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Noriさんの部屋 第19回

こんにちは、DVD+RWのNori-sanです。

何とプラスの部屋はしばらく休業とか、まだまだダイビングの話の続きがあったのに、、、。しかし考えてみれば、これだけDVDが普及すると、今更プラスもマイナスも気にせずに皆さん活用されているでしょうから、このサイトの役目もりっぱに果たしたのではないでしょうか?
そんなわけで、今回は部屋の住人は全員、DVD+RWの思い出を書くようにとおおせつかりました。 

Nori-sanがDVDと出会ったのは、2000年頃の遅い時期で、ドイツの車載機器開発部門でエンジニアとして働いていたときでした。第1世代のカーCDの量産を立ち上げて、休みの日にはドイツ中を走り回っていた折、晴天の霹靂のように帰国命令が出ました。「至急日本へ帰り、新しい任務に就くように。新しい任務はDVDの開発である。」涙、涙でドイツの同僚たちと別れを告げ、飛行機がフランクフルト空港を離陸した瞬間、涙が出ました。「何で日本になんか行かなきゃいけないの? 俺は一生ドイツ勤務で良いのに、、、」
そして東京です。CDの発明者で、オランダで文化勲章ももらった光ディスクの大御所Dr. J. Heemskerkが待ちかまえていました。彼と一緒にDVDフォーラムへ参加し、どうもこれは、日本の多勢に無勢作戦で、日本メーカ主導で規格が作られていることに気がつき、ユーザの立場に立ったDVD規格を作ろうと(当時)6社で+RWの開発を始めたのでした。
DVDフォーラムとは異なり、この6社の利害は全く一致しており、我々は、それこそ大学の研究室のような雰囲気で開発を進めたのです。この名残(残党とも言います)が、このサイトのプラスの部屋の住人達というわけです。

6社で交替で会議を主催したので、オランダ、デンバー、モントリオール、香港等、世界各地を訪問する機会を得ました。その中でも、記憶に残るのは、開発会議としては最終回であった長崎でのもので、日本(Sony, Ricoh, Yamaha, 三菱化学等)とオランダ(Philips)の架け橋になった出島を正面に見るホテルで記念の最終会議を行いました。
長崎は、出島を始めとした江戸日本の外交関係の歴史、原爆の歴史、坂本竜馬による明治維新のきっかけ、キリスト教迫害の地、
といった沢山のテーマをもつ街で、ここは後日再訪したいと考えています。五島列島に沈む夕日がとてもきれいでした。

思えばNori-sanはCDの開発に始まり、BDの開発で定年を迎え、所謂光ディスク人生を歩んだことになります。(実はCからBへ一つ変わっただけとも言えます!)しかし、この光ディスク人生の過程で経験したドイツ文化との接触と、光ディスクを仕事にしていたからこそ出会えた同僚に強制的にダイビングを教わったことが、どんなに貴重な経験であったかは、何度言っても言い尽くせません。この二つが無かったら、Nori-sanの人生も、会社と家の往復で、たまに、温泉に行く程度のつまらない生活を送ったことでしょう。
あと何年、光ディスクが生き残るかわかりませんが、光ディスクに乾杯!

▼▼以前の記事はこちらからご覧ください。
Noriさんの部屋 第1回
 皆さん、こんにちは。DVD+RWの開発を担当してます“Noriさん”といいます。このホームページのリニューアルにあたって+(プラス)になる話を皆で順番に書くことになりました。

私はこれまで我が家のベッド以外では、仕事で行っていたドイツの田舎町の宿屋のベッドで寝た回数が1番多く、いまでもフランクフルト行きの飛行機の下にドイツの森が見えてくると“ああ故郷に帰ってきたな”と感じます。そんなわけで、ドイツと+(プラス)の話をさせてください、と言ってもドイツ人の名前についてです、今回は。

僕のいた町はその昔、かの文豪ゲーテが17歳のころ弁護士を目指して通った学校がありました。彼は半年くらいしか滞在しなかったのですが、下宿屋の近所に住んでいる地元公務員の娘を見初めてアタックをかけたのです。
しかし彼女には婚約者がおり、最後は見事にふられてこの町を出て行き、2度と弁護士のことも口に出さなくなったそうです。
意外と簡単に夢見ていた職業をあきらめたんですね。しかし彼の文学的才能は、そのふられた経験をも1冊の本にしました。それが“若きヴェルテルの悩み”と言うのですが、皆さんも聞いたことがあるでしょう?後日, 文豪と称せられて有名になったため、僕のいた町では現在でもその時のゲーテの彼女の名前“シャルロッテ”を生まれた娘に付ける親が多いのです。むこうでは皆、苗字ではなく名前で呼び合うので、会社の中にも数人居たシャルロッテを呼び分けるのに気をつかいました。
ところで、男の子の名前はどうなのでしょう?これがあるのです、やっぱり。ドイツ全般に多いそうなのですがクリストフという名前をよくつけます。どうしてでしょう?

話は飛びますが、ヨーロッパの父なる大河ラインは全長1300kmもあります。下流にさしかかるケルンあたりでは川幅500mと言います。もちろん橋が無くては渡れませんが、実はこのライン河に60kmもの間、橋がひとつもかかっていない区間があります。そうです、コブレンツとマインツの間の世界遺産にもなっている区間です。ドイツ人は、環境を守る事に ものすごいエネルギーを費やす国民で、橋を掛けると景観が壊れることを知っていて、この区間だけは未だに渡し舟が村々を行き来しています。皆さんも時間が無くてライン下りが無理な時は、せめてラインの渡しに乗ってみてください。ひとときのゆったりした時間がすごせることを保証します。

さてさて、時代はさかのぼりその昔このライン河の渡しは、船でなく人間がやっていた場所もありました。お客さんを背中にのせて河の浅瀬を歩いてわたっていたのです。
そんななかに一人の屈強な若者がいました。名前は知られていません。ある嵐の夜、彼の川辺の小屋をノックして“どうしても今夜中に向こう岸に渡りたい”という子供が立っていました。嵐で河は濁流化していますし明朝1番で渡ってあげると言っても聞きません。若者はそれではと、嵐の中をこの少年を背負って河に入りました。
ところがこの少年、1歩歩く度に重くなってゆくのです。若者はそれでも濁流の中を進み続けました。まるで巨石のように重い少年を背負って。そして彼がライン河を渡りきった時には、東の空があけ始めていました。若者はもう息たえだえだったのです。
少年は地面に降り立つと“どうもありがとう、あなたは世界中の艱難辛苦を背負ってくれました。”と言って胸から何やら取り出したそうです。それが朝日に輝き、十字架だと気が付いたとき、若者の命は途絶えたそうです。
そうこの少年こそは幼子キリストだったのです。キリストは若者の勇気を称えて、キリストを背負うもの“キリストフォロス”という名前を彼に与えました。それがやがてクリストファーになり、若者は“クリストファー聖人”と呼ばれ、ドイツの交通安全の守り神として現在に至るまでライン河の渡し船発着所から車のお守りにまでその姿を見ることができるようになりました。そしてこのような力持ちで勇気のある男の子にあやかり、クリストファーがクリストフになってドイツの男の子の名前としてつけられるようになったのです。
僕の友人にもクリストフ君がいますが、彼は企業用コンピュータシステム構築の会社の社長としてドイツ中を走り回ってDVD+RWのドライブをサポートしてくれています。
そう、今日のお話は幼いキリストの持っていた十字架こそ+(プラス)のシンボルマークだったということでした。それではまた。
Noriさんの部屋 第2回
こんにちは、Nori-sanです。+RWは使いこなしていますか? プラスに限らず、DVDの記録メデイアって結構傷に弱いと思いませんか?息子なぞはCDと同じ感覚で 机の上に放り投げていますが、時々再生しなくなった、と泣きついてきます。見ると傷だらけです。今は、かならずハードコーテイングの付いたディスクを使うようにしています。
さてさて 前回はドイツ人の名前について書きましたが、今度は彼らのおもしろい習慣について幾つか御紹介しましょう。ドイツでは朝は8時くらいから仕事を始めます。早い人は7時には来ています。冬なら真っ暗です。その代わり普通は16:00に終業で、ようようと帰宅します。夏なら22:00くらいまで明るいので家に帰っても十分な時間があるのです。帰宅して何をするのかって? そりゃサッカーを楽しんだり、鹿撃ちに行ったり、グライダーや熱気球に乗ったりさまざまですが、一番多いのは何だと思いますか? 何と自宅を建てることです!家はドイツでは自分でこさえるものなのだそうです。もちろん電気と水道、それに地域の行政のサービスである、冬の熱湯暖房管の引き込みは、業者にお金を払ってやってもらいますが、そこから先、基礎のコンクリートを打ってレンガを並べ、間仕切りを作り、屋根を葺いて壁紙を貼るのはすべてオーナーの手仕事です。そのために町には必ず建材屋さんがあって、風呂桶から電灯のスイッチまで何でも売っているのです。
これはドイツには地震が無いことに起因しているようです。ですから役所の認可といったものが不要で、建築基準法のようなものも無いのでしょうね。友人の家を訪ねますと、彼は自慢気に“僕の家はここまで出来た。”と家の中を案内してくれます。そして必ず未完成の部屋があり大工道具で満ちあふれています。何年か後、再訪しますと、見事に部屋が完成していて
生まれたての赤ちゃんが寝ていたりするのです。そして彼らへのほめ言葉で忘れてはならないのは“よく出来ましたね”ではいけません。”頑丈に出来ましたね“が最高の褒め言葉になります。そう、丈夫に堅牢に。あのBMWやベンツのように少しくらい重くても長持ちすることがドイツ人には物作りの基本となっています。これはずいぶん日本人技術者である私には参考になりました。だって日本車なんて6年経って、法的に価値が無くなったらただちに、溶接が外れて、エンジンの騒音が入ってきたり、ボデーがやわやわになって維持するのをあきらめさせるように設計してあるじゃないですか。日本では、そうしないと優秀な設計者と認められません。ドイツではそのような物作りは軽蔑されます。車は最低15年は乗るものという前提で彼らは品定めをします。通常は20年は乗るようで、そのような年代物のベンツがきれいに再塗装され、品の良い老夫婦が乗っているところに出会うとこれは全く一幅の絵になり、思わず立ち止まって見とれてしまいます。時間の経つことの美しさを,日本人は明治以降忘れてしまったようですね。
ところでドイツで自宅を作る必要の無いNoriさんはいつも 何と18:00まで会社で働いていました。先に帰る連中は“あの日本人ときたら、きっと無能なんだよ。だからああやって毎日夕方まで働かないと俺たちドイツ人並みの仕事が出来ないのさ、へっ、可愛そうに。”という視線を送って帰って行きます。おかげで仕事ははかどりました。会議はないし、あるのは日本との連絡が時差の関係で夕方から始まるだけです。皆さんは何で僕が毎日18:00まで会社に居たか想像がつきますか? 正解は、夕食を食べる中華料理屋の開店を待っていただけなのです!

もうひとつ びっくりしたのは、かれらは大人になってもおやつの時間があるということです。
始業後2時間ほど経つと、皆いっせいに仕事を止めて、会議室のような場所に集まってきます。
そこで、今日が誕生日の人はお手製のケーキなぞ広げて“今日はあたしの誕生日なの。皆 私を祝福して頂戴”と皆に振舞います。そう、日本とは逆に我々はプレゼントを上げる必要は無く
祝ってほしい人が、何かを持参するのが欧州での習慣のようです。中には“今日はうちの飼い猫の誕生日だから”とかで持ってくる人もいましたね。まさかキャットフードで出来たケーキではなかったのでしょうね。食べた感じは普通でしたが、、。このおやつの習慣はキンダーガルテン、つまり幼稚園からの行事が、大人になっても残っているのだそうです。やれやれ。
というわけて、今回はドイツの10時のおやつの習慣を+にかけさせていただきました。それでは、また。

Noriさんの部屋 第3回 (2006年9月寄稿)

こんにちは、 Nori-sanです。今年のドイツはワールドカップで賑わい、日本人にとってもこの国は随分なじみのある国になったのではないでしょうか? 彼らの国民性は日本人に似ている部分があって、ぜひ、ビールやソーセージだけでなくドイツ人の気性にも触れてもらいたいと思います。こんなことがありました。6月の雨上がりの日曜日、レンタカーを駆って近くの森に出かけました。ドイツの森には物語が溢れています。これからいろいろドイツの森で起きたことを紹介してゆきますが、本当にこの国の森に入ると童話の題材には事欠かないのです。 例えば昼間でも真暗な森があります。杉系の木がびっしり植えられているその場所は、向こうが見通せません。もちろん太陽光線もいっさい地上には届きません。車で森を走っていて急に片側の森の景色が真っ暗になるのはそんな時です。昼間でもそこだけは夜なのです。車を道端に止めてその黒い闇を覗き込むと、向こうに二つ、金色に光る丸いものが見えたりします。狐がじっとこちらを見ているのです。また家族でいる狐に出会うと大きい丸と小さい丸がいくつも光っています。とてもきれい。彼らも、こんな場所に車を止めて出てきた動物を見極めるようにじっと対峙します。この間、数分、まるで真剣で向かいあっているような透明な時間が過ぎてゆきます。 さてさて、6月の森の話です。アウトバーン3号線をDietzで降りて,近くのMontabauの森といわれる場所にCDを持って行き、そこでじっくりブラームスの交響曲1番を聞こうという目的でした。普通、森の中はVerkersfreiという標識があって、散歩の人以外は立ち入り禁止なのですが構わず、車を森の深い場所に止めます。6月の雨上がりですから地面は急速に温められ、森の中に霧が立ちます。特に、太陽光線が丸く地面まで届いている場所では白い筒のような霧がもくもくと立ち登り、その白い筒が“そよ”と吹いた風ですーと横に流れて行くのが、まるで白いレースのドレスの女性が雲に乗って流れて行くようで、とても不思議な光景です。 そこでボリュームを上げて良い気分でブラームスに浸っていた時です。誰かが車のドアをノックしました。見ると警察官が二人立っています。“やばい、これは ポリツァイだ”とっさに パスポートは持っているかとか 国際免許はどこにいれた?とか自問します。“あんたはここで何をやっているのかね?”と一人が丁寧なドイツ語で聞いてきます。自分は日本からの訪問者で、近くの町に滞在していて、休日なので、ここでブラームスを聞いているのだ、と答えますと一応納得したようで、車のナンバーをレンタカー会社に照会したりしています。ああ助かった、と思ったその時、かの警官は言ったのです。“ところで我々2人もあんたのそのカーステレオを一緒に聞くことは可能か?!”結局、そのあと約1時間、我々3名の日独紳士(?)はMontabauの森の奥深くでブラームスの1番の全曲に耳を傾けたのでした。帰り間際“この森は時々ハンターが入るので銃声には気をつけて“とアドバイス。”その時はチャイコフスキーの“1812年”を聞くことにしますよ。“と答えて大笑いで別れました。音楽はその国を反映しますよね。やはりドイツ人の曲はドイツの森で聞くに限ります。シベリウスはフィンランドで、モーツアルトはオーストリアの、お城の一室のような場所が最高、と思っているのは私だけでしょうか? 一度そういうツアーを企画して、皆さんをお連れしたいと思っているNori-sanです。

Noriさんの部屋 第4回 (2006年12月寄稿)

こんにちわ 、DVD+RWの規格開発を担当しているNori-sanです。前回に続いてドイツの森の話をしましょう。日本では森と言うと、白神山地とか屋久島とか、何か長距離旅行をして有名な場所まで行かないと霊気溢れる森を体験できないと思っていませんか? たしかに関東地方の森はおしなべて武蔵野の雑木林の気配があり、森の奥行きがあまりありませんよね。また大きな森は、山の一角を構成していて山の斜面の為にこれまた奥行きがありません。ドイツの森は、少しうねった地面に延々と続く広大な森が多いと思います。車で通りぬけるのに数時間というやつもあるのです。私の知っている代表的な森は旧東ドイツにまたがるハルツ山地の森、そうハルツの森です。日本ではドイツ南部の黒い森、シュバルツバルトが有名ですが、これは丁度志賀高原のように山頂を縫って走る、割と開けた景色に広がる森で、ハルツのような深さ、暗さに欠けます。まあどちらが好きかにもよりますね。

そのドイツの深い森を散歩していたNori-sanの奥さんは、夕方から吹き始めた風で、森の木という木が皆大きく揺れているのに気が付きます。森の木の背の高さが、日本とは比べものにならないくらい高い(2〜3倍はある)ので、木々は大きくゆったりとゆれます。その揺れ方が、ちょうど木々達が、会話をしているように感じられるのがドイツの森の特徴のひとつです。“お〜い、そこの日本の人、あんたは何しにこの森にやってきたんだ〜”という声をかみさんは聞いたそうです。その森は、赤頭巾ちゃんの童話で有名なHessen州の森だったのですが、かみさんは思わず“大丈夫、帰り道は知っているから心配しないで”と答えたそうです。まさしく赤頭巾ちゃんの気分になったと言っておりました。(ずいぶん歳を取った赤頭巾ではありますが,,,)

私自身が不思議な光景にでくわしたのは秋深い季節の、近所の切り株山(Stoppelberg)の森でした。ドイツでは紅葉といっても赤色は無く、殆ど黄色に木々は色付きます。そんな黄色い景色の森の中は、他の季節より明るい感じがします。そこを夕食前のひと時の散歩を楽しんでいた時でした。人間の作り出した音はいっさい聞こえてきません。丁度上を見上げた時のことです。一陣の風が“そよ”と森を吹きぬけていったのです。この風によって何と森中の黄色い葉っぱ達がいっせいに木々の枝を離れだしたのでした。風はもう止んでいましたので、黄色い葉はいっせいにゆっくりと下降を始めます。一斉にです。視界すべてが、振りそそぐ小さな黄色い飛行物体で包まれました。周囲の木までも見えなくなるほどの量です。するとどうでしょう。周りの景色が皆、下に向かって動くものばかりなので、地面に立っている自分がまるで同じ速度で空に向かって上昇を始めた錯覚になるのです。“うわー、空に上がっていくぞ〜”と声を上げました。しかもその上昇速度が、ダイビングをやっている時に空気の泡が海面に向かって上昇していくのと同じなのです。なんと言う自然の偶然!人は死ぬとあの世に行くそうですが、あの世へ向かう時はこんな感じなのだろうなあという体験をさせてもらいました。

ほとんど日が暮れて薄暗くなった森をレンタカーで抜け、草原の向こうに街の灯りがちらちらと見える帰り道、ふと脇を見ると、なにやら子犬のような動物の群れが一生懸命僕の車の前後左右を一緒に走っているのに気が付きます。何だ?と思ってよく見ると野うさぎの群れが車のヘッドライトに誘われて飛び出してきたのでした。轢かないようにゆっくりと走ります。車の前を走るウサギは時々後ろを振り返って車を確認します。たくさんの赤い目と視線が合います。

また冬の夜ふけ、友人宅を出て森の向こうの我が家(ホテルの1室ですが)に向かうとき、満月が両側の畑を白く明るく照らし、地平線の上には満点の星が銀色に冷たく輝きます。森の中に入ると、所々月の光が洩れてきて黒と銀色のイルミネーションの世界になります。
ドイツの森は本当にきれいです。そしてこれが、日常の生活空間のすぐ隣にあるという事実が
私にはうらやましい限りです。

Noriさんの部屋 第5回 (2007年1月寄稿)

こんにちはDVD+RW開発を担当しているNori-sanです。今回もまたドイツの森の話です。前回触れた, 旧東ドイツのハルツの森での出来事です。旧東ドイツを旅する時、ちょっと問題になるのは言葉です。彼らは 殆ど英語をしゃべらないので、少しですがドイツ語の会話力が必要です。でもご安心を。そんな心配をするより、そこへ行って得られる感動の方がはるかに大きいので十分訪ねる価値があります。

ドイツ通いが始まって数年、土日の休みを使って、西ドイツの有名地を大体制覇したNori-sanは未開拓の地、旧東ドイツの町々に行って見ることにしたのでした。特にベルリンの南には、1200軒の木組みの家々が2度の大戦の被害にも合わずに残っている街があるとのこと。そこへ行かない手はありません。レンタカーを駆ってドレスデンへ向かうアウトバーン4号線を東に走りました。途中、ゲーテの死んだ地,ワイマールの街で一般道に降りて北上、むかしユダヤ人強制収容所のあったNordhausen(北の家)の街を過ぎるといよいよハルツの森に突入です。この街の名は,もうそれ以上 北には家はない,つまり北限の町に由来します。これまで地平線まで広がっていた、うねった森の遠望と草原の大地は、深くて暗い森の景色へと一転します。地図によれば,これから直線でも50kmは森の中を走ることになりそうです。ガソリンが無くなったどうしよう?とか,夜になったら?お腹がすいたら?と心配は尽きません。おまけにすれ違う車の数もずっと少なくなりました。何となく不安になりながら,小1時間は走った頃でしょうか?僕の車の後席に人の気配を感じたのは。うしろを振り返ります。もちろんですが誰もいません。でも前を向いてハンドルを握っているとマントを羽織ったおばあさんが後ろに座っているのです。あたりは木また木の世界です。何度も振り返りました。誰もいません。でも座っているのです!そのうち,そのおばあさんの気配が車の外に出ました。丁度ルームミラーの視界のあたりをついてきます。“なんで空中に人の気配がするんだよ?”何度も自問します。更にそのうち,そのおばあさんは何か棒のようなものにまたがって飛んでいるのがわかります。どうも箒(ほうき)のようです。そこでNori-sanは, 初めてあることに気が付きました。“そうだよ,ハルツの森って言えば魔女だよ!”そう思った瞬間,それまで後ろで飛んでいたおばあさんの気配が消えたのです。“魔女がでたあああああ”映画なら,ここで運転していたNori-sanは発狂してハンドル操作を誤り,森の大木にぶつかって死んでしまうのですが,現実ではそうするわけには行きません。とにかくこの森を北へ突っ切るしかないのです。走りに走ってやっと森の向こうが明るくなり,北ドイツ平原の南端の町Blankenburgに出たのでした。目指す木組みの家の街,1997年には世界遺産にもなったQuedlinburgはそこから10分のところでした。町のみやげ物屋さんには,例の箒にまたがった魔女の人形があふれ,僕がながめていると,にやっと笑いかけているようでした。(もちろん一人買って帰りました!)さて,その日の内にまた自宅に(と言っても,ホテルの1室ですが)帰るのは無理です。土曜でもあるので,今日はここで泊りです。

しかしこの街は北ドイツ平原の南端にあたり平坦な地形なので,いまいち街の風情には欠けます。昔も今も,素敵な街は必ず坂道のある場所にあると信じているNori-sanはよせば良いのに,さっき通ってきた時に見た森の中の一軒屋のHotelへ引き返したのでした。そのHotel, Wald Krone(森の王冠)は年寄り夫婦のやっている小さなホテルでした。お爺さんが厨房係りでお婆さんが受付兼ウエイトレスです。今日は客は僕一人とのことです。夕飯が終わり,あたりが暗くなり始めた頃,夫婦は戸締りを始めました。“それでは,私たちは町へ戻って明日の朝また来るからそれまで朝食は待っていてね”だそうです。うっそうとした森また森のどまん中の一軒屋に見事にNori-sanは取り残されたのでした。夜,勝手に開けてよいと言われた冷蔵庫のビールを求めて階下に降ります。3面ガラス貼りの食堂の外は真っ暗。音もしません。しかしよく見るとなにやら緑の蛍光色に光っているものが点々とあります。それは“夜光きのこ”の群落でした。今にも魔女のお婆さんが,きのこ狩りにやってきそうです。やっとの思いで一夜を過ごしたNori-sanがほうほうの体で自宅に帰ったのは言うまでもありません。あれから,友人を連れて何度もハルツの森を訪れました。しかし誰かと一緒だと決して魔女は現れないことがわかりました。下の写真は,ハルツの森の中の小さな村での1枚です。これが目の前に急に出現すると誰だってビクッとしますよね。この森では至るところに魔女の気配があります。

Noriさんの部屋 第6回 (2007年2月寄稿)

こんにちは,DVD+RWの規格を開発しているNori-sanです。もう一度だけドイツの森の話です。
前回お話したように,北ドイツにはハルツの森という大森林地帯があります。ここは日本の志賀高原と似ている南部ドイツのシュバルツバルトの森に比べると遥かに暗い感じの森なのですが,個人的にはハルツの森にハマりました。何度も訪問するうちにいろいろ新たな発見がありました。今回はそれを紹介します。この森を代表する山はなんと言ってもブロッケン山でしょう。標高1142mのたいしたことのない山なのですが,この山はハルツの森の北端に位置している独立峰なので,山頂から南を見ると森又森の世界,北を見ると北ドイツ平原の亡羊とした世界が拡がります。お気付きのように山頂は木が無い裸山で東ドイツ時代には軍の無線施設がおかれていて一般人は入山禁止だったのです。でも,その旧東ドイツ軍は現代の我々に素敵な置き土産を残していってくれました。それはその施設の工事材料を運んだ狭軌鉄道です。それが現在は昔ながらの蒸気機関車の牽く登山鉄道になっているのです!起点は北ドイツ平原の南端の町,Wernigerodeです。この町の名前,コーラスを趣味にされている方は聞いたことありませんか?町の教会専属のヴェルニゲローデ合唱団は大変有名で,2006年12月には日本へ2度目の公演に来ています。ここから山頂まで往復22ユーロの切符を買って1日7便(夏季)出ている列車に乗り込みます。先頭は動輪が5つある蒸気機関車で,小さな客車を7〜8両引いてゆきます。“ヒョーッ”という汽笛と共に片道34kmの旅が始まります。もしもこの登山鉄道の旅の詳細を知りたい方はNHKの“関口知宏が行くドイツ鉄道の旅”というDVDを御覧になると良いです。同じ感動を共有できます。本当はブロッケン山は霧の多い山だそうで,だから有名なブロッケン現象が見られるし,春先には魔女達が集まってきて山頂で人知れず踊るという言い伝えがあるのですが,DVDも私が登山した時(2回ほど)も,すべて快晴でした。北ドイツ平原は丁度菜の花の季節で,見渡す限り黄色と若草色の世界が拡がっていました。ちなみにこの鉄道,支線が幾つかあって,ハルツの森の中を抜けて森の東のGernrodeや,森の南のNordhausenとも結ばれています。車が無い時は列車でハルツの森の縦断が出来そうです。ただ,時刻表によれば支線は本数が少ないのでご注意を。

もうひとつこの辺りで無視出きない場所があります。それはWernigerodeの西,ハノーバの南東にあるGoslarという小さな町なのですが,神聖ローマ帝国の誕生した10 世紀には銀が産出,Goslarの銀は帝国の貨幣として鋳造されたのです。詳細は省きますが,通貨ドルの語源はこのGoslarにあるそうです。とにかく多いに栄え豪商が沢山いたらしいです。したがってこの町の建物は他のドイツの町とは異なり,とにかく金がかかっています。同じ木組みの家にしても,壁には木彫の像がかかり,家の壁の装飾も手が込んでいます。外壁の柱の色も他のドイツの町で見られるような材木の地色がそのままではなく,上品な朱や灰色に塗られ,それに金の文字で家の由来や作った大工の名前が書かれていたりします。一般に町全体が地味な旧東ドイツですがここだけは,華やいでいます。そして何よりこの町の過去の繁栄を物語っているのは,町の中央広場にあるホテルの角の柱にしがみついている“うんち小僧”です。何とこの小僧,尻から銀貨をうんちとして出しているのです。それだけ銀が取れたのでしょうね!
花の香りのする春の風を浴び,広場のカフェでビールを飲みながら上品で華麗な木造建築と,うんち小僧,そして市庁舎のからくり時計を眺めていると,その風景に溶け込んで行く自分を感じます。ハノーバーあたりへ旅行される機会があったら是非寄ってみてください。列車で1時間くらいでしょうか? 一見の価値が大有りです!

Noriさんの部屋 第7回 (2007年4月寄稿)

こんにちは,DVD+RW規格開発のNori-sanです。プラスの部屋でのドイツのお話も7回目になりました。今回はドイツの習慣について見てみましょう。前にもお話した,会社での10時のおやつの時間とか,この国では独特の文化があるようです。私が経験したものからいくつかご紹介したいと思います。まずは秋の豊年祭りから。日本では花火大会というとまずお盆を中心にした夏に行われます。ところがドイツではこれを本当に収穫の終えた11月とかに行います。ですから外はもう冬の気配で寒さにぶるぶる震えながらの花火見物となります。大体この国の人たちは盛り上がるのが好きですからそれでも町中が繰り出して花火会場へと出かけます。かき氷の代わりに,寒さ凌ぎにスパイス入りの暖めたワイン(グリューバインと呼びます)を飲んだり,新聞紙にくるんでもらった焼き栗(ハイスマローニです)を食べながらの見物です。それでもおもしろいのは日本と同じ提灯行列があったりすることで,提灯の形も日本のものと同じ,小さな子供達が歌を歌いながら石畳の街を練り歩きます。結構ホームシックになりますね,これは。花火が終わると帰途につく人々以外は居酒屋とかに繰り出します。しかしもうちょっと健全なNori-sanは,友人とボーリング場にいったりしました。ボーリングは,我々日本人が慣れ親しんでいるのはアメリカ式ボーリングで,ドイツでは,ちょっと違う形のものが普及しています。この国ではこれを“ケーゲルバーン”と呼び,おなじ10本のpin(ケーゲル)ですが一回り小ぶりです。だからボールも小さくて指穴はありません。子供でも投げやすいでしょうね。一番違うのはドイツ人が作ったその遊び方で,ただ沢山倒せば良いわけではないのです。“ウサギ追い”とか“10本毎”とかいう面白いルールがあるのです。例えばウサギ追い。チームはウサギさんと狩人に2分されます。ちなみに1つのレーンで何人やろうと勝手で,飲み食いしながらのプレイですから,10人は座れるというテーブルと椅子が各レーンの手前にあります。さて2分したチームは先ずウサギの数人が投球します。全部で25ピン倒したとしましょう。そこで今度は狩人の番です。同じ人数投げてウサギのピンと同数になるとウサギは捕まったことになり狩人の勝ちです。追い越しても駄目。ただし狩人がガーターを出すと,ウサギさんに10ポイント差し上げます。こうしてウサギ組と狩人組が追いつ追われつを繰り返します。先行するウサギに狩人が追いつけるかどうかがこのゲームのおもしろさです。“10本毎”というゲームは順番に投げて行って,10ピン目を倒した人が10ポイント獲得,次は20ピン目が20ポイントと言うようにだんだんポイントが上がって行くのがみそです。10本でなく11本倒してしまうと10ポイントの賞金は次の20ポイント目に加算されます。こうしてゲームが長引いて1000ポイント目なんかになると,皆,目の色が変わってきます。得たポイントは硬貨にしたり,翌日のおやつの選択権に変わったりするのです。アメリカボーリングでは投球の瞬間は皆静かに選手を見守りますが,これと正反対なのがケーゲルバーン。投球選手のやる気をいかに無くすか!それを如何に無視できるかが勝負になります。皆,今日会社であった事等を思い出して,選手に言葉で投げつけるのです。僕と電話を共有していて,今日の午後,日本と長電話で話しまくったNori-sanは共有相手のウサギチームの女性,アネッテから“Nori,あんたは今日私の電話占有してたわね。おかげであたしは午後は全然使えなかったのよ。どうしてくれる!”なんて投球の数秒前に言われます。周りは爆笑,もう力が抜けてガーターに。ウサギの一同はきゃっきゃ言って大喜びです。

ドイツ人の習慣で何と言っても,挙げねばならないのが,アウトバーンでの運転マナーです。Nori-sanの訪れた外国の中で,この国の運転マナーは一つの美しい文化と言えます。一番良いと思うのはトラックが追い越し車線に絶対に出てこないという点です。もうそれだけでどんなに安心して走れるかったらありません。トラックの運転手は100km/hを常に超えません。2番目は車線による階級を守るということです。ご存知と思いますがアウトバーンでは皆120-140Km/hは当たり前の世界です。日本車も韓国車もです。しかし1番左の追い越し車線はこれは特定のブランドの車のために空けておかないと怖い思いをする羽目になるのです。特定のブランドとは,そうベンツにBMWにポルシェとかです。日本みたいにワンボックスカーが追い越し車線で他人の迷惑顧みずに悠然と走るということは絶対にないのです。もしやったらどうなるって? 5分以内にポリツァイ(警察)のヘリコプターが空からやってきて“そこの車,ちょっと止まりなさい”とメガホンで言われ,ヘリも付近の野原に着陸するという手はずになっています。
ドイツ初心者だったころ,借りていたVWのゴルフで走行車線から追い越しをかけたことがあります。もちろん後方を確認して,追い越し車線には誰も居ないと判断してそろそろと左へ移りました。数秒後,前を走っていた車をようやく追い越して,走行車線に戻ろうと,ふとルームミラーを見たときでした。何とミラー一杯にBMWのフロントグリルが迫り,運転席でわめいている親父の顔まで見えてしまったのです。一瞬ブレーキを踏みそうになりましたが,本当に踏んでいたらNori-sanは今頃この世にはいなかったと推察します。あわてて走行車線に戻ったゴルフの横を猛ダッシュでBMWは消えて行きました。あれは本当に怖かった。
と言うわけで,ルールをよく作り,それをよく守るのがドイツ人なのです。彼らはルールを 守らないことには生理的嫌悪感を示します。夜中にちょっと地図を見るために車を人家の横に 止めていると5分もしないで住人が出てきます。“エンジンを切るか,立ち去るかどっちかにしろ”と怒られるのです。同じゲルマンの祖先を持つオランダ人なんてルールを無視することに生きがいを求めているのと何という違い。この差の探求はNori-sanの永遠のテーマなのです。

Noriさんの部屋 第8回

こんにちは,DVD+RW開発のNori-sanです。今これを書いているのは久しぶりに(と言っても数ヶ月ぶりなのですが)来た欧州の森の中です。ただしドイツではなくオランダの森です。私の勤務している会社の研修センターなのですが,昔,領主の城だったところを買い取って研修センターにしたそうで,狩猟で犬を呼び戻すために使われた鐘なんかが森に面したベランダにぶら下がっています。もっとも我々社員に言わせると,研修から脱走出来ないよう完全隔離するためにこの城を買ったのだろうという悪口が出るほど深い森に囲まれています。さて,研修が始まるのは明日からですので,今回は,この森の風景の中でドイツの料理について思い出してみましょう。

ドイツと言えば先ずビールが出てきますね。たしかにドイツはベルギーと並ぶビールの産地で,1000近いブランドが地方毎,町ごと,村ごとにあります。日本のような3つか4つの大手が全国を占領している感覚からは理解しがたいですね。そして決して彼らは競争相手を押しのけて自分のマーケットシェアを伸ばそうなんて考えていません。自分の味をいかに守るかという1点に彼らは全精力を傾けているのです。他人は他人の世界ですね。ドイツでは日本で我々が飲んでいるビールは“ピルス”と呼ばれる種類に属します。これに対し,ドイツ独特のビールにワイセンビールがあります。白く濁った,食パンの風味のビールなのですが,慣れると,これが旨いのです。そしてビールの種類によって,使われるグラスが厳密に決められているのがドイツです。ピルスは,ワイングラスに似た形ですがワイツェンは別の形のものを使います。そしてビールの種類に限らず,必ず,所定の容量の部分に線が引かれ,これ以下に泡があったら,客は“足りない”と文句を付けて良いのです。これって正しく几帳面なドイツ人のDNAのなせるわざですね。ワイセンビールには,由緒正しい由来という奴があります。その昔,男の修道院では,毎日支給される小麦粉とイースト菌とでパンを作り,それを食べていたのですが,あるとき,ある酒好きな修道僧が“小麦粉とイースト菌から酒は作れないものだろうか?”と考え,この2つと水を使い,これを発酵させた白い液体を飲んだところえらく旨いのでビールとして売り出したのだそうです。ですからワイツェンビールのブランドは全て男の修道僧のマークになっているのですね。そしてドイツ語でイースト菌を表すHefe,白を示すWeissが合体してHefe Weissen Bierとなりました。同じブランドでも大概3種類が用意されていて,濃い順番にDunkel,これは黒ビールです,それより軽い白濁のものがHell,そしてピルスのように透明なのがKlarといいます。僕が好きなのはHellですね。おもしろいことに,これまで日本でも時々大小のビール会社がHefe Weissenを作って売り出しましたが未だに普及しません。一番ドイツのものに近かったのは銀河高原ビールでした。しかしビールに払えるお金の常識の限度を越えてはいけません。ドイツのレストランでは500ccグラスでも一杯200円くらいなのに日本ではその数倍取っていましたね。ドイツのスーパーに行けば500mlが1缶100円以下で買えるのですから,,,秋葉原や,飯倉とか渋谷にはドイツのHefeを飲ませるお店がありますが,何と1杯1200円も取ります。Hefeが日本で普及するのにはもう少し時間がかかることでしょう。

さてビールと並んでドイツの料理と言えば豚肉とソーセージが出てきますが,ここはひとつ,ドイツのアスパラガスに触れないわけにはいきますまい。日本では白いのより青い方が好まれていますが,ドイツでは断然白くて太いアスパラガスです。これが4月末くらいから出回りはじめますと町は大騒ぎになります。“Neue Spargel ist kommen” (New Asparagas has comeと言うことですね) の看板がマーケットやレストランの前に立ち並ぶのです。しかもキリスト教の何かの儀式が行われる6月の第2週までしか食べられないのです。(物理的には存在しているのに宗教的に食べてはいけないというのがまたおもしろい)この1ヶ月半の間,レストランではアスパラガス三昧menuなんていうのが登場します。一体何が出てくるのだろうと一度頼んでみました。先ずはアスパラガスと生クリームとをミキサーにかけてすりつぶし,パセリを散らしたスープです。旨いですねえ。それから生アスパラガスと人参やブロッコリのサラダ,これは味の強いドレッシングをかけます。そしてメインデイッシュは,ゆでたアスパラガス7〜8本とソーセージ数種類がお皿に載ってきます。(写真)これには豚のだし汁がすこしかかっている。いやあ美味ですね。とにかくアスパラガスの話をするときのドイツ美人のうっとりとする顔ったらありません。恋人の話をするような目になるのですから。もし皆さんが5月前後にドイツに行かれたら“今年のアスパラガスはどう?”とか聞いてみてください。“おっ,このヤーパン(Japanese)は,ちっとはドイツの事知っているな”となることを請合います。

それではこの次は,リンゴで作ったワインの話しなぞ,,,

Noriさんの部屋 第9回

こんにちは、DVD+RWのNori-sanです。本当はここではドイツのアップルワインの話しを書くつもりでしたが,今回は予定になかった特別寄稿です,というのは魔女が再びNori-sanの前に現れたのです!時は2007年5月13日,例のハルツ山地です。まずは事の経緯から始めましょう。Nori-sanとカミさんは5月11日より12日間,ドイツの家(と言ってもホテルの1室ですが)に帰りました。目的は満開の菜の花を愛でるためでした。ハルツ山地の南側には見渡す限り黄色に染まる場所が幾つかあるので,そこに行ったついでにブルギルス(冬の終わりを喜び合う魔女のどんちゃん騒ぎ)の直後のハルツの様子を見に行こうというものでした。いつものようにアウトバーン4号線を東上し,Eisenach東で一般道に下りてNordhausenを目指します。アイゼナハからNordhausenの間の丘陵地帯が目指す菜の花街道なのです。しかし満開のはずの菜の花は,地球温暖化の影響でもう盛りを過ぎていました。ここ10年定点観測をしていますが,毎年毎年早くなる,即ち温暖化が進んでいます。しかし満開を過ぎたとは言え,車の窓を全開すると車内いっぱいに菜の花の香りがあふれまことに快適です。カミさんも目を細めて眺めています。写真を御覧ください。これが小1時間続いてハルツ山地に入った途端に景色は一転,暗い森の中で小鳥が歌い競う世界となるのです。今回はいつもより1本東寄りの道からハルツ入りしてこの森の中心地Hasselfeldeを目指しました。天気は薄曇り,風はありません。丁度初めて魔女と遭遇したときと一緒の状況です。“しかし今回はカミサンと一緒だからなあ。”とNori-sanは思いながら車を操ります。前に書きましたが,魔女は車に同乗者がいると出たためしが無いのです。Hasselfeldeまであと10kmというくらいの場所で,暗い森から一旦周囲を木に囲まれた草地に出ました。そのときです,我々二人の車の左上方から誰かが車内に飛び込んできたのです! Nori-sanは前に経験しているのでそれが黒い服を着ている魔女だとすぐ判りました。“オッ,今魔女が後ろに座ったぞ。”Nori-sanは興奮して言います。それと同時に魔女の声がしました。“コリャ駄目だ,女が居る。”この言葉と同時に彼女は右後方の窓(閉まっていたんですが)を通り抜けて左旋回しながら上昇していきました。その行く先を見たNori-sanは左前方上空20mくらいのところに7〜8名の魔女が空中を漂っているのに気づきました。皆,箒にまたがり“ハハハハハ”と笑いながら勝手にふわふわと舞っています。“何言ってるの,何も見えないじゃない。”カミさんはしらけて言います。しかし先ほどの魔女も合流して皆でくるくる回っているのがわかるのです。この感じはその後数秒続き,やがて車がその開けた場所から再度森に突入する前に消えました。“何言ってんだ,魔女があんなに沢山飛んでいたのがわからなかったの?”“あなたも歳取って飛蚊症(眼球内の老廃物が写って見える病気)になったんじゃないの?”カミさんは極めて現実的です。結局それ以降,ブロッケン山麓の村のホテルに着くまで何も起きませんでした。ホテルの玄関には子供の背丈の魔女のお婆さんの人形が出迎えていましたが,彼女からは何の気配もしません。ただのモノです。翌日から快晴となったハルツの森を東に抜けて我々は見たの,見ないのを繰り返しながら今回の旅の目的地の1つであるDresdenへと向かったのでした。Nori-sanは今でも“何であんなにはっきり気配がしたのに感じなかったんだろうねえ?”と思います。カミさんは冗談ばっかしという顔です。しかしNori-sanは覚えているのです。このカミさんがスクーバダイビングを始めたばかりの頃,伊豆大島の海中で起きたことを,,,,。

その年の大島の海中は異常に綺麗で沖縄の海のように明るい青色に澄んでいました。我々2人はインストラクタに連れられて秋の浜の沖の海中を北上していました。その時突然,インストラクタの後を附いていたカミさんが急に右旋回して沖合いの群青色の深みに向かいだしたのです。インストラクタは気がつきません。最後尾で“ケツ持ち”をしていたNori-sanはこれに気づき“あれあれ,何処に行くつもりだろ?”とフィンをバタバタさせて後を追い,彼女の足を捕まえて引っ張り“あっちだよ”と手で海岸の方角を指しました。丘に上がった後Nori-sanは“何で急に深い方に行っちゃったの?”と詰問します。カミさんは答えました。“あの時は海の底の方から神様の声が聞こえて,おうい,こっちへ来おおい,と呼ばれたの。”このようにあの鈍感でB型の(関係無いか?)Nori-sanのカミさんでさえ非日常的な経験をしているのです。ですから魔女の気配を感じられるNori-sanを彼女は否定できないはずなのですが,,,。考えてみると人間の体の何処かには太古の昔の生活の知恵のDNAが残っていて,それが人によってはこのような感覚となって未だに何かのはずみに戻ってくるのではないでしょうか? Nori-sanはそう思います。皆さんも是非,時にはご自身の感覚を研ぎ澄ませて見て,未知の世界からの声を聞いてみてください。

Noriさんの部屋 第10回

ドイツの料理の話,その2

 こんにちは+RWの規格開発担当のNori-sanです。前回は飛び入りで魔女との再会の話をしました。今回は先々回に続いてドイツ料理というか彼の地の食習慣の話をしましょう。その昔,ローマ帝国の拡大とともにローマ人が北上するに連れ,自分の獲得した領土であるドイツやフランスそしてイギリスにまで入浴とワインの習慣を持ち込んだと言う話は有名ですね。気候的に葡萄が取れない英国は,フランスワインの筆頭輸入国になっています。さて,ドイツではライン河流域のケルンあたりが葡萄が生育する北限です。ま,これから地球の温暖化でもっと北へ移る可能性もありますが,,ところでワインが持ち込まれる前のドイツ人は一体何を飲んでいたのでしょう?ビールや焼酎を別にすると?実は彼らはリンゴから酒を作る方法を知っていたのでした。リンゴならかなり寒い場所でも収穫可能です。このドイツ独特のApfelwein(Apple Wineですね)が今でも飲まれています。更にある場所ではこれしか飲めないというところもあります。
そこはFrankfurtの街中にあるザクセンハウゼンという一角で,ここではリンゴワインの居酒屋ばかりが並んでいます。ビアホールと同様ライブのfolkmusicが流れる中,白い壷に入れられたリンゴワインが出てくると,客は順番にその大きな壷を持ち上げて飲んでいきます。勿論女性はグラスに注いでもOK。これって沖縄の宮古島あたりの回し飲みの習慣“おとーり”にそっくりです。更に飲み足りない時には市電の停留所に行ってください。しばらく待っていると向こうから赤く塗られた2両連結の電車がやってきます。いつもとちょっと違う雰囲気の車内で車掌にうながされるまま席に座ると,何と小さなリンゴワインのビンとつまみのpretzel(おせんべいですか,,)がテーブルに置かれ,数ユーロ払います。この電車,どこで乗って,どこで降りてもOKで山手線のように走っていますから1時間も乗ればFrankfurtの市内観光が出来るというわけです。確か休日のみの運行ですが,もし出会ったら是非お試しください。

ビアホールと言えば,やはりミュンヘンのオクト−バーフェストが有名です。オクトーバーですから10月にやる行事のようですが,実際は9月から始まります。その年にとれた小麦で作られたビールを楽しむ収穫祭のようなものですが,これが行われるミュンヘン駅近くの広場へ行くと,そのスケールのでかさに圧倒されます。一見遊園地のようで観覧車やジェットコースターまであります。各Breweryは自分の大テントを構えます。このテント,2階建てだったり,中にはステージやお立ち台や勿論綺麗なトイレ(絶対必要です!)まで完備しています。余った空間は全てテーブルと椅子です。地元の人は皆バイエルン地方の民族衣装を着ています。これがかわいい。(いい歳の親父も半ズボンだとかわいいし,胸元の大きく開いた女性のフレアスカートの衣装は勿論結構!)彼らと一緒になって,バンドの演奏にあわせて歌えや踊れとなるのです。ただテントによってはアメリカのrockとかもやっていますのでこれは好みで選ぶしかない。僕はやはりドイツのラッタッタ・ブンチャッチャのド派手な金管楽器が咆哮する民族音楽が良いですね。この騒ぎでのルールはただひとつ,決してテーブルの上で踊ってはいけません。椅子までです。あとは無礼講となりミュンヘンの夜は更けて行きます。
こういった祭りは日本でも知られていますし観光客も大勢押しかけますが,その一方,小さな田舎町で旅のジプシー達が郊外の広場を借りて行う彼らのお祭りも捨てがたいものがあります。小さなロバに乗れたり,彼らの栽培した野菜を売っていたり,射的をしたりして規模はまるでチャチなのですが,ジプシー達の哀愁が感じられ,彼らの故郷の東ヨーロッパの風景まで浮かんでくるようです。そうそう,ジプシーのドイツ語がチゴイネルです。聞いたことあるでしょう?サラサーテのバイオリン曲にチゴイネルワイゼンというのがありましたね。
 話題が料理からお祭りにそれてしまいましたが,ドイツでは町々でFamilyレベルから,趣味が高じたセミプロレベルまで様々な音楽隊があり,勝手に広場や公園,古城とかで演奏を披露しています。緑の森に囲まれた公園のベンチに座っているとそういった演奏会に遭遇するチャンスがあります。是非聞いてみてください。その昔の映画,サウンドオブミュージックのトラップファミリーのような家族コーラス隊は,決して映画だけに作られた特殊なものではなく,彼らゲルマン民族のDNAがさせる自意識発揚の行為だということが良くわかります。前回のDresden行きの後に訪れたボーデン湖のほとりでは,天気の良い日の夕暮れには誰かがアルペンホルンを吹いていました。赤く染まった残雪のアルプスを見ながら,湖を渡ってゆくホルンの響きは,Nori-sanとカミサンを魅了したものでした。

Noriさんの部屋 第11回

戦争とドイツ

こんにちは,DVD+RW規格開発のNori-sanです。夏と言えば年配の方にとっては戦争を思い出す季節ですね。そこで今回はちょっと趣向を変えて戦争のお話しをしましょう。いまでこそ,ドイツ人は気心しれた日本の友人には“おい,今度戦争やる時は絶対ドイツと日本だけでやろうな。イタリアなんか入れちゃったから,この前は負けちまったんだ!”これを聞いて笑える方はかなりの旅人のレベルだと思います,,,。
第2次世界大戦でドイツは最後には徹底的に連合軍,特に英国にやられました。もともとはナチスなんていうのが出てくるからいけないので,こういう専制君主はいつの時代でもNo thank youです。ナチスのユダヤ人狩で多くの人が命を失いましたが,その中にアムステルダムに住んでいた姉妹が居ました。そうアンネフランクとその姉でした。彼女達も捕らえられ,貨車に載せられ,送られた先がドイツだったのです。そこで命を落としました。そんな収容所の跡がハノーバーの北20kmのBergen Belsenという町にあります。いや,町ではありません。町だった,というのが正しいのでしょう。現在は町の雰囲気は一切無く,森の中を車で走っていると,突然開墾されたような開けた場所に出て,小さな建物がぽつんと建っているだけなのです。私とかみさんは,ハノーバーへやってきて,大して見るものも無いこの大都会ではなく,どこか近郊にlandmarkでもないかと地図でBergen Belsenを探し当てたのです。快適なドイツの森のドライブで心はウキウキでした。やがて標識が見えてきます。駐車場に車を止めて,収容所の敷地に入った頃から,2人から何故か会話が消えました。昔,収容所の入り口だった建物の中は博物館になっていて,ユダヤ人が着せられていたぼろぼろの囚人服とか,強制的に切らされた彼らの頭髪とか,彼らが持参してナチスに略奪された物品とか,ガス室の様子とかが容赦なく目に入ってきます。たまらなくなって外に出ました。するとそこだけ森が切り開かれた一角のあちこちに高さ1mくらいのこんもりとした土盛りが見えています。(写真) 大きさは皆違います。何だろうと思って近づくと“この土盛りの中に2,325人のユダヤ人が眠る”と書いてあるではありませんか。そうです。これはガス室で殺された彼らを処分するために作られたプールのような穴のなれの果てだったのです。ひとつひとつの土盛りにはすべてこのような埋められた人数が書かれています。全部を加えたら一体どんな数字になるのでしょう?そして,あるひとつの土盛りの近くに花束がいっぱい置かれた石碑がありました。そこには“おそらくこの土盛りにアンネフランクとマルゴットフランク姉妹が埋められたと思われる”と書いてありました。周囲はうっそうとした森また森で,鳥の声以外は無音の世界です。森の木々が皆“俺達はすべて知っているぞ”と語りかけてきます。これには参りました。かみさんの目もうるうるしています。何もない場所なのに,ものすごい気配が満ち満ちているのです。殺気のような,,。この時の旅はハノーバーが出発点だったので,我々2人は“ドイツに乾杯〜”くらいの気持ちでBelgen Belsenを訪れたのですが,その後数日間は何か重たいものを引きずった旅になってしまいました。

また,遡ること十数年,丁度ベルリンの壁が消えた時に彼の地を訪れる機会がありました。仕事の合間に是非ブランデンブルグ門を見ておこうとタクシーに乗りました。通りの向こうに彼の門が見えてきたころでした。何かが目の片隅をよぎったのです。“運転手さん,ちょっと車を止めて。”と言って僕はTaxiを待たせて,そのよぎったものを確認しに行きました。やっぱりそうでした。小さな通りを示す標識に“Hiroshima Strasse”と書いてあったのです。これは原爆の悲惨さに共鳴したベルリン市がわざわざ通りの名前を“広島通り”に変更して,この人類の愚かな行為を記憶に留めようとした行為だったのです。

かように全体的にはドイツ人は過去の戦争に対して悔いています。それはBelgen Belsenのような収容所で何があったかを積極的に公開し,ベルリンにも広島の原爆ドームのように爆撃で破壊された教会をそのまま残していたりします。謝った,いや謝っていないで未だもめているどっかの東洋の国と比べると,ドイツは“俺達はすまなかったと思っている”という意思表示をしているように思います。ちょっと脱線しますが,広島の原爆ドームには犠牲になった人々の墓碑があります。あたりまえですね。でもね,沖縄にも第2次世界大戦で犠牲になった人を弔う“平和の礎”という場所があります。そこには沖縄戦で犠牲になった日本人は勿論,米兵の名前から韓国人から全てそこで亡くなった人のリストを見ることが出来ます。広島では,日本人以外は別の場所に墓碑があるとのことです。こういったちょっとした違いで,世界が日本をどう認識するかが決まります。同時に沖縄の人たちは,少なくとも本土の日本人よりは寛大な心を持っている,と僕は一人で思っています。

話をドイツに戻しましょう。全般に欧州の人たちは,歴史を大変大事にします。昔築かれた町並みの保存には特に気を使い,ビルなんぞも外観はそのままで中身だけ変えるといった大工事をやります。その心は,ひとえに後世に自分が見てきたものを伝えるという使命に燃えているということです。ニュールンベルグにせよ,ドレスデンにせよ,全壊した町をわざわざ昔のままに再建しているのです。これについて一番ドイツ的だなあと思ったのはドレスデンを訪れた時でした。ここには有名な聖母教会(Frauen Kirche)があります。この聖母教会もイギリス軍によって徹底的に破壊されたのですが,この街に住むある一人の牧師さんの努力で世界中から寄付が集まり破壊される前とまったく同じ形で再建されました。その上,瓦礫のなかで,元の位置がわかるレンガは,わざわざそれをまた教会の元の同じ場所に置いているのです。お〜,やっぱりお前らはドイツ人だなあ,と私は綺麗なベージュのレンガに混じる黒いレンガの異様な模様をみて思いました。ここまでやらないと気がすまないのがドイツ人なのです。やれやれ,,,。それでもこの教会の再建完成式(数年前のことです)には,壊した張本人のイギリスからエリザベス女王がやってきて謝罪し,お詫びのしるしに教会の上にそびえる金色の尖塔をイギリス国として送りました。良い話ですねえ。

そのイギリスですが,ある年の8月15日,Nori-sanはいつものドイツの家(といってもHotelの一室ですが)にいました。ラジオからはイギリスの放送が聞こえています。今日は“終戦”記念日だと思っていたNori-sanとはうらはらにラジオは“今日は英国が世界平和に貢献した偉大な日です。第2次世界大戦で,日本はこういう卑劣な行為を行い,これだけの人を殺して世界制覇を図ろうとした。しかしこの愚劣な行為をイギリスを筆頭とする連合軍が制し,日本は今日,敗戦を認めるに至った。そんなわけで,今日は破廉恥な日本が戦争に敗れた記念すべき日なのです。”お互いの立場が変わると8月15日はこういう風になります。さすがにこの放送の後,Nori-sanは階下のバーにビールを飲みにいくのを躊躇しました。下手したら袋叩きに合うかもしれないと思ったのです。

Noriさんの部屋 第12回

ドイツ人との仕事

こんにちは,DVD+RW規格開発のNori-sanです。これまで11回にわたり,私が10年にわたって我が社のドイツの車載機器部門でカーステレオの開発に当たった時の“エピソード”をお話してきました。自分にとってもこの経験は得がたいもので,同じ時期にゴルフを止めた代わりに始めたスクーバダイビング共々,私の人生を大変豊かなものにしてくれました。これからも仕事を離れてもドイツ通いを続けようと思っていますが,プラスの部屋への寄稿は一旦お開きにさせてもらいます。今回は最終回なのでドイツ人との仕事について思い出してみましょう。

これまでのお話にも,彼らの几帳面で,ジョーク好きな人柄を感じてもらえたと思いますが,やはり几帳面さについては生半可ではないと今でも信じています。私がいろいろな国の連中と一緒に酒を飲む時に出すジョークがあるのですが“いまもしも目の前に仕事上の困難ができたとするだろ?これにどう取り組みかで,その人のお国柄が出るからおもしろいね。一体,どこの国がどんな反応するもんだと思う?”皆,首を傾げます。“先ずは日本人だけど,日本人はその困難を解決するまで深夜残業と休日出勤を繰り返すのさ。”皆どっと笑います“次にイギリス人だと,あいつらはその困難の周りに集合してきて,一体だれがこの困難を作っちゃったんだ? どうすれば解決できるのだ? 担当部署はどこにすべきだ? 等々,議論ばかりでちっとも解決に向けて動く気配がないのさ”イギリス人以外は大笑いです。僕は続けます。“お次はフランス人,あいつらはその困難の山の表面に落書きして終わり。”どっと笑いが起きます。“そしてドイツ人ならどうすると思う?あいつら結構,日本人と似ていて困難に立ち向かうんだ。でもそれは5週間の休暇を取った後にね!”
それほど彼らドイツ人は休暇を大事にします。私のドイツ生活の中で一番びっくりした会話があります。それはある日,同僚が私のofficeにやってきてこう言いました。“Nori-san,明日は俺は休むからね。”仕事が混んで多忙な時でした。私は“良いけれど,どうして?”その答えを私は生涯忘れないでしょう。彼曰く,“明日はうちの飼い猫の誕生日なんだ!!”
海外出張では,日本人は週末を犠牲にして移動をします。しかしドイツ人はまずそれはしません。週末は家族と一緒に過ごす貴重な時間であって空を飛ぶためのものではないからです。ですから日本で月曜から会議とか決めると非難ごうごうになります。日曜に家を出ないといけませんからね。帰りも金曜には日本を離陸したがります。その日のうちに我が家につけますから。しかし一旦仕事モードに入ると彼らの馬力は中途半端ではありません。気の弱い日本人なぞ絶対彼らの気配だけで負けてしまいます。でかい図体で,でかい声でまくしたてますから。
彼らは自分の信じていることには絶対の信頼を寄せます。よく見られるのですが,会議の議論の最中でドイツ人は,大学よろしく基礎理論から説明を始めることがあります。“皆さんご存知のようにこれはこういう理論と式に基づいて,こういう数値になっているのであるから,私の言うことが正しい。だから日本の皆さんは私に従うように。”とくるのです。このこと自体は真理なので誰も反論できません。でもそれをそのまま実行するとえらいコストがかかるのです。だから何とかしたいと会議をやっているのです。私がこのような過激な交渉の場面で覚えたドイツ人必殺の技を公開しましょう。それはやはりこちらも理論武装するのが1番なのです。“あなたはそうおっしゃるが,あなたの式の結果をこちらの式に代入して,この効果を計算してみると,こんな具合に一番効果が上がるのは,あなたの計算した値がこの値のときなのだ。だから我々の値を採用してほしい。”するとドイツ人は目をむいて,当方の提示した式や理論の正当性を検証します。この検証が終わるまで会議は中断です。しばしば相手は,我々の仮定や理論の矛盾を探し出してそれを突いてきます。こうなると再度,決まりかけた値はドイツ側の数値に戻ります。
そこには“まあまあ,お互い様だから”とか“ここはこちらの顔を立てて”なんていう台詞は一切通用しません。切るか切られるかの真剣勝負です。これは大変疲れますね。でもこれが出きないとドイツ人を説き伏せるのは無理です。それでもおもしろいのは,決して感情的に喧嘩をしているわけではないので,決着がつけばにこにこしながら握手をしてハッピーエンドとなります。日本人は時々感情的になってしまって自ら墓穴を掘りますね。私の経験した1番あきれたものは“ここは日本だ。そんなに言うなら今からはもう英語では話さない。日本語でやれ。”との発言でした。10年前とは言え,これが超有名な日本企業の部長さんの発言ですから,私もどう通訳したら良いかと一瞬迷いましたね。今ではこの会社も立派な英語で対応してくれていますが,,,
日本で生まれて,日本で育って,日本から外に出ないで仕事をして,日本で一生を終わるという人生は,それはそれでりっぱなものだと思います。でも1度,海外に住んだり,仕事をしたりして,それがいやでなければ,そのような経験は積極的にすべきだと思います。自分の“こやし”になることを保証します。私の娘が結婚相手を連れて我が家に挨拶に来たとき,僕は相手の男性に条件を付けました。それは“英語がしゃべれるようにならなければ結婚させないよ。”典型的な日本企業の購買部門に勤めていたその彼氏は,その後英会話学校に通い始め,あげくに仕事まで海外担当部門へ異動してしまいました。今や,スペインだ,イタリアだと闊歩しています。Nori-sanが娘との結婚を承諾したのは勿論です。

ただひとつくやしいのは,先方が日本の古典的企業なため,30歳そこそこの彼はビジネスクラスで出張をし,世界中で根を張っているNori-sanの出張は未だにエコノミークラスであることです! くそ〜っ。

おわり

Noriさんの部屋 第13回

ダイビングの話 No.1 いざ海中へ

こんにちは,DVD+RWのNori-sanです。これまで12回にわたり,ドイツでの10年間にわたる出来事をお話してきました。もうドイツネタもほとんど尽きましたので,ここで話題を変えたいと思います。今度は私の大事なストレス解消法であるスクーバダイビングにまつわるよもやま話をさせてください。

お話を始めるにあたって,DVD+RWとダイビングで思い出す方がいます。昨年までSonyで光ディスクを担当されていた川島哲司さんです。彼の趣味もダイビングでした。昨年,奥様とインドネシアへダイビングに出かけ,帰らぬ人となりました。聞いたところでは,珊瑚に囲まれたリーフの外海に通じるところで潜られていて,潮位の変化でリーフ内の大量の海水が外海に流れ出し,この流れで外海に連れていかれたようです。奥様は救助され無事でした。 このようにダイビングという遊びは命がかかった遊びです。これを最初に申し上げて改めて川島さんのご冥福を祈ります。合掌,,,,

思えばNori-sanは40代半ばまではゴルフに熱を上げていて,あるクラブに所属してオフィシャルハンディ17まで上達したのでした。そして月例杯で2位になったころ,そのころ住んでいたごちゃごちゃした東京都と埼玉県の境の町から,おいしい空気と自然がいっぱいの海抜100mの多摩市に引っ越したのです。それまではゴルフ場に行く度に“なんて緑がきれいなんだ!”と,それもゴルフをやる理由のひとつだったのですが,多摩ではNewtownと呼ばれる区域をはずれると,途端に昔の里山あり,谷戸と呼ばれるドン詰まりの谷間ありで,春は鶯が泣き,夏には蛙の大合唱(蛍もいます!),秋は狸の夫婦が家の近所を歩きまわり,冬にはしじゅうからやめじろが,えさ(肉の脂身)をねだってやってきます。このような田舎生活を満喫するうちに序々にゴルフへの興味が失われていきました。なんのことはない,自分がゴルフをやる理由は自然への回帰だったのですね。おまけにコンペの当日は朝早く出かけ,その日1日を浪費します。テニスだったら2時間で大汗かけるのに。そんなこんなで,もやもやしていたころ,会社の同僚が“Nori-san, 一度海の中に潜ってみない?”と誘いをかけてきました。 それまで,海といえば鎌倉か,房総の海水浴場で見る海がNori-sanの海でした。まあ50mくらいは何とか泳げるけど, 背の立たないところはなんとなく怖いし,海底が濁ってみえないのも気持ち悪いし,,,と数年間は尻込みをしていたのですが,あるとき,とうとうカミさんと2人で伊豆の大島へ連れてゆかれたのでした。翌日,いよいよ機材の説明を始められ,空気を吸うホースのついた部品とか,海面で浮かんでいられるような調節可能な浮き袋を見せられ,さあ海へ出発だと言うではありませんか。待ってくださいよ,何をどうするの?おぼれたって知らないよ,とぐずぐず言ううちに大島の北西端にある野田浜という海水浴場に連れてこられました。小さな湾で,家族連れが遊んでいます。遠くには富士山や伊豆の大室山が見えていました。“俺はここで景色でも眺めているかな?”と独りごちますが,同僚は許してくれません。先ほどの機材と,重たい空気タンクやウエイトを背負わされて歩くのも一苦労です。ペンギンのようなよちよち歩きで,腰まで海につかりました。ここで,波に押し倒されないようバランスを取りながらマスクをかぶり空気供給器をくわえます。汗びっしょりです。“さあ,呼吸は普通に出来ますから顔を海の中に入れましょう。”言うのは簡単。でも生まれてこのかた,海中で息をしたことがないNori-sanにとっては一大イベントです。そろそろとしゃがんでみます。マスクの前の景色の下から海水の喫水線が上がってきます。思わず息を止めて,苦しくなったところで立ち上がってしまいました。同僚はにやにや見ています,“どうして皆,最初は息をとめちゃうのだろうね,呼吸出来るのに〜”という顔付きです。それではとばかり,今度は呼吸をしながら恐る恐る顔を水中につっこみました。“エッ苦しくないんだ?”という反応と共に足元で青い蛍光色の魚(瑠璃すずめだい)や縞々の魚(おやびっちゃ)がまとわりついているのに気がつきました。“うっそ,こんなところに熱帯魚がいる!”あとはもうこわさより,海中はどうなっているのだろうという興味が優先したNori-sanでした。同僚はNori-sanの手を引いてゆっくり沖へ進みます。砂浜は10mも進むと崖のように落ちていて,深さは5mくらいになります。両側が,火山石で出来た壁のような回廊を進んで行くと,帰路につく沢山のダイバーとすれ違います。50mもいったところで再度崖を下ります。深度10mくらいのところです。 崖を降りるといっても何もすることはなく,いきなり空中に放り出されたように地面が遠くなりますから,ゆっくり息を吐けば,体が降下を始めるのです。これって空中遊泳ですね。上を見上げると海面の向こうに青空が広がっています。この場所はテーブルのように大きな石があり,周りは三方を火山石で囲まれ,一方は更に沖にむかって開いていて,南側の火山の石壁にはトンネルのような穴があり,向こうが青く見えています。丁度原始時代の祭壇のような場所でした。そこで,同僚はポケットから魚肉ソーセージを取り出し,袋を破ります。すると,いるわいるわ,無数の魚があっという間にソーセージに向かって突進してきました。魚って眼より鼻が効くというのは後で聞いた話です。とにかく魚が空中に浮いているようにまとわり着くのです。中には正面からNori-sanとにらめっこをする奴とか,こちらが移動すると横目で見ながら付いてくる鯛(浜笛吹き)とか個性が一杯です。“何て世界だ,,,,”こうしてNori-sanとカミサンはゴルフよりもはるかに奥の深そうな海の世界へと,引きずり込まれたのでした。(写真は沖縄伊江島沖にて)

Noriさんの部屋 第14回

ダイビングの話 No.2 ダイビング初心者

何度か,伊豆の大島へ体験ダイビングを楽しみに通っていると,ダイビングにまつわる面白さにだんだん気がつきました。先ずは旅行の要素です。大島へは熱海から船で2時間(今はジェットホイルで1時間)ほどかかりますが,これはちょっとした船旅です。銅鑼が鳴って,ボーディングブリッジがはずされるとテープが投げられ,ちょっとした出航気分が味わえる。そうして伊豆半島が離れてゆくころ,今度は舳先にトビウオがまとわりついてきます。海の色が気持ち青くなって黒潮の気配を感じます。やがて,三原山が近づくと目の前に大島空港を飛びたつ飛行機とかが見えてきて船は元町港に到着,視界が効く日は,隣の3角形をした利島も見えます。下船して桟橋を歩いていると“島に来たぞ〜”という開放的な気分になるから不思議ですね。そして桟橋の下を覗くと,なにやら魚の群れが見えます。“よっしゃ,よっしゃ”でダイビングサービスの迎えの車に乗って10分,海沿いのやしの木の道を走っていると向こうに富士山や,大室山が見えていて,ちょっとしたリゾートに来た気分です。(実際リゾートです)ダイビングショップには,機材倉庫の他に,食事処が設けてあり,これまた大抵は屋外で食事が出来るようにあつらえてあります。カレーとか食べていると裏山から野生のサルとかが我々を見物に現れます。一服して水着に着替えて装備の点検をして海辺へ出発。期待と不安の膨らむ時間です。浜に着いて,なるべく平坦な場所を見つけて装備を着けます。全部で30Kg はあるでしょう。でも一旦海へ入ってしまえば,浮力で重さは感じなくなります。ただしそれだけの慣性力を持っているので機敏には動けなくなりますが。全員準備完了すると,バデイを決めて海へ。バデイとは相棒のことで,海中で何か起きたときに必ず助けねばならない人を1:1で決めておくのです。ですから,そいつからは絶対離れてはいけないということになります。Nori-sanの場合はバデイは大抵カミサンなので,行動の予測がつきますが,たまに偶然ダイビングショップに一人でやってきた女の子と一緒なんてことになると,これは危ないです。めちゃくちゃマイペースな姉ちゃんはどこにでもいるもので,気がついたら海中の何処を探しても見つからないなんてこともあります。一度は,沖縄の海で,突然空気が途切れたおなごバデイがいました。海中を徐々に深度を下げていたら突然,正面に回ってきて,Nori-sanの顔をみて,自分の手のひらを水平に首にあてます。これは“息が吸えない,助けて。”というサインです。すぐにNori-sanの予備のレギュレータを渡すと,ひったくるように咥えました。そりゃそうです。海面ははるか上なのですから。“おかしいよ,潜水始めたばかりなのに何でもうエアが無くなるのさ”とガイドも気がついて寄ってきます。空気メータを見ると(ゲージと呼びます)彼女のタンクには満々とエアが入っているではありませんか!そこでガイドさんが,タンクの蛇口を調べました。実にこの女性,蛇口は開いてりゃ良いだろうと,すこししか開けなかったのです。この蛇口,全開にしておかないと,必ずある深度で内部のエアが海中の圧力に負けて出なくなるのです。ほんの少ししか開けないと10mも潜れば,空気はストップ,後で悔やんでも知りません,となります。こうしてその時は原因が判り,蛇口全開にして事無きを得て再び海中散歩を楽しんだのですが,陸(オカ)に上がってから彼女のNori-sanに対する感謝はそりゃ大変なものでした。だって,バデイは命の共有体ですからね。というわけで,何が言いたいかというとダイビング仲間はものすごく仲が良くなることが多いのです。これは若者から中年の不良おじさんまで覚えておいて良いですよ! 夜空の天の川を眺めてバーベキューをやって,東京の蒸し暑さを忘れらる,ダイビングは遥かにゴルフよりおもしろいことをNori-sanは感じ始めました。(写真は沖縄の本部半島にて)


Noriさんの部屋 第15回

沖縄デビュー

 Nor-sanとカミサンはこうして,1995年にC-カードと呼ばれるダイビングライセンスを取りました。取ったとなると世界中の海の中を覗いてみたくなります。ところが,ところが,日本には“ちゅらうみ”と呼ばれる沖縄の海があるのです。ここには全世界400種と言われる珊瑚のうちの350種が生育しているのです。時々海外へダイビングに出かけ,我々が日本から来たことがわかると大抵言われるのが“あんた日本人だろ?どうしてこんな所まで来るんだ?日本には沖縄と言う世界一美しい海があると言うのに,,,,”それほどまでに沖縄の海は綺麗なのか,という思いがつのり,ついに沖縄デビューとなりました。確か1996年の7月です。梅雨でしとしとしている東京を脱出して,子供の世話も何もかも無視して夫婦で出かけるNori-sanとカミサンとは一体どういう性格なのでしょう? 後で子供が言っていましたが,“もし二人共溺れて帰って来なかったら我々姉弟はどうやって生きていこう?と真面目に話しあった。”そうです。

 那覇空港は梅雨明けの澄んだ青黒いような空で出迎えてくれました。そこからダイビングショップの迎えの車で1時間半北上し,本部(モトブ)という町に到着し,更にフェリーボートで沖の小島,伊江島に渡ります。伊江島は現在,米軍のヘリコプター戦の訓練基地があり,第2次世界大戦では沢山の住民が集団自決した場所としても有名です。ですから海中には人骨やら,不発弾がごろごろしていると脅されました。しかし,訓練の無い日や週末は至ってのんびりしたさとうきび畑に囲まれた島で,普段立ち入り禁止の,人気の無い射撃訓練場をトラックの荷台に乗ってさとうきび畑の中をダイビングポイントに向かうときなぞは,ここは天国かと思うくらいきれいな島です。おまけに米軍のせいなのか,アクセスが悪いせいか,ダイバーもそんなには居ません。そして何より感動したのは,滅茶苦茶密生していたエダ(枝)珊瑚の群れと真っ白な海底の砂でした。江ノ島の黒い砂が海の砂とばかり思っていたNori-sanは違う世界を知ったのでした。

 昼はダイビングボートにゆられ,夜はバーべQで酒盛り,隣の家からは三味(サンシン)の音が流れてきます。伊江島は人口も少なく皆親戚といった感じで,誰かが騒いでいると,近所の親父が泡盛の瓶を持って来て仲間に入ります。日焼け,酒焼けに焼肉の日々でした。しかし,先ほどお話したようにこの島には米軍がヘリコプター訓練でやってきます。ですから彼らが休みの日しか潜れないスポットもあるのです。そんな一つに連れて行ってもらったのですが,海中には長さ1m,直径30cmくらいの新品の迫撃弾がごろごろしていました。弾頭がついたままなので,空砲か,不発弾となりますが,もし不発弾だと考えると,あまり良い気持ちはしませんね!

 もう一つ伊江島で印象的だったのは島の北西の一角にある,湧出(ワジー)と呼ばれる場所です。波打ち際なのですが,そこに1箇所,清水が湧いていて,島の水源になっています。 飲んでみると本当に塩からくなく,何故こんなに海水をかぶる場所なのにと不思議です。 勿論,島の言い伝えがあって,昔,美しい女性がxxしたので,真水が出るようになったという奴ですが,xxは語る人によって皆異なるのが面白いですね。ワジーの岩場から沖合いの海底に続いている根(山で言う尾根)の珊瑚礁の美しさはNori-sanとカミサンの生涯忘れられない記憶となりました。

 以上沖縄伊江島のお話をしましたが,これを読んで私も行こうと考えた方,残念ながら後100年ほど,お待ちください。伊江島周辺の珊瑚礁は1999年の夏に全滅しました。迫撃砲のせいではありません。地球温暖化のせいです。珊瑚は海水温が30度を越すと死んでしまうのです。 全滅する直前に再度伊江島にダイビングに行ったNori-sanは海底に海の墓場を見ました。カラフルだった珊瑚礁は一面,白骨化した枝が砕け,まさしく人骨累々のような墓場になっていたのです。これには涙が出ました。珊瑚は1年に数センチしか成長しませんから,元に戻るとしても後100年は必要です。ちなみに伊江島の対岸,本島側の本部町近辺の珊瑚も全滅で,同町の瀬底島にある琉球大学の珊瑚研究所の周囲の珊瑚もやられました。勿論現在は同研究所は珊瑚の復活に向けた研究をしていると聞きますが,,,,伊江島でダイビングショップをしていた親父も,ダイバーが来なくなり漁師に転職したと聞きます。

 このようにダイビングをしていると,地球の変化を身を持って体験します。我が家は数年後,家族全員がダイビングライセンスを取ることになるのですが,娘なぞはこの珊瑚の異変を通じて自然保護に目覚め,ついに職業まで環境緑化事業を選んでしまったのでした。


Noriさんの部屋 第16回

魚たち その1 こわい魚たち

ダイビングの楽しみはいろいろありますが,Nori-sanは何と言っても珊瑚見物と,魚見物が好きです。この二つはお互いに共生していて,特に子供の魚は成長期は珊瑚の隙間に住んでいて大きな魚に食べられるのを珊瑚が防いでくれます。

何百匹もの青い蛍光色の子供スズメダイの群れが珊瑚から50cmほど離れてホバリングし,プランクトンが流れてくるのを待っているとき,そっと近づいていくと,ある距離になると必ず一斉に珊瑚に隠れます。その距離を50cmも離すとまた,そろそろと珊瑚から顔を出してきます。

しかし回遊性の魚にはこの習性はありません。彼らは泳いでいないと呼吸が出来ないので常に動いています。眠るときも泳ぎながらです。まぐろ,ぶり,さば等の“青背の魚"がこの回遊魚に属しますが,彼らの雄姿は,海のハンターのようでかっこいいです。大抵,相当なスピードで移動しているのでじっと観察することは出来ませんが,青く澄んだ海中を走りぬけるその姿と,銀色に輝く体表面がキラッと太陽に反射する様なぞ,鳥肌が立ちますよ。

そうそう,魚の色って,陸上で見るのと海中で見るのとでは違うことをご存知でしょうか? 海中では,どの魚の体色も蛍光がかかっていて,これが陸に揚げられると瞬時に消えてしまいます。沖縄でよく遭遇する“梅色もどき"という魚は全身ブルーの蛍光色で,左右の体の中央に黄色い蛍光色の帯をまとっています。おしゃれですねえ。しかし一旦海上に上がったものを見るとただの魚の色です。何故なのでしょう? 中にはこれも沖縄の“ぶだい"のように上げられても色の着いている魚もありますが,やはり色は褪せています。まあダイビングをする人の特権なのでしょうね,あの綺麗な蛍光色が見られるのは。

さきほど子供の魚は珊瑚に隠れると言いましたが,段々成長してくると,えさを求めてあちこちに出没するようになります。しかし1匹では,あっという間により大きい魚のえさになってしまいます。そこで彼らが編み出した生き残りの方法は“群れを作る"ということです。実際何千匹の小魚の作る群れは直径数m,長さは10mはざらという規模ですからこれは迫力があります。写真はあじの仲間が群れているところにNori-sanが通りかかり,彼らの興味の対象になって寄ってこられたときのものです。見てください。視界の全てが魚になり,それも彼らは渦を巻くようにして見る(止まれない)ので渦の中心に位置するNori-sanは逆に目が回ってくるのです。しかも全ての魚の視線を感じます。“目が回るー,助けてくれー"とうれしい悲鳴をあげるひと時です。

このように魚たちは概して人間に興味を持つフレンドリーな地球の仲間なのですが,そうではない奴も何人かいます。皆さんはその筆頭はサメだと思われることでしょう。確かにサメは出会うと物凄い迫力で,寄ってこられたら生きた心地もしない暴力団のような存在です。しかしサメはそうそう出くわすものではないし,それに人を襲わない種類の方が多いのです。ちなみに,もしサメに好意を抱かれたらどうしたら良いかを御教示しましょうか。それは,彼らは殆ど盲目なのですが,鼻だけは物凄く利いて,おまけに自分の正面に居る物体の硬度を判別するレーダーを持っている魚と理解することです。よく瀬戸内海で漁師がサメに食い殺されますが,サメにしてみれば決して人間を食べたかったわけではなく,漁師の腰につけていた魚籠(ビク)の中の傷ついた魚の血の匂いに誘われただけなのです。だから彼はそのビクに食いつき,たまたまその近傍の人間の肉も一緒に食べてしまったのだとexcuseすることでしょう。そうなのです,従って体を怪我しているときとか,女性は生理の時には絶対サメを見に行くようなダイビングをしてはなりません。彼らは何100mも向こうからあなたの血の匂いを嗅ぎ分けて接近してきますから。そのような体調ではないときに,もしもサメ君が寄ってきたら,対応は簡単です。背中を向けてサメに空気ボンベを見せるのです。すると奴は鼻のレーダーで目の前の堅い物体に気がつき“これは硬すぎる"と方向転換するのです。または岩場があったら,岩の凹凸の中に体を埋めるようにすれば奴の鼻レーダーは周りの岩に当たり,これまた安全です。でも以前,岩の凹みに飛び込んだら,そこの住人である“うつぼ君"と鉢合わせをした仲間がいましたが,,,,

サメにまつわる面白い話は一杯ありますが,きりがないので,ここでもっともっと身近な恐怖についてお話ししましょう。それは沖縄等,日本にも沢山住んでいる“だつ"という細長い魚です。写真を見てください。これは宮古島で“だつ君"がいつまでもいつまでNori-sanの横から離れなかったときに思わず目線があってシャッターを切ったときのものです。彼は(彼女かも知れません)昼間はそうでもないのですが,光るものとか,反射するものに異常に反応します。多分恐怖を感じるのでしょうね。もしチカッと光ったものがあると,その流線型の体型で光ったものに正面から突っ込むというやっかいな性格を持っています。一番危ないのがナイトダイビングという夜間のダイビングの懐中電灯の光です。その次が昼間,太陽の光が平面ガラスである水中マスクに反射して“だつ君"の目に入ったときです。ご覧のように“だつ"は槍のような細長いくちばしを持っていますので,これでやられたら本当に一巻の終わりで,特にマスクが光って眼に飛び込まれたら,頭蓋骨を貫通してしまうほどです。伊豆大島の医者ダイバーに見せてもらった,眼球から頭蓋骨へ“だつ"が貫通したダイバーの写真は忘れられないほど気持ち悪かったです。

この写真を撮ったときも,太陽と“だつ"と自分の位置に常に気をつけました。まずいことに, この写真の位置関係でNori-sanが,もう少し上を向くと上方からの太陽光がマスクに当たって“だつ"に向けて反射することが予想されます。ですから彼を見上げないように必死に同じ深度を保とうとしました。いやあ,しかしこわいですね。海の中は!


Noriさんの部屋 第17回

魚たち その2 カワハギ一家の皆さん

それでは前回の“サメ”と“だつ”に続いて今回はもう少し小柄なカワハギ一家のお話をしましょう。カワハギは東京湾でも捕獲される,どこにもいるような魚です。食べた方も大勢いらっしゃることでしょう。普段は逆立ちして海底をつついて獲物を食べているという“のどかな魚”ですが,しかし彼らが大変な子煩悩であることは,沖縄本島の本部半島の先端にある瀬底島で潜ったときに知りました。この時はダイビングを終えて浜辺で、迎えの車が来るのを待っているときでしたが,Nori-sanはじめ数名が余興にスノーケリングをしていました。Nori-sanは沖合い20mくらいの砂地の海底に“もんがらカワハギ(写真)”の親子3名を発見しました。丁度,親が子供に魚の取り方を教えているように見えました。(魚が魚を取るっていうのも変ですが,,,)子供(体長5cm)は遊びたいらしく,始終親から離れようとしています。“ようし,Nori-sanと遊ぼうぜ。”とNori-sanはジャックナイフで海底に潜ります。ちなみにジャックナイフとは,体を先ず海老のように90度に曲げて上半身を真下に向け,次の瞬間下半身を空に向けて逆立ちし,体を直線にして海底に沈む方法のことです。こうすると楽に深度を稼げるのです。子供カワハギに近づいたNori-sanは彼の体をそっとつついて“おい,遊ぼうぜ”とサインを送りました。

そのときです,それまで1mくらい先で見守っていた両親が血相を変えてNori-sanにぶつかってきました。“うちの息子に何をする〜!”と眼は怒りに燃えています。そうして,どうやって見分けるのか知りませんが,ウエットスーツから皮膚が露出している,おでこや手首を狙って噛み付いてきたのです。何せ普段から石ころとか砂をかじっている連中ですから,あごの力は結構あります。あっという間に数箇所噛まれて皮膚の色が変色してきます。(ちなみに海中では血の色は赤くなく,緑色に見えるので出血のイメージがちょっと違いますが,,)
おどろいたNori-sanは“違うよ,いじめたのではないよ。ちょっと挨拶しただけだよ”と言い訳しますが,ご両親は許してくれません。噛み付き攻撃は続きました。ついにNori-sanは降参して浜へ逃げようとします。勿論2匹の“もんがらカワハギ”の夫婦は追ってきて,噛み付きます。“なんちゅうこった”。やっと背が立つ深さになり,じゃばじゃばと砂浜に上がりました。“やれやれ,もんがらカワハギに噛み附かれちゃった”とNori-sanは仲間に言い,今泳いできた海を振り返ったときでした。波うち際でぴょんぴょん飛び跳ねている魚が2匹います。何とさっきのご夫婦が円を描くようにしてくるくると泳ぎ,時々空中にジャンプしているのです!“おまえ,陸に逃げるなんて卑怯じゃないか!戻って来い!”と叫んでいるようです。これには驚きましたねえ。そこまでやるのかカワハギよ!です。Nori-sanが見ている間中,怒り狂ったお二人は円を描いていたのでした。海の中では陸の上よりはるかに親子の絆が強いようですね。

それと,もうひとつ,私がやったように海中で魚に触れることはいけないことをご存知ですか?理由は彼我の体温の差で,魚の体温は概して人間より(36度)低いのです。基本的には海水温と同じです。だから我々が素手で触ると、何と魚は火傷をしてしまいます。魚は見るだけか,又は食べるだけにしましょう!

Noriさんの部屋 第18回

魚たち その3 イカの御家族

前回のカワハギに続いて,今回はイカの家族の登場です。彼らもまた家族内の結びつきが,人間が考えている以上に強く感動モノです。また感情も多彩で,怒り,甘え等々の気持ちを表現出来るのです。どうやって? 
体色を使うのです。皆さんはイカの刺身になったイカしかご覧になったことがないので,あの白い胴体でどうやって感情表現するのか不思議かも知れませんが,刺身のイカはイカの死体であって,当然体表面も死亡しているので,何の模様や色も着いていませんが,これが海の中では驚くように変化するのです!
沖縄は石垣島で出会ったコウイカの仲間であるコブシメは,秋になると産卵のために深海から上がってきて珊瑚の隙間に卵を産みます。当然卵を産むための前作業(!)も必要で,このため雄と雌はカップル探しに奔走します。このコブシメ,体長は1mくらいありますので,結構な迫力で,それが1匹の雌を巡って雄同士が争っているところなんぞに遭遇しますとえらいこっちゃ状態になります。この雄のコブシメ,敵が居る側の体側面は白と黒とのまんだら模様になり“俺は怒っているんだぞ”と相手に知らせます。しかし雌が我関せずと浮遊している側の体側面は薄い綺麗な波模様が動いて彼女に秋波を送っているのです!なんという器用な!
また,平和な殆ど休憩状態のときは体表面の模様は現れていません。ですから我々ダイバーがコブシメを見かけたら,先ずは体の表面の模様を見てご機嫌伺いをし,何も出ていなかったら,しばし一緒に遊ぼうよとなります。 

場所は変わってここは伊豆の大島,するめイカが家族で泳いでいるのに遭遇しました。親父,お袋に子供が3匹。ちゃんと親が先頭で子供達は親の後に1列に続いています。親父が疲れて休憩すると、それまで体が水平一直線になっていたのが、ひょいと足の部分だけが垂れ下がり90度曲がったL字型になります。足は泳いでいるときは水平、力が抜けると垂れ下がるのですね。それを見た後続のお袋&子供たちも、ちょっと遅れて足を垂れ下げます。これは可愛いです。“仲がいいなあ”と見ているうちに段々Nori-sanとの距離が接近してきました。すると突然,危険を察知した親父イカが墨を吐いたのです。“おお,眼くらましだ!”Nori-sanは初めて知ったのですが,イカが墨を吐くと,ちゃんと海中で墨は、まん丸になるのですね。大きさはバスケットボールくらいです。親父イカ,お袋イカは見事にこの墨丸の中に隠れました。“ん?”しかしよく見るとこの墨ボールに小さな足がついていてバタバタしています。何と末っ子だけはこの墨丸に入りきれず,頭隠して尻隠さず状態になっていたのでした。“おもしろ~い”とNori-sanは笑いながら観察を続けます。そのうち墨が薄れ,末っ子は丸々海中に出てきてしまいました。どうするのだろう?と見ていると“プッ!”とおならをするように何と体長5cmくらいのちびも墨を吐いたのです。“おお,やるじゃないか,ちびのくせに。”しかしさすがに彼の吐いた墨の量では彼自身も隠すことは出来ず,何と白い串に刺した黒団子のような光景が出現したのでした。Nori-sanは,げらげらと海中で笑い,彼らがいつまでも家族で無事に過ごせることを祈った次第です。その後帰宅して,魚屋で横たわっているイカを見たとき,何故か涙がこぼれたNori-sanなのでした。

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