝋燭のように揺れていたり、自分のいるところだけ虫の音が消えて、移動するとまたすぐに鳴き始めたり、何か鳥のような声が、静まり返った森の中を響かせているのを聞きながら、1本道を登っていました。 後ろの人影に気づいたのは、そちらの虫の音が消えたので、振り返ったときでした。 女性のように見えました。 相手も私を見て立ち止まっています。 全身に鳥肌が立ち、とにかくこの道の先、すぐ先にある外灯のところまで行こうと、逃げるのを悟られないように、歩調を速めて坂道を登り始めました。 ところが、足が思うように動きません。 振り返ると女性は、すぐ後ろまで迫ってきています。 「ああ、もうだめだ」「このまま冥府に連れて行かれても仕方ない」と、外灯を見ながら立ち止まっていると、その女性は、私の右横を通り過ぎていきました。 そしてまた虫の音が鳴り始め・・・

FちゃんとKちゃん(41歳)

被害者: FちゃんとKちゃん
目撃者: K嬢(Fちゃん、Kちゃんの同僚)
日時: 10月末の寒い日
場所: 西麻布のメキシカン
死因: 急性アルコール中毒と泥酔夜間屋外放置
殺害方法: テキーラで山手線ゲーム
予期せぬ問題: 二人の上司が、沖縄の式典より急遽帰京
被害者の証言: Fちゃん「恥ずかしくて、彼女には話せません」、Kちゃん「凍え死ぬかと思いました」、Fちゃん「でもMickさんは悪くありません」、Kちゃん「はい、Mickさんは無実です」
加害者の証言: 「顔をいくら叩いても反応がなく、そのときは、ついに人を殺してしまったと震えましたが、病院に搬送されて、容赦ない看護婦さんに、尿道管を挿入される際、狂ったように暴れたので、大丈夫だ!死なない!と確信しました。 「Kちゃんのほうが、むしろ心配でした。 あの寒い夜、上着も鞄も店に残して、消えてしまったのですから」「でも、これで、彼らは僕の奴隷だと思いました。 だから、僕に不利な証言はしないでしょう」

K嬢(41歳)

被害者: K嬢
目撃者: M氏、Y氏、Fちゃん、Kちゃん、H嬢
日時: 12月末のとても寒い日
場所: 新橋烏森口のメキシカン
退散方法: Y氏のおんぶにより、タクシーにて自宅へ搬送
死因: 泡吹き型急性アルコール中毒
殺害方法: 褒め殺し
事前対応策: 「打倒Mick!」を誓い、社員研修にテキーラを持ち込んでの、徹底的なスパルタ「山手線ゲーム」特訓
対戦前予測: K嬢の圧勝
勝負結果: Mickの楽勝
被害者の証言: それ以来、公の場に姿を見せず
加害者の証言: 「みんなが、彼女は強いと言うので、どんどん進めただけですよ」
Fちゃんの証言: 「いやぁ、酔っ払って泡を吹いた人を、始めて見ました、すごかったです」
M氏の証言: 「うーん、今回も負けてしまったか! 次は、誰を刺客に送ろうか?」

K嬢(41歳)

エレベータで4Fを押し、扉が閉まり際に、白い服を着た女性が歩いてきたように見えたので、「開」を押そうとしたのだけれど、タイミングが悪く、エレベータは動き出してしまった。 2Fを通過するとき、やはり白い服を着た女性が待っていた。 「2Fくらいからだったら、階段で降りればいいのに・・・」 私は、なんとなくそんなことを考え、3Fを通過するとき、そこにも白い服を着た女性が待っていた。 私は、咄嗟に「やばい!」と思った。 これでもし4Fに白い服の女性が待っていたら気絶する、と思った。 幸い4Fに着いたとき、そこには誰もいなかった。 胸を撫で下ろし、通路を歩いていると、後ろに人の気配がする。 振り返ると、そこには白い服を着た女性が立っていた。 私は、あまりの恐怖に立ち竦んでしまった。
「ごめんなさい、忘れ物をして階段を上がってきたんですけれど、脅かしたらいけないと思って、お声をかけなかったんです」

Mickの部屋(エピソード11)

完全私小説化第3弾!

思わず大家さんに聞いてしまいました。 「すみません、気の弱い住人のMickですが、今回も家賃が納められそうにありません。 はい、ちゃんと働いているんです、でも出て行くものが多くて・・・ いえいえ、滅相もない、ギャンブルなんかに手を出してなんかいませんよ。 ただ、身体が、ゲホゲホ!あっすみません、ゴホゴホ!あっこりゃどうも、なんか病気なんでしょうか?調子が悪くて、なかなか勤めに出られず。 こうなったら、身売りをするしかありません。 また、私小説を家賃代わりにしていただけないでしょうか?」
寛大な大家さんは、二つ返事で「いいですよ、いいですよ」と了承してくださいました。 でも、目が怒っていましたっけぇ。 その代わり、次回は、本当に真面目な超大作を書くと約束してしまい、今からどんな言い訳・・・ ではなくて仮病・・・ でもなくて内容にしようか、考えあぐんでいます。

「あら?」 誰か知り合いに、背中を触れられた気がした。 通勤の満員電車の中。 少なくとも10人はいる周りの乗客と、身体のどこかが触れ合っている、私の大嫌いな時間。 でも朝早く起きられないし、お化粧もできないし、結局こうして毎朝嫌な時間を耐えている。 その手の感触は、「知り合い」と思わせる何か暖かさのようなものをもっていた。 後ろを振り返ってその手の主を探したけれど見当たらず、「俺は触ってないぞ!」といわんばかりの、戸惑いと怒りが溶けたような中年おやじの顔が3つほど見えただけだった。

1週間ほどして、今度は電車を降りようとしたときに、同じように肩を触れられた気がした。 ホームに降りて、閉まりかけたドアの向こうを探したけれど、そこにも知り合いの顔はなかった。
「気のせいかなぁ? なんか不思議だな」と思いながらも、すぐに忘れてしまった。

何かが触れている、何かに触れられていると確信したのは、いつも出勤前に立ち寄るコーヒーショップのウィンドウに、急ぎ足で歩きながら自分の姿を映して、コーディネートや襟などの細部が決まっているかをチェックしていて、背中にそれを感じたときだった。 振り向いても誰もいないし、ウィンドウにも誰も映っていない。 でも、背中を優しく撫でられていた。 その優しさとは逆に、突然体中の皮膚がざわめいて鳥肌が立ち、あまりの恐怖にしゃがみこんでしまった。
「大丈夫ですか?」
通りがかった男性が声をかけてきたのだけれど震えが止まらず、もう一度「大丈夫ですか?」と肩をつかまれ正気に戻った。 その日は1日、まったく仕事にならず、手のことをずっと考えていた。
「あれはいったい何?」
夜一人で寝るのが怖かったし、とにかく誰かに相談したかったので、和人に携帯メールをして、アパートまで来てもらうことにした。

「ばっかだなぁ!そんなことあるわけないじゃん!ホラー映画じゃないんだからさ」
真剣に相談しているのに、和人は私の心配を鼻で一蹴した。
「そぉかなぁ、でも本当なのよ、本当に誰かが触るのよ」
いくらうったえても、和人はもう私の話など聞かずに、「忘れなよもう、それよりさぁ・・・」と言っていたずらそうな目をして擦り寄ってきた。 「もう!男なんて女の気持ちを全然考えないんだから」と少し憤慨しながらも、彼に身をゆだねているうちに、確かにばかげていると自分でも思い始め、やっと気持ちが落ち着いた。

和人が自殺をしたと聞いたのは、彼と別れたその日の夕方だった。
「じゃぁまた来るよ、たまには俺ん家にも来いよな」彼が言い、「いやよ、あんな汚い部屋」私が言った。 だから、和人が自殺なんてするはずがない。 嘘だ、誰かのいたずらだと思いながらもお通夜に行くと、そこには和人の笑っている遺影があって、その時はじめて彼が死んだのだと実感し、もうどうしていいか分からず、ずっと椅子に座って震えていた。 手が空から降りてきて、私の背中を優しくなでていたけれど、私は泣き続けた。

「自殺じゃなくて、誰かにホームから突き落とされたんだろう?」
「うーん、分かんないんだよなぁ。 俺、あいつと一緒にいたんだけどさ、普通だったんだぜ、冗談とか言い合って。 そうしたら突然何かぶつぶつ独りごとを言い出して、急に上を見て、これ以上近づくんじゃねえ!とか怒鳴り始めて、でも誰と喧嘩してるのか分らなくてさ、そのうち後ずさるようにしてホームに落ちたんだよ。 自殺をしたって感じじゃないんだよな、それに遺書なんてないんだろ?」
和人の友人たちが、そんなことを話していた。
「手だ」私は、そう確信した。
「あなたがやったのね?」手は、その感触だけを残して、すっと私の背中から引いていった。
「誰かに真実を話さなくちゃ。 和人は自殺なんかじゃない、殺されたんだ」

でも私の話しを、いったい誰が信じてくれるだろうか?

恵美なら信じてくれるだろうか? よく金縛りにあうと言っていた。 金縛りにあうと、枕元に誰かが立っていて、怖くて目を開けられないとも言っていた。 きっと笑われると思いながら恵美に電話をすると、話しを聞いてくれるというし、近くにいるというので、駅前の個室のある居酒屋で会うことにした。 この数週間私に起きていることを、恵美に説明した。 泣いたり興奮したりせず、ちゃんと話せたと思う。
「彼のことはショックだろうけれど、思い過ごしじゃないかしら?」
「だって、恵美は霊を見たりするんでしょ? 金縛りにあったりも」
「霊というよりも意志みたいなもので、実際に触れたりはできないわ。 疲れているんじゃない? 私の入っているサークルがあるからおいでよ、明日も会合があるわ。 皆で幸せな生き方とかについて話しをするの。 最初ならお金もかからないし」
恵美と話しをしているうちに、話している自分がピエロに思えてきて、一気に興ざめしてしまった。 「この人には分らない、分らないどころか話しても無駄だ」 明日の会合に出ると、いい加減な返事をして恵美とは別れた。

私は、どこかがおかしくなってしまったのだろうか? 手なんかが触れるわけがない。 でも、和人は死んでしまった、それだけは事実だ、それも事実じゃないのだろうか?

翌日は、会社を休んだ。 「会合には用事があっていけなくなった」と恵美に電話をした。 留守電だったのでメッセージを残し、アパートで何もせずに、だらだらと続く通販の番組を、垂れ流すように見ていた。 携帯に恵美から電話がかかってきた。 「面倒くさいな、改めて断るの」と思ってとったら、彼女の母親からだった。
「恵美の母親ですが、あなたどなた? 恵美と昨日話しましたよね?」
「はい、夜お会いしました。 どうかされましたか?」
「恵美が亡くなりました。 突然、心臓発作で」

「手だ」私が話した人を、みんな殺していく。
警察の人もいて、事情を聞きたいと言われ、いったい何を話したらいいんだろう?と思いながら、着替えをした。 「見えない手が殺しました」と言えばいいのだろうか?

表に出ようとドアノブを握ったとき、ノブに握り返された。
「はっ」と思った瞬間に背筋が凍り、目の前が真っ暗になった・・・

目を開いているのにずっと暗いまま、身体は浮いていないのに、どこにも触れていない。 叫んでも叫んでも声は出ず、耳を凝らしても何も聞こえず、身体に触ろうとしても、私の身体が見当たらない。

誰かに触れたい。 誰かの優しさに触れたい。 そう思って、手を伸ばし始めた。

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