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第15回 ノーベル賞

11月2日の夕方、NHK教育TV日曜フォーラム「地球と私たちの未来~ノーベル賞科学者からのメッセージ~」を視聴した。江崎玲於奈氏、野依良治氏、パウル・クルッツェン氏の三人のノーベル賞受賞者がパネリストとなり、地球の温暖化やオゾン層の破壊など、環境問題が深刻化している今、科学はどう立ち向かうべきなのかというテーマで話し合った。こんな滅多にないイベントに参加できた会場の人たちも、その一言一句に整然と耳を澄ませ、ノーベル賞受賞者と聴衆が一体となった時間空間がそこにあった。後半、科学者をどう育てるかについて話題が移ると、江崎氏の発言がさらに活発になった。さすがに教育者としての自信と風格が漲る。フォーラムの終盤、会場から、
「子供がノーベル賞を取れるようにするには、どのように教育したらよいか」
という質問があり、江崎氏がゆっくりとしかも強い語り口で
「ノーベル賞を取れるようになんて考えないほうがいいと思いますよ。子供のタレントというのはさまざまあって、それをそのまま素直に延ばすようにしてあげるのが大切なことでしょう」
とコメントされた。江崎氏の持論のようで、私もまったく賛成だ。

What should I do with my life?

2008年は、日本人ノーベル賞受賞者が4人も出て、国中が大いに沸き立った。これらの方々は、以前から受賞の候補に挙がっていたそうなのだが、何十年も経ってからの受賞となった。長生きでよかったと思うが、選ぶ基準はどうなっているのだろうか。
それはさておき、イノベーションを起こすものについて、脳科学者の茂木さんからこんな話を聞いた。
「ノーベル賞って、本当にそのひとの功績と思いますか?」
いきなりこんな切り出しで始まったのだが、要約すると、次のようになる。トヨタ自動車の改善活動に見られるように、それら創造性はすべての人に宿り、小さなイノベーションが日々起こっている。これらのイノベーションは、一人がやったということではなく、大衆のものであるというのが日本文化の特徴であって、そこが個人の創造とするノーベル賞と異なる。また、記憶の自然誌は日々編集されており、毎日毎日できることは何でも少しずつやるということが大切だ。これは、脳の中にある抽象的な報酬活動であって、ここに大きなイノベーションを起こす普遍的な原理があるはずだ。
 つまり、すべての人がイノベーションに関わっているという論だ。どんなにつまらなくて小さく見えることでも、もちろんそれをやっている人は全く意識していないのだが、集まるとイノベーションを起こす力となり、脳の仕組みがそれを司っている。エターナルな脳の働きだ。イノベーションが起こったときに、運よくそこにいた人にはノーベル賞のような脚光が当たるが、これは個人の創造としない、と私は受け取った。

さて、今回の更新では、プラスの部屋の住人が“DVD+RWの思い出”という共通のテーマで書こうということになった。各住人の思い出を聞くのも楽しみであるが、私はDVD+RWフォーマットを作ったときの思い出を、茂木さんの話に絡めてみようと思う。
 DVD+R規格には、作成された順に2.4X(Xは倍速の意味)、4X、8X、16Xの倍速対応規格がある。これらの高速化にあたっては、ディスクの記録感度や記録時のライトストラテジー(レーザをどのようなパルス形状で光らせるか)を主に議論した。ドライブでビジネスする側は、消費電力や発熱を抑えたいから低いレーザ出力で記録できる高い感度のディスクを要求し、ディスクでビジネスする側は、それではディスクが不安定になるから低い感度でも記録できるようにレーザ出力をもっと上げてくれとその要求を拒む。感度が高くて安定なことというのは、相反することを同時に実現せよということで非常に難しい。それを解決するために何回かサンプルディスクを作って評価し、ついには落としどころを見つけ出す。そうやって仕様となる数値が決まると、新しい規格書(ブック)に書き込んでいく。この過程においては、規格を議論する人、バックヤードでサンプルディスクを作る人、それを評価する人など実に多くのエンジニアが関わる。
 DVD+R 2.4Xの規格が決まった頃、ディスク回転数の上限を10,000回転(CDの経験から、ディスクが割れない範囲)とすれば単純計算で16Xまでは行くだろう、と冗談っぽく話し合ったことがあった。しかし、そのときに必要となるだろう非常に大きなレーザ出力や、ライトストラテジーが出力する非常に細いパルス幅からは、とうてい実現は無理だろうというのが大方の意見であった。それが、4X規格が作られて、次に8Xが議論される頃になると、誰も16Xの出現を疑わなくなっていた。その根拠として、着実にレーザ出力が増え、細いパルスも出力できるようになっていたのだった。まさに、エンジニアたちの小さなイノベーションの積み重ねがもたらした大きな進歩といえる。ブックは、CDに始まるその長い歴史の中で、この営みを繰り返してきた。一つ一つの数値や文言に、多くの人の英知が詰まっている。

ブックの進化を促すエネルギーは、フォーマットを2層ディスクへと向かわせた。2層ディスクは、16Xよりも実現が難しいと思われていたものだが、これも小さなイノベーションの積み重ねがもたらした。この中に私の思い出の一つがある。2層ディスク規格の中に、“透明基板の厚さ”という項目がある。DVD+R DLディスクを例にとって、簡単な断面図を用意したのでそちらを見ていただきたい。“透明基板の厚さ”とは、レーザ光が入射するディスク表面から記録層までの距離をいい、第1記録層を置くことができる最小値と第2記録層を置くことができる最大値で表す。また、第1と第2の記録層の間の部分をスペーサという。第1記録層と第2記録層は、スペーサの厚さ約55μmを確保した上で、“透明基板の厚さ”の範囲内に入るように作られる。DVD+R DL規格の議論がスタートしたとき、“透明基板の厚さ”として提案された値は560μm-630μmであった。これが妥当なものであるかを検証するために、提案の数値を前後に数10μmずつ振った数種類のサンプルディスクが作成され、ボランティアによる評価が始まった。ここで、問題が起きた。私のバックヤードにいるエンジニアたちが評価した結果、ディスク表面から遠いほうに5μmシフトして、565μm-635μmが望ましいという結果になった。この値のほうが、記録装置の製造マージン(規格に対する余裕分)が大きいというのだ。製造マージンは、装置のコストに影響する。私と仲間は、急遽、数値の修正提案を行った。だが、他のフォーマット作成メンバーの中に記録装置を製造するところがなく、5μmの違いが実感として伝わらない。最初の数値の提案者も、その値の正当性に根拠を持っているわけだから、安易に妥協できない。それでも粘り強く主張を続け、ついには間をとって562μm-632μmではどうかというところまで漕ぎ着けた。これに対して、ディスクを作る側にとってこの程度の変更は微々たるもので特に反対はなく、セット側の別の1社から、「たいした違いではないので、562μm-632μmでもいいんじゃないの」というコメントが出て、ようやく認められることになった。規格としては切りの悪い数値になってしまったが、苦労の跡が伺えるようで懐かしい。

すべてを言わなくても

ある日曜日の早朝、放送大学TVで『物理の考え方』という番組をやっていた。放送大学の教授が話し手で、准教授が聞き手である。例によって黒板の両脇に二人が立つ構成だ。まず教授が、
「えー、重力は、質量に重力加速度を掛けたもので、…」
と口火を切り、式を書いたマグネット板を黒板にぱちんと貼り付けた。板が少し右下がりになったのを、准教授が手を加えて水平に戻した。その水平感覚は実に正確で、見ている私は右下がりが全く気にならなくなった。教授はそれに気を払う様子もなく、
「重力加速度というのは、…」
と説明を続けながら2枚目のマグネット板を貼り付けた。だが、その時に准教授が直した1枚目のマグネット板の左端に手を触れて少し右下がり側に戻すようなしぐさを見せた。実際に板は動かなかったのだが、准教授はその意味を実に冷静にキャッチした。2枚目の板も少し右下がりになっていたが、准教授はそれを直そうとはしない。アップになったマグネット板は、1枚目が水平で2枚目がちょっと右下がりの、見ていて気になる場面が続く。
「重力加速度は、赤道では自転の遠心力のせいで北極や南極より小さくなるんですね。このように、横軸に緯度をとって、比べて見るとよく分かります。これは、私がデータから計算してプロットしたんですよ、3日かかりました、はい」
3枚目の板は、重力加速度と地球の緯度との関係を示したグラフで、これまでのものの3枚分くらいの大きさがある。教授は、前よりは丁寧に貼り付けたように見えたのだが、2枚目との平行をとったためなのか、やっぱり右下がりになってしまった。准教授は、2枚目以降のマグネット板の傾きには一切構わなかった。したがって、4枚目もそれ以降の板もすべて右下がりのだらっとした構図になった。教授と准教授の二人は、そのまま講義を続け何事もなかったかのように終了した。私は、重力加速度の話より、このマグネット板の傾きがどうなるのか気になってしかたがなかった。それは、表の講義の裏に突然起こったもう一つのコミュニケーションの行方であった。2枚目のマグネット板を置いた後で、水平に戻された1枚目のマグネット板に教授が何気なく手を触れたとき、准教授は、教授の『余計なことはしないでもよろしい』とでもいいたげな機微をとっさに感じて、2枚目以降の板に手を触れなかった。もし、ここで准教授がそれに気付かずに2枚目の板も水平に直してしまったとしたら、教授は甘受してそれ以上の意思表示をしなかっただろうか。はたまた、准教授はそれに気付いたのだが、どうしても右下がりが放っておけなかったとしたら、ちょっと危ない雰囲気になりはしなかったか。こんなところに気がいっていたものだから、講義の本論である、宇宙の秩序を支配するもの、万有引力、銀河の渦巻き、星の集団の回転、これが聞きたかったのに疎かになってしまった。

DVD+RWの規格を決める会合には、オランダ人チェアーの下、アメリカ人、ドイツ人、そして日本人が参加した。外国人と物事を決めるときは、どんなに些細な主張であってもとにかく言ってみること、とは、先輩たちから聞いていたことだが、事実、黙っていて規格書の数値が自分たちに有利に動くことはなかったし、少しでも不満なところがあれば、それは提案され徹底的に議論された。“沈黙は金”とか“謙譲の美徳”など日本人の価値観はここでは通用しない。会社の利益を背負ったプロ同士の戦いである。普段はいい人たちなんだけど、そのパーソナリティやキャラクターの上に1枚も2枚も余所行きを着込んで、怯むことなく別人になって主張しあうのがあたりまえであった。
 だが、会合が終わった後のパーティーではそれを脱いで仲良く話しに興じた。
「オランダ人の背が高いのは、ミルクをたくさん飲んでチーズをたくさん食べるからって? いや、土地が海面よりも低いから、溺れないようにするためさ」
国が違えば聞いてみたいことがたくさんある。ツーカーというわけには行かないが、互いに相手を敬う心を忘れないでいれば、多くのことを理解しあえる。すべてを言わなくても、人間同士ということを感じることができる。これを、DVD+RWで学んだ。

(2008年12月)

▼▼以前の記事はこちらからご覧ください。
第1回 光ディスクと部分日食 
 DVD+RW,DVD+RフォーマットはHP,三菱化学,フィリップス,ソニー,リコー,ヤマハの6社が作成しています(2層DVD+RWではトムソンも参加)。規格化のためのミーティングは日本で行われることが多いのですが,1年に1回程度の割合でフィリップスのあるオランダやHPのあるアメリカでも行われます。
2005年10月3日にミーティングがオランダで行われた時,偶然にも部分日食を観測することができました。ミーティングが始まる前に部屋を訪ねると,フィリップスの一人がDVD+Rディスクを窓の上のほうにかざしてディスク越しに何か見ているところでした。お前も見るようにとディスクを渡され,同じようにしてみると,見えたのがディスク越しの部分日食でした。太陽の光があまりにも強くてディスクを2枚重ねましたが,右半分が欠けた部分日食をしっかりと見ることができました。しばらく眺めているうちに月の動きが意外に速いことも分かりました。日食が終わりそうに感じた私は,あせる気持ちでいっぱいのままデジカメを取り出し撮影にトライしました。フォーカスが合わなかったり,手振れで画像がぼけたりしてなかなか思うようにいきませんでしたが,ディスクとデジカメの距離を変えたり,撮影モードを変えたりして,やっと1枚だけきれいな部分日食を残すことができました。長いように感じましたがおよそ数分間の出来事でした。それが下に紹介する写真です。即席の割にはうまくいったものだと満足しています。
部分日食が終わった後,次のようなことも考えてみました。光ディスクの透過率が10%以下ですから2枚重ねると1%以下の透過率ということになります。小学生のころ墨を塗ったガラス越しに太陽を見たことがありましたが,あの時のガラスの透過率は1%以下だったのだろうと推測できました。はからずも自然現象と光ディスクが結びついた一瞬でした。ちなみにオランダでの次の部分日食は2006年3月29日,その次は2008年8月1日,さらにその次は2011年1月4日だそうです。
結論ですが,デジカメと光ディスク2枚があれば,日食を撮影できることがわかりました。
第2回 光ディスクの登場
前回の寄稿では、光ディスクを使った日食の観察について話しましたが、今回から何回かにわたって私が関わってきた光ディスクの開発と、現在携わっている標準化について書いてみようと思います。光ディスクの開発では、一部その歴史を辿ることになりますし、標準化では、結果としてそれが何だったのだろうかということに触れたいと思っています。  私が光ディスクの開発にジョインしたのは1970年代の後半でした。オイルショック、成田新東京国際空港、スペースシャトル1号機、スカGターボなどが話題を集め、目立たなかったところではエジソンが蓄音機を発明してから100年ともいわれていた頃のことです。当時、我が家ではレコードプレイヤー、チューナー、カセットテープレコーダー、さらに100 W級のアンプに自作のバックロードホーンスピーカーを揃え、気に入ったレコードを買い、毎週土曜日にFM東京の歌謡ベストテンをエアチェックしてカーステで聞くという、学生時代からの夢を一応実現した生活スタイルを満喫していました。光ディスクなんてさらさら頭にありませんでした。ビデオのほうは、少し前に家庭用VTRの発売が始まってβ、VHS二つの方式が店頭に並んでいたようですが、20万円を超える高額商品でしたし、ちゃんとしたカラーテレビを買うほうが先でしたので特に興味はありませんでした。いっぽうで、家電業界の有力メーカーは、早くも次のビジネスとして絵の出るレコードやデジタルオーディオの研究開発に着手していました。若いエンジニアがたくさん投入され、開発の成果はエレクトロニクスショーやオーディオフェアで展示されるようになりました。展示はメインブースではなかったのですが、ライバルメーカーのエンジニアらしき人たちを集めてそれなりに賑わっておりました。私はこれらのショーへは金曜日の午後に出かけて直帰するパターンが多かったのですが、どのエンジニアも考えは同じだったようで、その時間帯に会場は大混雑でした。そんな時どっと疲れが出るのですが、週末の開放感がそれを打ち消してくれました。情報収集を終えた後は、オーディオの視聴や生録コーナーに参加しました。あのとき“AKAI”のオープンリールデッキで収録した「峰こうすけカルテット」、今聴いてもいい音だろうなぁ。

 絵の出るレコードすなわちビデオディスクを実現する技術は、光ディスクを使う光学方式(フィリップス/オランダ/1972年)の他に、機械式針を用いたTED方式(テレフンケン/西ドイツ/1970年)、静電容量式針を用いたCED方式(RCA/アメリカ/1973年)、さらには少し遅れてCED方式の親戚であるVHD方式(日本ビクター/1977年)が提案されていました。最初に発表されたTED方式は、20cmのシート状フレキシブルディスクを採用し、ディスクにはオーディオレコードと同じように溝がありました。ディスクが1800rpmで回転すると、下側にある固定テーブルとの間に発生した空気流で浮上し、ディスクは安定した状態になります。そこに上側からダイヤモンド針を押し当てて、ディスクの凹凸を機械的に読み取る原理です。比較的簡単に実現できる技術でしたが、再生時間が10分しかなく商品として勝負になりませんでした。次に発表されたCED方式はリジッドディスクを使い、同じように溝を持っていました。450 rpmで回転し、信号は溝の底に形成されたピットと電極間の容量変化で検出しました。この方式はプロトタイプの間にトラックピッチやディスクサイズが改善され、1981年にアメリカでCEDプレーヤーが発売されたときには、キャディ入り12インチ(30 p)ディスクの採用で60分/片面の再生時間を実現していました。さらに溝を機械的にトレースするトラッキング方式でありながら、ポーズや4倍速、16倍速、またブランクサーチといって120〜180倍速までも実現していました。しかし、光ディスクに押されてビジネスが発展することはありませんでした。VHD方式はアクセス機能におけるCED方式の欠点をメディア側で改善したもので、信号の読み取り原理は同じでしたが、ディスクの表面をフラットにして針の移動をフリーにしました。26 pのディスクを900 rpmで回転させ、再生時間は60分/片面でした。トラッキングは、ディスクに埋め込んだトラッキングサーボ用の信号を使ってランダムアクセスやトリックプレイを可能にしましたが、接触式であったのでごみや埃に弱く、せっかくの機能もうまく使えなかったようです。ディスクはカートリッジに収納されていて、カートリッジをプレーヤーに挿入すると、プレーヤーがディスクだけ受け取り、空のカートリッジは手で外に取り出すユニークな使い方でした。最後に光学方式ですが、ディスクを光学ピックアップが非接触で読み取っていくためアクセス性能に優れ、ごみや傷に強いのが特徴です。最大のアピールポイントが、この非接触でした。 30 pディスクが1800 rpmで回転し、再生時間は30分/片面でした。またこの方式には、今ではCDやDVDでは当たり前となったCLV(Constant Linear Velocity)モードというのがあって、これで記録すると60分/片面の再生が可能になりました。光学方式は、このように原理的には優れた方式でしたが、実現のためのハードルが非常に高いのが短所でした。最大のネックは、レーザでした。CDプレーヤー用の安価な半導体レーザーが製品化されるまでは、光ディスクプレーヤーはヘリウムネオン(He-Ne)のガスレーザを使っていて、値段も高くこれを組み込んだ光学系の大きさは弁当箱ほどもありました。RCAがCED方式にこだわった理由はここにあると当時の開発者が語っているほどです。

 以上のように、これらの技術は再生原理が根本から異なっており、一つにまとまる可能性はありませんでした。どの陣営も、他方式を駆逐して自らがスタンダードになる“この指とまれ”競争を行っていたわけですが、それぞれコスト、難易度、性能、機能に一長一短があり、どれが主流になるのかエンジニアにも経営者にも分からない状況でした。“指”の方は、たくさんのメーカーを味方につけようとアライアンス活動に必死でしたが、“止まる”方は、上述した理由から一つの“指”に止まりながらも、残りの手で他の“指”に触っているという状況でした。保険をかけるということですね。やがてこれらは光学方式とVHD方式が有力になり、市場での競争を経て光学方式が勝ち残ります。この要因として、VHDプレーヤーの商品化が2年ほど遅れたこともありますが、光ディスクの安定した早送りやスローなどのトリックプレイ、チャプターの高速サーチ、指紋や傷に強いこと、非接触によるディスクとレンズの保護などが挙げられます。さらにはCDとの互換性も大きく影響しました。レコードから絵を出すための読み取り原理や、それを実現するデバイスに高度な技術が開発投入されたのですが、勝敗を決めたのはそれら技術の優劣ではなくて、そのアプリケーションが提供するユーザーから見たシステムの使い勝手の良さでした。

 かたい話が続いてしまいました。私は、ビデオディスクに関しては“指を選んで止まる”側にいて、光ディスクを中心に開発していました。トップがこれという方式に態度を決めなかったお蔭ですべての方式をさわることができ、自分自身はまだ駆け出しで勉強することのほうが多かったのですが、それぞれの長所や短所を一応理解することができました。ただ、エンジニアとしての見識というより、“レーザーのほうが先進的”とか“いまどき針はないだろう”というアマチュア感覚のほうが強くて、光学式有利と思っていました。技術開発の成果はショーでの展示だけではなくて、テレビジョン学会など学会の場でも盛んに発表が行われました。エンジニアにとってモチベーションを高めるよい機会ではありましたが、いっぽうで方式の短所といわれる項目の改善や将来性に関する発表をすることは、アライアンス活動の一環であったといえるでしょう。もちろん、これらの発表が2〜3年先を見極めるよい材料であったことは間違いありません。そのうち勝敗のゆくえが見えてくるようになると、正直なもので劣勢な側の発表に対して聴衆の反応がだんだん冷ややかになっていったのを覚えています。私は、こういった雰囲気も方式優劣の判断材料になっていたと思います。

 その後、CED方式を提案したRCAは莫大な開発投資がもとで業績が悪化しました。GEに買収されたのはそれが原因ともいわれています。TED方式、VHD方式を提案したメーカーも、それ以降企業としての勢いを失っていきました。このようにフォーマット競争に敗れることは、たとえ大企業であっても社運がかかる大変なことでした。ここまで、各方式の結果を比較することによってその優劣をいとも簡単に述べてきましたが、私はすべてを知っているわけではなく、その過程で多くのエンジニアの血のにじむような努力があったことを忘れてはなりません。(2006年11月17日)

第3回 赤い表紙の本 − レッドブック
光ディスクは、絵の出るレコードとデジタルオーディオを実現しました。前回の投稿では、CD登場の経緯について触れませんでしたが、ビジネスはむしろこちらの方が主流となり、CD-ROM、CD-R、CD-RWと裾野を広げていきました。CDは正式にはコンパクトディスク(Compact Disc)と言い、その名のとおり扱い易い12 cmサイズが特徴です。このサイズは、次世代のDVD、次々世代のブルーへと受け継がれ、AV(Audio Visual)用メディアとして定着しました。ビデオディスクは、パイオニアの商標である「レーザーディスク」の名前で親しまれましたが、“映画の再生”というアプリケーションから大きな発展がなく、16年後に登場するDVDに置き換わりました。映画を見るためだけの30 cmサイズは、ちょっと大きかったようです。

では光ディスクの原点となったCDの規格について見てみましょう。
CDプレーヤーの1号機が発売された1982年10月の1年前に、CD規格が発行されました。規格書の表紙が赤色であったので「レッドブック(Red Book)」と呼ばれました。私が知っている規格書といえば、JIS B 0217:1980のように硬い呼び方が当たり前でしたので、このレッドブックという名前を聞いたとき、なんとおしゃれな呼び方なんだと感動したのを覚えています。レッドブックの中身は、「CD-DA System Description」の語句がマスタープレートのヘッダーに書いてあるとおり、CDからオーディオを取り出すまでが記述されています。DAはDigital Audioの略で、章立ては順に次のようになっています。

  • メインパラメータ:再生時間、ディスク直径、量子化ビット数など
  • オーディオ仕様:サンプリング周波数、プリエンファシス特性など
  • ディスク仕様:直径など機械特性、屈折率など光学特性、再生信号品質など電気特性
  • 光学ピックアップ仕様:レーザ波長、対物レンズ開口数、フォーカス&トラッキングサーボなど
  • 変調方式:EFM (Eight to Fourteen Modulation code) 変復調アルゴリズム、同期符号やデータフレームの構成など
  • 誤り訂正システム:CIRC (Cross Interleave Reed-Solomon Code) エンコード及びデコードアルゴリズム
  • 制御と表示システム:プリエンファシス情報、チャネル数、曲名、経過時間など
  • 8 cmディスクについて
規格書は設計図ではなくて、出来上がったときのディスクとシステムの仕様が記述されています。設計者は、上記の内容を満たすのであればどのように設計製造してもかまいません。こうやって規格を遵守したディスクとプレーヤーは、市場での互換性が確保されることになります。ただし、規格を遵守しているかどうかを評価するのはそう簡単ではありません。最初の頃は、フィリップスが基準となるディスクを、プレーヤー製造メーカーに配り、メーカーはそれを用いて互換性をチェックしていました。ディスクのほうは、フィリップスやソニーの基準プレーヤーを使って互換性をチェックしていました。当時のプレーヤー設計者の話では、フィリップスが規格にたくさんのマージンを持たせたので、互換性はとりやすかったそうです。その後、規格書に準拠しているかどうかの評価はフィリップスが有償で行うようになりました。今では、DVD+RWアライアンスやDVDフォーラムでも同様のことが行われています。

次に、これから先の話を進める上で必要となるので、CDの構造と読み取り原理について説明します。
 CDは、図1に示すようにとても簡単な3層構造となっています。まずレーザ光が入射する側をカバー層といいます。この層は透明なプラスチック基板で構成され、レーザが入射するディスク表面の反対側の面には情報としてのピットが形成されています。カバー層に接しているのが反射層です。入射したレーザ光を反射します。最後の層が保護層です。この層は、反射層を腐食や傷などから保護します。またこの上にラベルが印刷されます。以上の構造に関係する数値は、レッドブックのディスク仕様に細かく記載されています。また、この後に登場するCD-RやCD-RWさらにDVD、HD DVD、BDも、すべてこの構造の応用となっているので覚えておいて損はありません。

 図2は、読み取り原理を表したものです。図1に示したピット部分を光スポットが通過すると、光は回折により散乱しこの部分の光は返ってきません。したがってピットでない部分とピット部分は光検出器上で“明暗”となります。この“明暗”の長さの組み合わせを信号として用います。いっぽう注目してもらいたいのは、カバー層にレーザ光が入射した場所と、焦点を結んだ場所での光スポットの大きさの違いです。大きさの比が800:1もあります。このことは、ディスク表面に0.2〜0.3 mm程度の小さなゴミが付着しても光はピットまで届き、再生が損なわれないことを示しています。また図から明らかなように、対物レンズとディスクが非接触なため対物レンズの移動がスムーズで、ディスクに傷をつけることもありません。このようにディスク構造が簡単で安く大量に作れること、及び非接触読み取り方式で信頼性が高いのがCDの長所です。

 今回は、CDの規格について述べてきました。レッドブックの表紙は本当に赤い色をしています。CDはフィリップスとソニーの2社で作った規格ですが、当時フィリップスといえば光ディスクの神様でしたから、何でもフィリップスが決めたという印象があります。CD規格のファミリーは、代表的なCD-ROMやCD-Rにレッドブックの拡張版なども加えると、物理規格だけでも実に24種類を数えています。CDに新しい規格の提案がある場合、フィリップス詣でを行って決めるというのが常道でした。
(2006年12月11日)

第4回 幻のマルチメディアCD その1

皆さんは、自分が最初に買ったCDのタイトルを覚えていますか? 私の場合は、アート・ブレーキーの「チュニジアの夜」。CDプレーヤーよりも先に買ったということで忘れられない1枚です。それから24年経ってその数は150枚にもなりました。そして書棚に並んだCDは、子供の成長に連れて買ったもの、青春を懐かしむLPレコードの復刻版、衝動買いしたものなど、買った時の動機はさまざまですが、その頃を思い出させてくれます。CDは音楽のストレージメディアですが、こうして揃うと私の人生を記憶してくれているようです。

さて、話は一気にDVDの時代に下ります。私の古いノートを開いてみると、デジタルビデオディスクの開発がキックオフしたのは、1991年の4月となっています。この頃は、どんな時代だったのでしょうか。年表をひも解くと湾岸戦争、ジュリアナ東京オープン、マツダ787ル・マン24時間レース総合優勝、スーパーファミコン全盛「ファイナルファンタジーIV」「ゼルダの伝説 神々のトライフォース」、たけし・逸見の平成教育委員会といった言葉が並ぶバブルといわれた時代でした。また発売から10年目を迎えたレーザーディスクは、CDとLDの互換プレーヤーが当たり前になり、ソフトのほうは映画、音楽、ドキュメンタリー、アニメなど多くのコンテンツが発売され、レーザーディスクとしての最盛期を迎えようとしていました。しかし、VTR(ビデオテープレコーダー)の普及率には遠く及ばず、ビジネスとして大きな期待はかけられていませんでした。ですから、デジタルビデオディスクへの願望などなかったように思います。その一方で、デジタルビデオディスクを実現する技術開発は着々と進行していました。ちょっと難しい言葉が続きます。

1番目は、光ディスクの高密度化技術です。前回取り上げたCDの構造と読み取り原理から、ピットを小さくすれば記録密度が上がることが分かります。CDよりも小さくなったピットを読み出すためには、レーザの波長を短くして、対物レンズのNA(開口数:大きいほどレンズの分解能が高い)を大きくする必要があります。CDに用いたレーザの波長は780 nmでしたが、635 nmの赤色レーザ、532 nmの緑色レーザが開発されていました。対物レンズのNAは、CDでは0.45でしたが、光磁気ディスクで0.55が実用化されていました。これら両方を使えば、記録密度が2〜3倍上がる計算になります。 2番目は、ビデオの圧縮技術です。アナログビデオ信号をデジタルデータに変換した非圧縮の信号は、216 Mbps(メガビット/秒:ITU-R BT601フォーマット)のビットレートを持っており、これはCDのビットレートの150倍にもなります。1番目に述べた高々2〜3倍の高密度化では、生半可な圧縮では収まりそうにありません。ビデオの圧縮には当然画質劣化を伴うのですが、当時脚光を浴びていたMPEG-2という方式を用いれば、40〜60倍に圧縮しても映画鑑賞に堪える画質を確保できることが同僚の研究からわかっていました。

デジタルビデオディスクの開発は、この二つの技術がベースになりました。この他には、高効率の変調技術や誤り訂正技術、ディスクに小さなピットを成形するマスタリング技術があげられます。また、技術の面からだけでなく、商品としてどのようなことが求められるのか知っておく必要があります。ハリウッドの人とデジタルビデオディスクについて話したとき、彼らから片面で135分の再生時間が欲しいという要求をもらいました。何とも中途半端な数字だと思いましたが、ハリウッドが持っている映画ライブラリの98%がそれに収まると言うのです。そのような理由で、CDサイズディスク片面にMPEG-2を使って135分の映画を入れる目標を作りました。次にどのようなコンセプトのメディアにするかが課題になります。デジタルオーディオでスタートしたCDにどのようなフォーマットが追加されたかを振り返って見ると、パソコン用のデータを扱えるようにしたCD-ROM規格(イエローブック:1985年)、データを書き込めるCD-R規格(オレンジブックパートU:1990年)があげられます。つまり、一つのメディアでオーディオやビデオの他にコンピュータ用データが扱えて、記録が可能なことが求められていることが分かります。したがって、私たちは最初からこれらが扱えることをコンセプトにして開発にとりかかりました。

マルチメディアCDの名前がつけられたのはずっと後のことになりますが、開発がスタートしたときには“CD-LD”などと呼んでいました。

(2006年12月16日)

第5回 幻のマルチメディアCD その2

2006年11月11日に話題の“プレイステーション3 ”が日本で発売されました。プレイステーションとプレイステーション2を2台ずつ持っているものとしては、早く先達(写真)のように仲間入りしたいところですが、欲しいソフトがまだだし、ここはしばらく様子見かな。ところで、このプレイステーションは光ディスクとのつながりがとても深いのです。初代プレイステーションはソフトの配布用にCDを採用し、当時人気絶頂のスーパーファミコンで使われていた半導体メモリに比べて、値段を下げると共に大量供給を可能にして品切れをなくしました。このことは、ゲーム機戦争を勝ち抜く上で強い味方になりました。続くプレイステーション2はDVDを採用し、当時まだ普及途上であえいでいたDVDを一気に押し上げました。DVDは見たいが10万円のプレーヤーは高いという多くの潜在ユーザーにとって、39,800円でDVDを見ることができて、しかもゲームまでできるのはとても魅力的だったのです。このようにプレイステーションと光ディスクは、持ちつ持たれつの関係でやってきました。今回プレイステーション3はBD(ブルーレイディスク)を採用しました。どのような効果を生み出すのか注目です。

それでは、話を先に進めます。デジタルビデオディスクは、1991年にCDサイズディスク片面にMPEG-2を使って135分の映画が入り、オーディオやビデオの他にコンピュータ用データが扱える、このようなメディアを目指して開発がスタートしました。最初のマイルストーンは、目標に掲げたコンセプトを実現するプロトタイプの試作です。試作するのはディスクと再生装置で、この試作を通して新しい技術を開発していきます。また周辺技術として、映画などのコンテンツをデジタルデータに変換するエンコーダーや、CDよりも小さなピットが記録できるカッティングマシーンも必要です。ここには大きく分けて光学ピックアップ開発、光ディスク基板開発、ドライブシステム開発、画像圧技術縮開発の4つのグループが関わりました。少し専門的になりますが、その中身を紹介します。光学ピックアップ開発チームは、光学系、短波長レーザ光源、対物レンズなどの光学デバイスの開発を担当しました。光ディスク基板開発チームは、カッティングマシーン、フラットな基板成形技術、後に2層ディスク用半透過膜、2層ディスク成形技術の開発を担当しました。ドライブシステム開発チームは、試作された光学ピックアップやディスクを使って、サーボ技術、変復調技術、エラー訂正技術の開発を担当し、最終的にプロトタイプにまとめました。画像圧縮技術開発チームは、エンコーダー、画像圧縮伸張アルゴリズム、符号/復号化技術の開発を担当しました。

開発スタートから2年くらい経つとプロトタイプの形も見え、トップや社内の他部署を巻き込んで商品化の議論が活発に行われるようになりました。ビジネス企画やハリウッドとの交渉を行う人たちが加わり、水面下では他社への働きかけも行われました。ここからは、この人たちがプロジェクトを推進していきます。ここまでは思ったとおりに運び、“CD同様デジタルビデオディスクビジネスも我々がリードする”というシナリオに一点の曇りもありませんでした。しかし、それを曇らせる出来事が待っていました。

アライアンスはフィリップスとの2社でスタートし、後にA社を加えた3社で進めることになりました。これ以降、このデジタルビデオディスクのことをマルチメディアCD(MMCD)と呼びます。アライアンスの会合では、エンジニアが中心になり採用する技術について審議していきます。3社の中では我々の開発が一番進んでいたので、MMCDが議論のベースとなりました。ここでA社から提案されたのが、“カバー層厚(第3回参照)1.2 mmは認めるが、0.6 mmの可能性も残して欲しい”というものでした。交渉はギブ・アンド・テークのプロセスですから、MMCD規格の変調方式とかトラッキング方式が変わることは想定していました。しかし、カバー層厚の提案には、正直困りました。何故ならカバー層厚1.2 mmはMMCDの生命線で、これを0.6 mmにすることはMMCDを否定することにつながるからです。さらにMMCDでは、記録形ディスクを光磁気ディスク(ミニディスクと同じ記録再生原理)方式に決めて開発を進めていましたから、これも没になる。ここは譲るわけにはいかないのです。A社も0.6 mmの技術を中心に開発を進めていたので、何とか認めて欲しい。“可能性を残す”ということは、一見何でもないことのように思えますが、これは規格書にカバー層厚0.6 mmを併記することであり、つまり商品としてのプレーヤーはカバー層厚0.6 mmにも対応しなければならないことを意味しています。0.6 mmの技術を持たない我々にとっては、ビジネスのスタートラインで大きなマイナスになってしまいます。ここでアライアンス活動は暗礁に乗り上げてしまいました。何度か話し合いを行いましたが、妥協点を見出せないままA社はMMCDから去っていきました。暗雲を予感させる出来事でした。

しばらくしてMMCDの前に大きく立ちはだかったのが、東芝が押すカバー層厚0.6 mmのSD(Super Density Disc)です。カバー層厚0.6 mmの強みは何といっても記録密度を上げられることです。MMCDの3.7ギガバイトに対してSDは5ギガバイトを実現し、ここでMMCDは初めて敗北感を味わうことになりました。MMCDから去ったA社はSD側に加わり、そのSD側にはB社、C社やD社といった有力どころが参加を表明しました。いやおうなくMMCD対SDのフォーマット戦争が始まりました。当時の日本経済新聞に掲載された、それぞれの広告を紹介します。コンセプトは同じで、違うのは規格名と会社名です。「我々こそライセンサーにふさわしい」、このように主張しています。

フォーマット戦争においては、技術が似かよっている場合、それを採用してくれる会社の数が多いほうが有利です。単に数が多いというだけではかえって足手まといになるのですが、短期間に集まったわりにはSD側の結束力は強くまとまっていました。当然、MMCD側は苦しい消耗戦を強いられることになり、戦況は徐々に悪くなっていきました。一方、このフォーマット戦争で現在のDVDに欠かすことができない技術が登場します。2層ディスク技術です。まだ開発途上にあった技術ですが、容量に劣るMMCD側が起死回生に打ち出したのです。これによりMMCDは、5ギガバイトを超える7.4ギガバイトの容量を得て、SDへの流れを止めたかに見えました。しかし、少し遅れてSD側も2層ディスク技術を使って9ギガバイトの容量を実現できると発表しました。さらに、両面をつかって18ギガバイトが可能と、数字の上では一気にMMCDを引き離してしまいました。SD側の戦略は巧みで、相手が打ち出すパフォーマンスに慌てず“自分もできる”といい続けることで優位を保ち続けました。SD側をこのように上手に統率したのが誰か知りませんが、私は敵ながらあっぱれと思ったものです。こうなってはさすがにMMCD側も手詰まりです。社内にも、“フォーマットで負けてもビジネスで勝てるから早く決めてくれ”、という声が上がるようになってきました。そしてついに1995年9月15日、MMCDとSDが統一することで両陣営が合意しました。統一規格が最終決着したのがその年の12月8日で、名称は「DVD:Digital Versatile Disc」に決まりました。基本となる規格として、(1)CDとの互換性の確保(2)ディスクは0.6mm厚、貼り合わせ(3)信号変調方式は8-16方式/EFMプラス(4)エラー訂正方式はRS-PC:リードソロモン−プロダクトコード(5)記録容量は片面4.7ギガバイト(6)収録時間は片面133分が決定されました。

表向きは統一でも、MMCDの当初の目論見からすれば完全な敗北でした。A社を引き留める手立ては本当になかったのか、なぜMMCD側につく会社が少なかったのかなど反省材料は尽きないのですが、それを言っている余裕もありませんでした。0.6mm厚、貼り合わせディスクのビジネスに向けて遅れてはならず、やるべきことが山のようにあったからです。くしくもDVD規格が最終決着した4日後の12月12日に、日亜化学工業が“青紫色半導体レーザの室温発振に成功”と発表しました。
(2007年2月16日)

第6回 コーヒーブレイク

ハッブル宇宙望遠鏡が、ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドと呼ばれる130億年前の宇宙の姿を撮影しました(Credit: NASA, ESA, S. Beckwith (STScl) and the HUDF Team)。これは、人類によって成し遂げられた宇宙の最も遠い映像で、現在の宇宙年齢の5パーセント、すなわちビッグバンからたったの数億年しか経っていない時代のものだそうです。小学生の頃、科学雑誌に載っていた写真で一番遠い銀河が2億光年くらいだったような記憶がありますので、技術の進歩はすごいものです。また、子供心に10万光年よりは100万光年、100万光年よりは1000万光年と、遠ければ遠い銀河を見せられるほどわくわくしたものでした。130億光年の距離にある銀河は、肉眼では見ることができません。写真は、2003年9月24日から2004年1月16日の間、ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドから最も暗い30等星くらいの物体を検出し、地球400周回にわたって一周回あたり2枚の映像を、合計100万秒という長時間露出で撮影して得られたものです。それは、まるで月面の蛍を見つけようとするくらい大変な作業だったそうです。ここまで来ると、あと5パーセントがんばって宇宙の果てを見せて欲しいと願います。

冬の代表的な星座であるオリオン座、こちらは右肩のペテルギウスが773光年、左足のリゲルが427光年とハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドと比べるとまだ庶民的な距離にあります。ただし、地球から太陽までの距離が光の速度でたった500秒ですから、その遠さは押して測るべしです。冬は一年中で一番星空がきれいな季節です。会社からの帰り道、冷たく澄み切った夜空にひときわ目立つオリオン座を見つけると、あることに思いがいきます。これも小学生の頃のことですが、今のオリオン座が過去の姿だと教わったことです。えっ、そこに見えてるのに過去なんですか? 過去を見ているという現実に理解が及ばず、不思議でなりませんでした。もし星に手が届けば、タイムマシンを使わずとも過去に行けるのではないか、そんな空想を行ったものです。ちなみに今見ているリゲルは、安土桃山時代、あと2年で本能寺の変が起きる時代と同じ時期の姿ということになります。自分がリゲルに立って居れば、あと2年で本能寺の変を見ることができることになります。非科学的かも知れませんが、楽しい空想ではあります。

ついでながら、私たちは一番近い月から一番遠いハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドにある銀河まで、さまざまな距離に位置する星を見ることができます。それは、天空でそれだけの過去の映像を見ることができるのと等価です。何万年、何億年前の映像が劣化もせず災害にも会わずにきれいに保存されているということは、宇宙は究極の記憶システムであるといえそうです。
(2007年3月15日)

第7回 DVD記録はどうなる?

 最初のDVDプレーヤーが発売される直前の状況を、日経ゼロワン1996年11月号の記事から紹介します。「DVDプレーヤーは発表も、発売も、一番を目指す。一番じゃなきゃ、意味がない」−8月29日、四角利和松下電器産業光ディスク事業部長。「DVDプレーヤーの発売がレーザーディスク(LD)市場の活性化につながることを期待している」−9月19日、伊藤周男パイオニア社長。「DVDプレーヤーはあまり無理をしない。 DVD-ROMドライブを中心にパソコン事業、半導体事業を伸ばしたい」−9月26日、長谷亙二東芝DVD事業部長。これらは、DVDプレーヤーの発売を発表したときの3社のコメントです。当時12兆円と予測されていた市場に乗り出すにしてはいま一つ歯切れがよくありません。DVD規格は、1995年12月8日に統一規格が決まった後、コピープロテクションとリージョナル(地域)コードを決める作業が行われました。しかし、これが1996年8月に入っても決着せず、8月に予定されていたDVDプレーヤーのアメリカでの先行発売が不可能になっていました。それで、ハリウッドの映画タイトルもほとんど見送られる状態に陥り、日本でプレーヤーと同時発売が可能となったソフトは、谷村新司、矢沢永吉、岩崎宏美、ウルフルズといった国内ミュージシャン物やテレビドラマ、カラオケなど20タイトルにとどまりました。DVDプレーヤーは予定通り1996年11月に日本で発売されましたが、このようにソフト不足と互換性の問題を抱えたままの船出でした。アメリカでは遅れて1997年3月に発売されました。アメリカでの販売台数は、35万台/1997年、109万台/1998年、398万台/1999年、850万台/2000年と伸びていきましたが、日本ではその1/10程度でした。DVDの本格的な普及はプレイステーション2がDVDを採用してからで、2006年の世界市場は1億3000万台にまで拡大しています。

 さてDVD記録フォーマットは、DVD+R/RW、DVD-R/RW、DVD-RAMの三つが存在します。これらの違いについては「沙翁の部屋」で語られる予定ですのでここではパスしますが、では何故三つも異なる規格が存在することになったのか、記憶を頼りに遡ります。まずフォーマット戦争が起こる理由について触れておきます。MMCDとSDがフォーマットを争ったのは、自社の規格が採用されるとフォーマットライセンスとパテントライセンス(特許)の権利を得ることができ、それにより多くの利益を得ることができるからです。それだけに競争は熾烈で、一度戦いを始めたら生半可な理由で止めることができません。ただし勝てなかったときのリスクも大きくて、負け方によっては自社技術開発投資を回収できないばかりか、逆にライセンス料を払わなければなりません。「第2回 光ディスクの登場」で紹介したCED方式やVHD方式のビデオディスクは、フォーマット競争を市場にまで持ち込んで失敗したため、それに要した投資額がとても大きくなり、結果として会社の存続にまで影響を与えてしまいました。MMCDとSDではその教訓を活かし、戦いの中にあっても裏側では落としどころを見つける作業を行い、フォーマット統一を実現しました。戦争するにも限度があるということです。しかし、これだけの経験を積んでおきながらどうしてDVD記録では統一されなかったのか。各社ともDVDの立ち上げに手一杯だったのか、記録フォーマットはDVDの傘の下だからメインの戦いでないと見たのか、本当のところは分かりませんが、結果として三つの規格ができてしまったのです。

 DVD統一規格作成のために日米欧9社(SD側から東芝、松下電器、日立、三菱電機、日本ビクター、パイオニア、タイムワーナー、MMCD側からソニー、フィリップス)によってDVDコンソーシアムという場が作られました。DVD規格が決まった後、1997年に現在のDVDフォーラムに改組され、記録形DVDも含めて議論することになりました。DVDフォーラムは、よりオープンなディスカッションの場ということでしたが、主導権は旧SD側が握っており記録形DVDについても強い影響力を持っていました。ここで旧SD側が提案したのがDVD-RAMです。DVD-RAM規格は、高いランダムアクセス性能などコンピュータと親和性の良いのが特徴でしたが、DVDとの互換性はありませんでした。DVDフォーラムは、このDVD-RAMをDVD記録フォーマットとして採用するようフォーラムメンバーに働きかけ、紆余曲折の末1997年7月に2.6 GBのバージョン1.0が、1999年10月に4.7GBのバージョン2.0が規格化されました。これに対して旧MMCD側は、“再生フォーマットでは統一案に合意したが、記録フォーマットまでは合意していない”として一方的な決め方に反対し、またDVD-RAMがDVDとの互換性が低いことを理由に挙げて、独自フォーマットを提案しました。再び怪しげな雰囲気になってきましたが、DVDフォーラム内の第三者から折衷案が出されて統一に向けた努力が行われました。しかし、互いに譲ることができず、旧MMCD側はDVDフォーラムの外に出て新たに記録フォーマットを作ることになりました。これがDVD+RWの起源です。DVD+RWフォーマットはDVDとの互換性を重要項目と位置づけて検討を行い、2001年3月に4.7 GBのDVD+RW 2.4Xバージョン1.0を発行しました。そしてこの規格をベースに同年9月リコーから「スーパーコンボ」ドライブとしてMP-5120Aが発売されました。このときの売り文句の一つが「既存のDVDプレーヤーや、DVD-ROMドライブとの互換性は70%程度」です。この互換性は再生互換性のことを指しますが、当時DVD-RAMでは0%、DVD-RW(DVD-VRフォーマット)では「RW COMPATIBLE」マークのついた機器で再生可能となっていましたから、実際に既存のDVDプレーヤーや、DVD-ROMドライブで70%というのは画期的でした。DVD+RWフォーマットがこのときに掲げた高い互換性のコンセプトは、記録互換性においてもその後の規格にずっと反映されています。例えば、DVD+RW 2.4Xに対応した規格初期の記録装置を持っている人が、後から登場したDVD+RW 4Xのディスクを購入した場合でも、2.4Xのスピードで記録することができます。また“ロスレスリンキング”の採用により、毎日少しずつディスクに記録していってもDVDプレーヤーで再生できるなど、プラスならではの特徴を持っています。
 同じ頃、DVDフォーラムの中でもDVD-RAMとは別のDVD記録フォーマットを作ろうとする動きがありました。パイオニアが進めるDVD-Rです。DVD-Rは、CD-Rと同じくオーサリング用の位置づけでスタートし、1997年7月に3.9GBのバージョン1.0が規格化されました。2000年2月には4.7GBのバージョン2.0が規格化され、同年5月には「DVD-R for General」として汎用の規も作られました。DVDフォーラムの中で二つの記録フォーマットが許されたことについては、DVD-RAMは書き換え用として、DVD-RはDVDのオーサリング用または一回記録用として棲み分けたのだろうと推測しています。それでも1999年11月には、書き換え形のDVD−RWの規格が作られています。こうして三つの規格が存在することになり、記録装も、DVD+R/RW用、DVD-R/RW用、DVD-RAM用とそれぞれ専用のものが作られました。ユーザーから見ると互換性のない記録装置が三種類もあって、どれを選んでよいか良くわかりませんでしたが、現在ではこれら三つのフォーマットすべてに対応するスーパーマルチドライブの出現によって、ユーザーがその違いを意識しなくても済むようになっています。技術の進歩がユーザーメリットを増幅しています。

 ちょっと寄り道。この文章でよく登場する“フォーマット”と“規格”。“フォーマット”はデータ記録方式を、“規格”はディスクサイズとかレーザパワーなどの仕様を体系だったドキュメントにまとめたものという意味で用いています。

 最後になりますが、記録形DVDに関して、私のところではもう一つの動きがありました。MMCDフォーマットを開発していたエンジニアたちのその後です。彼らはフォーマット戦争が終わった後、DVDビジネスに移るわけでなく、引き続き開発部門にいて次のテーマを見つけなければなりませんでした。「よくやった」の声もかからず、それは方向の定まらないデフォーカスした日々でした。それでも徐々に活力を取り戻し、次の大容量ディスクはどんなアプリケーションがあるのか、ビジネスチャンスはいつなのか、重い腰を上げました。それにしても頭を離れないのが、基板厚0.6mmの衝撃です。まるでトラウマになってしまったようです。それなら、いっそ基板厚をぎりぎり0.1mmまで薄くし、NAも実現可能な0.85まで上げた大容量ディスクを開発すればよい。一気に究極のところまで行っておけば、それ以上のものが出てきて困ることがない。そう割り切って新しい開発に着手しました。このときの思想が現在のBDのコンセプトの源となっています。このときは、赤色レーザを使いましたが、DVD記録が普及する前にDVD-RAMやDVD-Rの2倍の容量で市場を取るというのが目標でした。もし、これが間に合っていたら、DVD記録市場で四つのフォーマットが戦っていたかも知れません。幸か不幸かDVD記録が立ち上がり始めたため、目標をDVD後のハイビジョン記録市場の確保に切り替え、世に出ることはありませんでした。光源を青色にした新フォーマットはBlu-rayと命名され、今では片面50GBの容量を実現しています。NHK風にいうなら「その時、歴史は既に動いていた」でしょうか。開発から10年以上の歳月が流れていました。

(2007年5月21日)

第8回 光ディスクのある風景 - 1

 ウォークマンは1979年7月に生まれました。街はヘッドフォンをかけたファッションであふれ、それまで屋外で音楽を聞くことなどなかった若者達の生活スタイルを変えていきました。ウォークマン人気は世界に広がり、パーソナルオーディオという人間と音楽の関わり方に新しい一面をつけ加えました。音楽の記憶媒体は、カセットテープからCD、MDに移り、今ではICメモリーにすっかり替わってしまいましたが、ウォークマンがモバイル文化の魁であることに異論はないでしょう。


 ビデオディスクという光ディスクが登場したのもこの頃です。ウォークマンが既存技術の応用で新しい用途を創造しようとしたのに対して、ビデオディスクは新技術を使ってテレビで映画を見るという既存の用途に入ろうとしました。しかし、そこにはVTRという強力なライバルがいて、期待されたほどには普及しませんでした。あってもなくてもよいという程度では、書棚にビデオディスクが並ぶという光景は実現しませんでした。

 次にCDは、デジタル記録という強力な武器を持って登場しました。その頃、オーディオファンの間では、高級機に対する憧れがありました。高級機には、一流のデザインと、カタログ仕様に記述されるワウフラッター(回転ムラ)とかS/N比などの数値が良く、何よりも価格が高いことが求められました。例えば値段が5万円高くなると、アナログレコードプレーヤーのワウフラッターが0.01%低くなるという具合に。そこにデジタル記録のCDが加わり、ワウフラッターは一気に水晶精度、S/Nも90dB以上と、同価格帯のアナログプレーヤーやカセットデッキの数値をはるかに超えてしまいました。ワウフラッターが水晶精度というのは、それを計測する測定器の基準が水晶発振器なので、測定限界以下、つまり無いといっているのと同じことになります。レコードやカセットで音楽を聴くという生活スタイルは既にあったのだけれど、高性能化というトレンドにうまく乗ってCDは普及していきました。

 私はオーディオマニアというわけではありませんが、狭い部屋に無理して詰め込んだ昔スタイルのコンポーネントステレオセットで、ちょっと気取ってクラシックやジャズを聴くというのが好きでした。鳴り物入りで登場したCDですから、CDを選ぶときは中身もそれなりにちゃんとしたものでなくてはならないと勝手に考えておりました。ベルリオーズの「幻想交響曲」とかオスカー・ピーターソンの「WE GET REQUESTES」などがそれに見合うもので、松田聖子や中森明菜はFM放送で十分だという認識でした。CDのカタログを見てもやたらとクラシックやジャズのスタンダードナンバーが多く、このころのCDは神棚に飾るような存在だったのです。

 クラシックやジャズのスタンダードナンバーのCD化が一巡したころ、J-ポップス、歌謡曲、童謡など音質をあまり気にしなくてもよいジャンルのCD化が進みました。続いて、昔LPレコードで人気のあったグループサウンズやフォーク系歌手などの復刻版(同じジャケットデザインで同じ曲目)が発売され、LPからCDへの流れが作られていきました。こうなるとあの気高きCDを慎重に選んで買うよりは、すべてCDでよいのではないかと誘惑されてしまいます。CDを高音質メディアとみるより、12センチサイズで扱い易く、リモコンで選曲できて裏返す必要がない便利なメディアと捉えたほうが自然に思えます。ごろ寝しながら聞いて寝込んでしまってもCDプレーヤーが勝手に止まってくれる、これはもう迷えませんね。とうとう「中森明菜ベスト」とか「青春のフォークソング全集」、また「TVアニメ主題歌集」などもコレクションになってしまいました。こうしてCDは神棚から書棚に移り、それは日常にありふれた光景となったのです。今ではCDも100枚を超え、そのありがたみも薄れてしまいました。

CDがパソコンの記憶媒体に採用されると、普及がさらに加速しました。安く大量に作ることができるために、それまでアプリケーションソフトの配布に使われていたフロッピーディスクに代わって用いられるようになったからです。CDに納められた音楽コンテンツは半ば永久的に価値を維持するものですが、同じCDというお皿に収められていてもパソコン用のソフトはすぐに古くなって価値を失います。バージョン1.0、1.1、… という具合に。ですから、これらを神棚に飾るという感覚はまったくありませんでした。また、パソコンソフトが入ったCDが「お試し版」と称して雑誌の裏表紙に貼り付けられるようになると、必要のない人は持っていても何の役にも立たないので捨てるしかありません。中身が違うとはいえ、神棚に飾る存在であったCDがゴミ箱に捨てられるなんて、何と言うパラダイムシフトでしょうか。

DVDが登場すると、映像を扱うメディアとして光ディスクの消費が一段と激しくなりました。気に入った映画やTV番組をDVDに残し、自分のコレクションにする方法については「ヒトシのDVD教室」で紹介されているとおりです。それで私も一生懸命DVDに保存した時期もあったのですが、その結果ディスクがあまりにも増えすぎて保管場所に困るようになって来ました。見たいDVDを探すのにも一苦労です。一方、DVDレコーダーはハードディスク付のものが主流になってきています。タイムシフトにはハードディスク、アーカイブには光ディスクというように使い分けるためです。ところが、ハードディスクの容量がどんどん大きくなってDVD 100枚分以上もあるようなものが出てくると、DVDへ保存する機会が減ってきました。ハードディスクがクラッシュすると自分のライブラリーが消失する危険はありますが、DVDへ保存する手間がなくて検索のしやすいところは便利なものです。神棚に飾る存在であった光ディスクが身近にあふれ、そしてその役割にとって代わろうとするものが登場し始めています。

(2007年8月24日)

第9回 光ディスクのある風景 - 2

 神棚に飾る存在であった光ディスクが身近にあふれ、そしてその役割にとって代わろうとするものが登場し始めています。光ディスクの時代に変化が訪れるのか。光ディスクの仲間でその役割を終えたものは、まずレーザーディスク、これはDVDに置き換わりました。次にMD、これは半導体メモリに置き換わりました。登場から10年ちょっとの寿命でした。他にも、コンピュータ用のストレージ媒体として期待されたMO(光磁気ディスク)がありますが、これは頂点を極めることなくCDやDVDに主役の座を奪われてしまいました。光ディスクの仲間同士で主役の交代があったものならまだしも、半導体メモリのように光ディスクと異なる技術で置き換えられると、光ディスクがどうなるのか心配です。2007年にはBlu-rayやHD DVDビジネスが活性化し、ハイビジョン化の波に乗って明るい兆しも見えていますが、いつまでも安穏としていられません。インターネットという巨大なメディアの時代が来ているからです。表題につけた「光ディスクのある風景」では、身の回りで光ディスクが使われている様を書くつもりでいました。昔話としてはたくさんのネタが浮かぶのですが、最近はとんと光ディスクを必要とすることが少なくなってしまいました。

 光ディスクは、ストレージメディアのカテゴリーに属しています。「メディア」とは、媒体つまり情報伝達の媒介手段となるものという意味で、CDやDVDは音楽や映画のコンテンツを私たちに届けてくれる役割を果たしています。これにストレージが合わさると、情報の媒介手段であったものが、むしろ情報を蓄積する器という意味合いを帯びてきます。音楽や映画を自分の好みに編集して保存し、好きな時に好きな場所で楽しむ、このようなイメージです。CDやDVDは、この特徴を活かして大きなビジネスに発展してきました。ところが、光ディスクの独壇場であったこれら二つの役割を、光ディスク以外のメディアで行えるようになっているのです。インターネット、ハードディスクと半導体メモリです。まずインターネット上でコンテンツを扱うサイトを探し、そこで好みの音楽や映画のタイトルを見つけます。次に購入手続きを済ませてから、指示に従ってコンテンツをパソコン上のハードディスクにダウンロードして終了です。購入したタイトルは、そのままパソコンで見たり聴いたりすることができます。また、携帯プレーヤーにコピーして持ち出すことも可能です。2007年にはダウンロードしたコンテンツをDVDに焼くサービスも始まりました。このようなビジネスモデルは以前から考えられていたのですが、近年のハードディスクと半導体メモリの容量アップ、インターネットの転送速度の向上、パソコンの処理能力の向上で可能になりました。では、今後すべてがこうなっていくかというと、そう簡単ではありません。CDやDVDは、お店で好きなものを買ってくるだけで楽しめますが、インターネットからのダウンロードの場合は、自分でパソコンやDVD記録機を揃えて、しかも購入やダウンロードの手続きまで自分で行わなければならない面倒なところがあります。1回でうまく行かない場合も当然のごとく起きるでしょうから、そんな時はいやになってしまいます。インターネットを使った情報の伝達はスピードが速いのが特徴で、例えば新聞はもっと早くインターネットを用いた閲覧に切り替わってもよいようなものですが、そうなっていません。つまり、使う側がそうしたいと思うかどうかで、普及するかしないかが決まっているのです。このように考えると、インターネットからの購入というものが、いち早く新作を見ることができるというメリットがあったとしても、すぐさま光ディスクにとって代わることはないと断言できます。あるダウンロードビジネス業者が、光ディスクビジネスの10%とることを目標にしていると言っていました。メジャーなストレージメディアとしての光ディスクの地位は当分続いていくことでしょう。

 私がいま悩んでいるのが、何故ストレージが必要なのかということです。自分が気に入ったものを残したいし、自分自身の記録も残しておきたい。でも、それは必要のないことなのかもしれない。写真はインドのあるホテルで撮影したものです。夜の帳が下りて醸し出す幽玄な雰囲気がとても印象に残っています。次回からは、少し観念的な内容に挑戦したいと思っています。

(2007年11月20日)

第10回 絵日記

 休暇を利用して実家に帰った。新幹線を使ってもドアツードアで7時間を要し、早くなったとはいえ、準備その他を入れると1日仕事に変わりはない。父が亡くなってから5年経ち、今でも一人暮らしを続ける母を元気づけるためだ。子供4人が育った家は、三回の増改築で部屋数が十にもなっており、母が一人で住むには広すぎる。使わない部屋は、父の意志もあって子供たちの持ち物を残しておくのに役立っている。母との会話は、母の日常での出来事が多く、時に私の小学校時代の同級生のお母さんの話に及んだりする。私はその同級生のことを何とか思い出そうとし、少し思いだすとまた話が進むという具合にして、母はとても楽しそうである。

 古いものを整理していて、小学校低学年の頃に夏休みの宿題で描いた絵日記帳を見つけた。私はその存在すら忘れていたものだが、母が丁寧に茶封筒に入れてしまっておいてくれたのだ。ある日、伯父さんのところに遊びに行ったときに大きなシェパードが二匹いて、オルガとブイという名前だったことが描いてあった。黒と茶の二匹の犬を眺めていると、懐かしさと共に描いてないことまでが思い出されてくる。伯父さんは自動車の修理工場を経営していて、そこには自動車がたくさんあって油の匂いがしていた。夜になると、犬たちは工場の中に放たれて番犬となるのだが、犬小屋から連れ出されて鎖を解かれる瞬間の咆哮がとても怖かった。母屋で寝るときにも、犬は外にいるのだけれど、怖くてそっと障子の隙間から廊下を覗いたりした。事務所の前には大きなドラム式の洗濯機があって、祖母がエプロン姿でたくさんの作業服を洗濯していた。工場は国道に面しており、国道からは○○モータースの看板が見える。工場脇の道を国道と反対方向に歩くと山陽本線にぶつかり、そこは伯母さんがよく汽車を見せに連れて行ってくれた場所だ。父が仕事の都合で私を置いて先に帰らなければならないとき、伯母さんは私がぐずらないようにと汽車を見せに連れ出した。伯母さんに“汽車を見にいきましょうね”と言われると、私は子供心にもお父さんが帰るのだなと察した。だが、いい子でいようと思ったのか、素直に汽車を見に連れて行ってもらった。

 次の日には、大田川に灯篭流しを見に行ったことが描いてあった。原爆で亡くなった人の霊を弔うのだ。川には赤や青の灯篭が浮かべられ、夕暮れと共にろうそくの明るさが増してゆく。川の流れに乗ってその明るさが揺れる様に思いが至ったとき、閃光が走り、その時その場にいた時と同じ雰囲気に襲われた。それは、気配、視野、肌触り、匂いすべての感覚が融合したもので、とても言葉で表現できない。まるでその時点にタイムスリップしたようだ。だが、懐かしい気分に浸れるのもほんのわずかで終わる。夢から覚めたときと同じで、もう一度思い出そうとしてもままならない。これは、記憶の錯覚ではない。思い出しているのである。たくさんのことが一瞬のうちに塊となって呼び出され、思い出に浸るという形で受け止めているのだ。

 記憶は私の中にある。私は、絵日記から伯父さんの工場や犬の記憶を呼び出した。絵日記そのものがきっかけとなったが、絵日記が記憶ではない。もし、絵日記がなかったとしたら、例えば母との会話によって同じ場面を回想できる。記憶は、私の中にあるのだ。したがって、これら「二匹の犬」と「灯篭流し」の絵は、他人には単に小学生が描いた絵に見えるだけで、上手とか下手くらいに思えても私の記憶にたどり着くことは出来ない。

(2008年2月25日)

第11回 恐ろしい夢


 晴れた日には、湾を一望でき青い海に船が浮かんでいる。湾の周囲はなだらかな山並みに囲まれ、一年を通して温和な気候に恵まれている。白い航跡と汽笛の響きに悠久な営みを感じ、時間がゆっくりと流れて行く。緩やかな坂道を下っていくと、目の前に潜水艦や軍艦が係留された海上自衛隊の基地に出る。左手に艦艇を見ながらさらに進むと、巨大なクレーンが立ち並ぶ造船所が現れる。大きなドックは、かつて戦艦大和が建造されたところだ。そんな高台にある社宅で、私は小学校1年が終わるまでの2年間を過ごした。社宅は、斜面に三段に並んだ六戸で構成されていた。一番上の段には広場があり、子供たちが集まって野球やチャンバラごっこをして遊んだ。バドミントンも教えてもらった。学校から帰ると、誰から声をかけるともなく自然に遊びの輪ができた。母親が晩ご飯に呼びに来るまでが自由な時間だ。私の家は真ん中の段にあり、庭には小さなブランコと消火用の水槽があった。年の瀬になると、その横に足踏み式の杵が組み立てられ、社宅の人が集まって餅つきを行った。あの頃、餅は正月用に飾るというよりは、冬場の大切な食べ物であった。つき立ての餅を一斗缶に入れて保存するとカビが生えにくいというので、我が家もそれに倣った。母が一斗缶を覗き込みながら「今日は何個食べるんねぇ?」と聞くと、子供たちが「2個!」、「…3個」と返す。一日一日と餅が減っていき、その白い表面に青カビが目立つようになると春がやってくる。

 私の夢の記憶は、この頃のものが一番豊かで、今でも幾つか思い出せる。
その一つ目が、“夢の中の夢”だ。ある寒い朝、弟が布団に大きな地図を描いた。その布団が物干し竿にかけられたのを見たとき、私はお兄ちゃんなのだからこんなことがあってはいけない、と思った。弟とは年子で、私はいつもお兄ちゃんというのを意識させられていた。次の朝も寒かった。私はおしっこに行きたくなって、コタツ布団から出て便所に行った。そこでおしっこを済ませようとしたとき、ちょっと待て、これは夢かもしれない、このままおしっこをすれば寝小便をしてしまう、と思いとどまった。これは夢だと強く思ったお陰で、私は目が覚めた。再び便所に入って便器をしっかりと確認した。これは間違いなく本物だ、夢ではない、さっきは危なかった。夢から覚めたことに感謝しながら、それ以上疑うことなくおしっこを思う存分堪能した。もう一度目が覚めた。私の布団に地図ができていた。しばらくは訳がわからなかった。何かの間違いで、私のせいではないかも知れない。自分の都合にいいように考えようとしたが、これは事実で言い訳のしようがなかった。母が私になんと言って布団を干したのか、私がなんと言って謝ったのかまでは覚えていない。だが、これまでの人生において、夢の中で夢を見たのはこのときだけだ。

 二つ目は、“恐ろしい夢”だ。気がつくと、私はひとりで立っている。学校からの帰りなのだろう、見慣れた道だ。だが、道が途中までしか見えなくて何かおかしい。しばらくすると日が翳り始め、私は早く家に帰らなければと焦燥感に駆られる。その不安を煽るように、あたりは見る見るうちに暗くなってゆく。私は急いで帰ろうとするのだけれど、体のほうは、どんどんどんどんと遠ざかっていく。足元はもうすっかり暗くなってしまった。歩いてきた細い道を振り返ると、遠くに町の明かりが見下ろせる。家からずいぶん離れてしまったようだ。あそこにみんながいるのだ、にぎやかな食卓があるのだ。あきらめて前に向き直ると、そこは暗がりが広がるばかりで何もない。言いようのない不安が増して行く。やがて遠くの方がほんのり明るくなり、よく見るとぼんやりした光の塊が上って来ている。何か分からないが影を連れて。影がだんだん大きくなり、その正体が現れてきた。鬼だ、たくさんの鬼だ。祭りで青竹を振り回すヤブだ。般若の顔をしたのもいる。恐ろしい形相に冷徹な目をしている。訳の分からないことを喚きながら速度を上げて近づいてくる。私にはまだ気がついていないようだが、ついに目の前までやってきた。見つかってしまったか。般若がこちらを向いた。怖い! 私はとてつもない恐怖に襲われ、どうしていいかわからない。… そこで目が覚めた。だが、金縛りにあったように動けない。どれくらい経っただろうか、夢だったことに気づき、ほっと胸をなでおろした。あらためて、あそこから脱出できたことに安堵した。この夢は不思議なことに、小学校を卒業するころまで何回か見た。一年に一〜二回くらいの割合だったと思う。何回か見るうちに、ここで日が暮れるとか、ここで鬼が現れるとか予測できるようになった。また、今晩は見るかもしれないと思いながら寝ると、そのとおりに見たこともあった。そうやっていくうちに目覚めた後の負担も軽くなり、中学校に上がる頃には、私はこの“恐ろしい夢”から解放された。

 夢の記憶も私の中にある。これら二つの夢は、ストーリーとしては上に述べたとおりだが、頭の中では、シーンの合間にもっと多くの場面が巡り、それぞれがもっとディテールを伴ったビジョンとして存在している。しかし、これらすべてを描写することは困難で、たとえできたとしても表現することで何か違ったものになってしまう気がする。それほど夢の中のビジョンは漠として脆いところがある。内証の世界だ。
 夢の記憶は「夢」というキーワードで引き出される。私は、何故こんな夢を覚えているのか真剣に考えたことはないが、夢を思い出すことは過去の自分と対話しているというふうに思っている。同じように前回投稿の『絵日記』の「二匹の犬」と「灯篭流し」においても、思い出す作業が過去の自分との対話だと思っている。そうすることによって、当時を懐かしんだり、うまくいったことを喜んだり、そうでなかったことを悔やんだりする。こうした反芻の積み重ねが、今の生き方や考え方に影響している。つまり私の中にあるこれらの記憶は、俯瞰できるもう一人の自分であり、決して忘れることがないのだ。

(2008年4月16日)

第12回 ティーブレイク

観念的な話題が二つ続いたところで、すこし休憩しよう。

2005年4月1日の通称「e-文書法」の施行に伴い、民間事業者等が行う書面の保存において、法人税法や地方税法、証券取引法など紙での保存が義務付けられていた財務関係文書などの電子保存が認められることになった。対象になるのは、取引先から受け取った見積書や注文書、契約申込書、送り状、納品書、検収書、請求書といった税務関係書類、カルテや処方箋といった医療関係書類、定款や株主総会議事録などの書類である。これらの電子保存媒体に光ディスクが適していることはいうまでもなく、JIS規格(Japanese Industrial Standards:日本工業規格)では、JIS Z6017「電子化文書の長期保存方法」の中で保存記録媒体としてCDとDVDを規定した。ここで、CDとDVDが認められた理由として、(1)膨大な電子化文書を記録できる大容量であって経済性に優れること(2)長期に安定して保存が可能なことをあげている。また、電子保存の具体的な方法や要件については、e-文書法では規定せず、文書内容の重要性や消失・改ざん・漏えいなどが発生した場合の影響の大きさなどによって、各省庁が省令によって定めている。

さて、そうなると我々としては、DVD+RWフォーマットディスクを電子保存媒体として採用してもらいたいと思うのだが、そのためには、まずDVD+RWフォーマットをJIS規格にする必要があることが分かった。DVD+RWフォーマットには、書換形のDVD+RWと追記形のDVD+R二つの規格があり、それぞれ規格書が作られている。これらの規格書には、ディスク外形や平坦度などの機械特性、反射率や屈折率などの物理特性、記録時のレーザパワーなどの電気特性が記述されていて、HP、三菱化学メディア、フィリップス、リコー、ソニー、ヤマハ(アルファベット順)の6社が発行している。規格書のことを一般にフォーマットブックあるいは単にブックと呼び、DVD+RWフォーマットでは新しい規格が決まるたびにブックが追加される仕組みになっている。例えばDVD+Rでは、2.4倍速(バージョン1.0:2001年)、4倍速(バージョン1.1:2002年)、8倍速(バージョン1.2:2003年)、16倍速(バージョン1.3:2004年)、2層2.4倍速(バージョン1.0:2004年)、2層8倍速(バージョン1.1:2005年)、2層16倍速(バージョン1.2:2006年)の7種類の規格書が発行されている。後のバージョンは、以前のバージョンの内容を包含しており、それを読めばそれまでに発行されたDVD+R規格について知ることができる。発行年からは、これらが非常に早いスピードで規格化されたことが分かる。このようにして作成される規格のことを、フォーラム規格とかコンソーシアム規格というのだそうだ。CDやDVDのように製品の立ち上がりや技術進歩が早いカテゴリーでは、必然的に民間企業が自主的に規格化活動を行うことになる。もうひとつ重要なことは、ブックは最初から英語で作成されることだ。これにより世界中のメーカーがこの規格を使って製品を作ることができる。ブックの編集作業は、フィリップスが担当している。

DVD+RWフォーマットの製品を作るためには、ここまでの規格化で十分であるが、DVD+RWフォーマットを発行する6社では、これらの規格を国際標準にするためにECMA(European Computer Manufacturers Association:欧州電子計算機工業会/ヨーロッパ各国の情報通信技術に関する標準化を取りまとめる団体)に送ることにしている。国際標準にする理由はここでは割愛するが、ここから先は、民間企業が主導する規格化ではなく、公的位置付けを有する標準化機関が行う規格化扱いになる。このようにしてできる規格をデジュール標準といい、これは明確に定められた透明・公正な手続きに基づき、広範な関係者の参加を得て策定されるため、一般的に標準化まで長期間を要する。一方、DVD+RWフォーマットのECMAでの標準化作業は、フィリップスが担当する。ヨーロッパで影響力の大きいフィリップスの提案ということで、ECMA規格として制定されるまでは数ヶ月と短いのだそうである。ECMAに登録されると、今度はISO/IEC(International Organization for Standardization:国際標準化機構 ⇒ 各国の代表的標準化機関から成る国際標準化機関で、電気及び電子技術分野を除く全産業分野(鉱工業、農業、医薬品等)に関する国際規格の作成を行っている/International Electrotechnical Commission:国際電気標準会議 ⇒ 各国の代表的標準化機関から成る国際標準化機関であり、電気及び電子技術分野の国際規格の作成を行っている)に送られる。そこではファストトラック制度により、ほとんどの場合そのままISO/IEC規格となる。ちなみに、ファストトラック制度は、ISO/IECのメンバーボディが既存の規格を国際規格案として提案できる制度で、これにより、国際規格審議が迅速化される。これ以上の国際規格は存在しないので、このISO/IEC規格にすることがDVD+RW標準化のゴールである。

ここで、話をJIS規格に戻そう。JIS規格にすることを、ここではJIS化と呼ぶことにする。一般にJISで作成される規格はデジュール標準であるが、今回のJIS化は、英語で作成されたDVD+RWフォーマット規格をJIS様式に直してJISに制定してもらうことである。規格本質部分の変更は行わず、ひたすら英語を日本語に翻訳することが大半の仕事である。日本発の規格であるのにJIS登録が最後というのも残念ではあるが、最初に日本語で規格を作ったのでは世界で広く使ってもらうに支障があるから、と言われると逆らえない。ということで、フィリップス、ソニー、三菱化学メディア、リコーから4人のメンバーが出てJIS化を行うことになった。DVD+R規格書は180ページほどのボリュームがあり、それを四つに分けて、私は附属書と呼ばれるパートを担当することになった。附属書には、規格の主体となる事柄であるが、便宜上分けたほうが説明しやすい専門用語の定義や測定法、測定装置、変換表などがまとめられており、その性格上、図表を多く含んでいる。したがって分担が決まったときは、文章が少ない分だけ楽そうに思えたのだが、実はそう甘くはなかった。

図の翻訳は、図の表題や、測定装置であればその中に描かれている部分の名称、グラフであれば目盛や線の名称など、これらすべての英語表記を日本語に直すことである。そこで、ISO/IEC規格のPDF(Portable Document Format)ファイルをベースにして、そこから図を切り出し、その上に日本語訳をかぶせることにした。細かいことをいえば、矢印の表記方法などISO/IEC規格と微妙に異なるJIS特有のものがあることがわかったが、そこまではしなくてもいいだろう、ということになりほっとした。ところが、こうして一通り作業を終えたのだが、図表がぼやけていることに気がついた。PDFを貼り付けたせいのようだ。気に入らないので、図表の作成を一から作り直そうかと思案しているところへ、フィリップスからDVD+RW規格を作成するのに使ったワードファイルが送られてきた。それで、ワード上での図の編集が可能となり、二度手間になったのだが、美しい出来映えにすることができた。

文章の翻訳は、ほとんどが説明文なのでそれほどの苦労はなかった。ただし、日本語の表現は、財団法人日本規格化協会が発行する「JIS原案作成のための手引き」の指示に従うことが求められた。例えば、“AとB"は、“A及びB"にしなさいとか、“…は,附属書C に説明されている"は、“…を,附属書C に示す"のように動詞はできるだけ能動態にすることなどである。

このようにして各自が翻訳した結果を、毎週のように江戸川橋にある光産業技術振興協会(写真)に持ち寄った。大画面に翻訳案を映し出し、皆で一字一句も見逃さない姿勢でチェックしていく。これは、非常に根気が要る作業だったが、今まで規格書の全部に目を通したことなどなかったので、疑問が解けたり、新たなことが理解できたりして、自分にとって収穫であった。そんな中、ささやかな楽しみは、光産業技術振興協会近くの香港市場という中華料理屋での昼食だった。ラーメンに、小さなチャーハンがついていたり、チャイナドレスのウエイトレスがたどたどしい日本語で応対してくれたり、リーズナブルな価格というのもうれしかった。検討作業は2006年3月に始まり、翻訳ドラフトを12月に提出した。

我々の活動には、「+フォーマット光ディスクJIS素案作成WG」という名称がつけられ、JIS制定時に規格書巻末の「解説/原案作成委員会構成表」に加えられることになった。原案作成委員会の構成を下に示すが、+フォーマット光ディスクJIS素案作成WGで作成したドラフトは、さらに四つの委員会に送られて校正作業を行い、それぞれの委員会で承認を受ける。

(1)+フォーマット光ディスクJIS素案作成WG
(2)光産業技術振興協会/光ディスク標準化委員会/フォーマット分科会
(3)光産業技術振興協会/光ディスク標準化委員会/第3メディア分科会(+R)
(4)光産業技術振興協会/光ディスク標準化委員会
(5)JSA(Japanese Standard Association:日本規格協会)
(6)JISC(Japanese Industrial Standards Committee:日本工業標準調査会/経済産業省に設置されている審議会でJISの制定を行う)

ドラフト提出後の進捗を聞いたところ、2008年夏にJISCでの審議が始まり、2008年中に発行できるかどうかという状況とのことであった。実に2年の時間がかかっている。この間、ドラフトは校正を受けて、また受けて、自分らしい表現がすっかり消えうせてしまった。かなり細かいところまでメスが入り、誰が書いたのか分からないほど没個性的な文章になった。もちろんこれでこそ、究極の客観性を持ったJIS規格書といえるのであるが。

(2008年6月13日)

第13回 出席簿

「起立! ―― 礼! ―― 着席」。学級委員の号令で授業開始の儀式が行われる。教室に緊張感が走る一瞬だ。「おはよう。えー、月曜日は酒を飲マンデー、火に水をチューズデー、水曜日に花をウエンズデー、木刀を腰にサーズデー、金曜日のおかずはフライデー、ということで、今日は6月27日のフライデー」。中学時代、畠山先生の授業はこのようなスタイルで始まり、みなの注目を一気に集めた。私のいたクラスでは理科の第一分野を担当された。とにかくすごい人気の先生だったのであるが、毎回必ずといっていいほど授業の途中で、教科書以外の話題に入り込んでいく傾向(癖)があった。宇宙に果てはあるのか、とか、時間に始まりと終わりがあるかなど、多感な中学生には聞きたくてたまらない内容で皆の興味をくすぐった。聴く側もいつ癖が出るのかと待ち構えていたところもあったのだが、先生は期待を裏切らなかった。たまに盛り上がり過ぎて、脱線しっぱなしで授業終了となることもあった。今に思えば、理科第一分野で何を習ったのかよく覚えていないが、月曜日は酒を飲マンデー、、、のフレーズだけはしっかりと大脳に焼きついている。
 「では、出席をとる。赤杉、天山、アレッコス、岩原、大田、栗野、… …、東田、前出、ブラホン、… …、ルイーザ、…」先生は、黒い表紙の出席簿を開いて左手に持ち、あいうえお順に名前を読み上げていく。男子が先でそれが終わると女子の番だったか。返事があるとそちらを向いて本人を確認し、次の名前を読み上げる。返事がないと、教室内を見渡しながらもう一回呼ぶ。それでも返事がない場合、万年筆のキャップを外して出席簿に何やら書き込んでいく。これは、出席の場合は空欄のままにして、欠席の場合は斜線を引く決まりのためであった。遅刻の場合には、先に引いた斜線にもう一本斜線を引いて×印にするか、斜線に丸をつけて欠席と区別していた。

方眼紙の一枡に引かれた斜線は、ほとんどが空欄の中で一際目立つ。集計作業のためにはそれが確認しやすい方法なのだろうが、つけられた方は、まるで悪いことをしたから見せしめにされているかのように感じる。中学生なら、悪いことをしたと言われることには非常に敏感な年頃だ。だから私は、自分の名前の欄に斜線が引かれるのはいやだと思ったし、空欄であり続けることにずいぶん意識があった。斜線の危機は何といっても朝一の点呼である。 中学生といえばちょうど身体の成長が著しい頃で、私は小学生の頃は平気だった朝をつらく感じるようになっていった。学年が上がるにつれて、夜型人間への移行も加わり、それは顕著になった。朝ごはんを食べる時間を削ってでも、もう少し布団の中にいたい。中学三年生になるころには、急いで顔を洗って着替えると、牛乳だけ飲んで学校まで走って行くというのがほぼ定着してしまった。そんなことだから、中学校に入った頃は一緒に登校していた岩原君には置いていかれる始末。岩原君は朝がつらくなかったのだろうか。一方の私は状況が悪化し、ついには、1キロもない道のりを、学校から禁止されている自転車で行かなければ間に合わない状態まで追い込まれた。学校にばれないように、学校手前の公園で自転車を乗り捨て、走って校門をくぐった。自転車は、後で母親が引き取りに来てくれた。何と自覚の足らない中学生であったと、兄弟たちにからかわれたものだ。しかし、どんな事情であろうと空欄を守った。出欠の記録は学期ごとに、授業日数とともに集計され、出席に関する記録として保存される。期末にもらう通知表にはこの結果が記載されていた。

さて、私にとって出席簿は空欄を意識させるものだったが、それにはもう一つ大きな役割があった。出会いだ。出席簿は、生徒たちを40~50人のグループに束ねる。大げさかもしれないが、どのグループに入れられるかで、その後の運命が変わる。私が通った市立中学校は、その中学校の学区にある三つの小学校の卒業生が入学する決まりになっていた。小学校では一学年三クラスの編成であったものが、中学校では八クラス編成と大規模になった。中学一年生のクラス分けは、小学校から送られた名簿をもとに作成される。出身小学校別の人数が均等になるように選ばれたようで、私が入ったクラスの半分以上が初めて会う子たちであった。最初に教室に集合したときは、私も周りの子もえらく緊張した。後に、朝一緒に登校することになる岩原君ともそこで初めて出会った。また、すごく勉強のできる奴がいて、すぐに仲良くなれたのだが、同じ参考書を買ったり、筆跡を真似するとか、ずいぶん刺激を受けた。その後、彼は種子島からロケットを飛ばしたり、インフィニティQ45の設計をやったり、普通を超えたところがあったが、今でも付き合いがある。二年生に上がるときは別のクラスになったが、そのかわり新しい出会いがあった。三年間一緒の子がいなかったのは、先生たちがそのような方針でクラス分けを行ったためであろう。その分、出会いの機会が多くなったのは確かだ。このようにして、私は三冊の出席簿で新しい出会いを経験した。

私の名前が載った出席簿が始めて作成されたのは、幼稚園に入園したときだ。近所で評判のお寺が経営する幼稚園に、親が出向いて入園の希望を伝え、それで出席簿が作成された。近所の子供たちのほとんどがそこへ通った。「名前を呼ばれた人は、大きな声でお返事しましょうね」、覚えているわけではないが、たぶんこんな光景が繰り返されたのであろう。だが、さすがにその頃の記憶は遠く、出会いがあったのかどうかはわからない。
小学校へは、4月1日に満6歳になる日本国籍を有するものが入学する制度になっている。該当する児童がいる世帯には市町村から通知があり、私立の小学校へ行くのでなければ指定された地区の小学校へ入学の希望を届け出る。私の出席簿との係わりは、必然的に満6歳になったときに住んでいた町から始まった。入学式に集まった一年生は、同じ地区に住んでいたという縁で一緒になった子たちだ。その中からさらに同じクラスで勉強を共にする子が選ばれる。クラス分けは、名前しか情報がない中では、恐らく、あいうえお順に一組から振り分けていったのだろう。あいうえお順だと、途中に一人入るか入らないかで、自分が入るクラスが変わってくる。そう考えると、この出会いは奇跡的だったのだ。それ以降の出席簿に、それが引き継がれていったのだから。
クラスでは出席簿を使って点呼が繰り返される。私の名前が珍しかったのか、初めての先生に、「これは、なんと読むんかね?」と、聞かれることが多かった。
そうだ、先生との出会いも忘れるわけにはいかない。

(2008年8月19日)

第14回 積読

新横浜駅、そこはかつてDVD+RWに情熱を燃やした兵達が降り立ったランドマークである。広々とした正面玄関口は、新開発による駅ビル建設ですっかり様変わりをし、昔の面影はない。秋分の日を少し過ぎた日の早朝、出張で大阪に出かける私は、地下鉄を降りて新横浜駅の新幹線口に入った。20分ほど早めについたので、自分が乗る列車名と座席番号を確認して待合室へ向かった。ちょうどその日は、運よく席が一つ空いており、幸先よし!とうなずいた。こういうときの心得は、われ先にダッシュするのではなく、誰かに先に座られたら仕方がないくらいの余裕をもっておくことである。つまらないことで一日の始まりにけちをつけたくないのであれば尚更だ。隣の席では、スーツ姿の男性がパソコンを開いて何やら打ち込んでいた。朝の新横浜駅で定番の風景である。寸時もパソコンが手放せないのは現代病ではないかと思うのであるが、その面倒を厭わない小まめさには感心してしまう。そんなパソコン画面の多くには、黒いフィルターが貼ってあり、横方向からは見えないようになっているのだが、隣の人のパソコンにはフィルターがなかった。私は、覗き見にならないように意識して少し反対方向に向き、持ってきた本を開いた。5分ほど経っただろうか、隣の人がパソコンを片付けて出発の準備を始めた。何気なくそちらの方向に目をやると、まるでタイミングを計ったかのようにその人と目と目が合った。「あっ! ?*@!」、「Mickさん」。もう、びっくりした。こんなピンポイントな時間にピンポイントな場所で出会うとは。ばつが悪いような悪くないような、何ともいえない間合いだった。短時間だったとはいえ、普段見せたことのない性悪な自分を見せなくて良かったという安堵の気持ちが混じった、たぶん同じ思いにお互いが照れ笑いながら、これから始まる一日について片言を交わし、私はMickさんを見送った。

テレビの今日の運勢占いでも見てくればよかったが、同じような事が続いた一日であった。その日は、仕事もうまくいき、久しぶりの達成感を味わっていた。新大阪駅でお土産を買おうと素軽い気持ちでお店をのぞくと、博覧会のごとく近郊の特産品が賑わう中、特別目立つ場所ではなかったが羊羹くらの大きさの包みが二つ並んでいるのが目に付いた。普段ならそのまま見逃すところであるが、何故か包みに呼ばれているような気がして近づいてみると、包みの表には「焼さば鮨」と書いてあった。焼さば自体は珍しくないが、鮨になったものを見るのは初めてだ。それに焼さばといえば、NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台となった福井県小浜の名産だ。改めて見ると、「焼さば鮨」の横に小さく確かに若狭小浜と添えてある。呼ばれたような気がしたのが、「ちりとてちん」を毎回見たお蔭かも知れないと思うと、買わずにはおれない気持ちになった。ところが、念のためにと日付を確認したら一日前になっている。この二つは売れ残ったものだったのだ。がっかりだ。さすがに買う気も失せて一度はそこを立ち去ってみたものの、不思議と再び引き戻されてしまった。さてどうしたものかと近くにいた店員に「昨日の日付で大丈夫か」とさしたる期待もなく尋ねてみたが、案の定「大丈夫ですよ」と定型文句が返ってきただけで、一生懸命売ろうとする気もないようだ。よりによってこんな売れ残りを、と声を上げたくなったが、とうとう買い求めてしまった。長かったように感じたが、ほんの5分くらいの出来事だった。後で、この鮨は結構人気ものらしいことが分かったが、残った一つは首尾よく誰かに買われていっただろうか。

700系は速い。乗車時間2時間17分では、車内販売の売り子が2往復したくらいの記憶しか残っていない。新幹線が新横浜駅に着くと、地下鉄のホームに向かってひたすら階段とエスカレーターを下っていく。3階から地下3階への大移動だ。ホームに着くと5分ほど待って電車が到着した。私は、乗るときの便利さより降りるときの便利さを考えて乗る車両を選ぶようにしており、前から2両目の2番扉から乗車した。空いた吊革につかまって一息入れ、今日は目的地までの15分間を何もしないで過ごそうと思っていた。その矢先に、「プラスさん、プラスさん」と弾んだ声が近づいてきた。なんと、10年前の私の上司で今年退職されて豊橋の大学へ行かれたW氏だった。単身赴任されているW氏が、週末の帰省で新横浜に立ち寄り、これも旧友のH氏と飲んだ帰りなのだそうだ。少し上機嫌のW氏は、大学での近況やH氏のことを途切れることなく語り始めた。彼の研究テーマに学生たちが興味を持ってくれるから、とてもやりがいがある。H氏も今は元気でやっているとのことだった。しだいに話が盛り上がるものだから、私もその調子に載せられて残りのエネルギー弁を開かざるを得なかった。満員というほどではないが、同じ車両に乗る多く人たちが一日の疲れを癒そうと、静かに家路に就いている。我々二人の話し声は、無関心を装うそんな人たちには耳障りだったかもしれないが、たまのことだからと心の中でお許し願った。そうこうしているうちに私が降りる駅に到着し、互いにこれからの行く末を励ましあって別れた。W氏が退職されるとの連絡を受けたとき、これから先もう会うことはないだろうと思っていたが、このようにして会ってみると、出会いということの偶然性にあらためて驚かされる。改札を出て駅の外に出ると、妻が迎えに来てくれていた。先ほどまで強く降っていた雨があがり、濡れた路面に街灯の光が滲んでいる。車窓からの景色が淡々と流れ、テールランプの赤色は、時折の信号に同期して強弱を繰り返す。色々あった一日が終わろうとしている。今日の出来事を妻にどう伝えようか。

もう子供の頃ほどの感受性はないだろうが、Mickさん、焼さば鮨、W氏は連なり、内なる記憶として残ったはずだ。いつか「焼さば鮨」を見たら、MickさんやW氏を思い出すことであろう。

次の週の日曜日、ハードディスク(HDD)に溜まった番組をディスクにダビングした。なかなかきっかけがつかめず気にはなっていたのだが、うまい具合にトリガーがかかり、レコーダー2台分を平行処理して新たにDVD+R 20枚分が私のライブラリーに加わった。レコーダーのHDDの容量が250GBもあると、こんなダビング作業は半年に一回くらいでいい。HDDの使い道は、ほとんどがタイムシフトで、見終わったものを消すようにすれば、HDDの残容量を心配する必要がない。そんな中で、ダビングは自分で永久保存版だと決めたものに対して行われる。HDDがクラッシュしてせっかくの番組がなくなってしまう危険を避けるためには、当然必要な行為だ。ところが、この自分で永久保存版と決め付けることが、業というか、厄介ものだと思っていて、ライブラリーを見直してみると、そうしなくてもよかったと思えるものが結構あったりする。例えば、車番組。メルセデスやレクサスのような高級車から、フィットやワゴンRのような大衆車までが保存されている。これらは、ちょうど車を買い替えようとしていた頃に、目を肥やそうと撮り溜めたものだ。だが、用が済んだのでもう見ることはないだろう。次に、アニメや特撮テレビドラマ。年齢を考えると少し恥ずかしいが「遊戯王デュエルモンスターズ」や「仮面ライダーキバ」などだ。ヒーロー物には、子供の頃から惹かれるものがあり、どうしてもそのまま捨てられない。ただ、これらはシリーズで揃っていても、繰り返し見るのは最終回くらいなのでほとんどのディスクが積読状態だ。それから、NHK連続テレビ小説。これもタイムシフトで見るために録画するのだが、消すタイミングを逸してそのまま置いておくと、せっかく揃ったのだから消すのがもったいないと感じて、1話も欠かさずダビングしたりする。しかし、これらは後で見ることもないから、結局積読になってしまう。

このように、ダビングした後の自分の行動を改めて観察してみると、ディスクに移したものは、もうほとんど見ないということが分かってきた。そもそも、ライブラリーとなったディスクのタイトルリストを作らないから、しばらくするとどんな番組をダビングしたのか忘れてしまっている。それに、ディスクを収める場所もまちまちなので、簡単に探せない。古いアルバムをめくるように、ディスク1枚1枚のタイトルを眺めて懐かしむ日がいつか来るのかも知れないが、そのためのダビング作業なら止めてもよさそうだ。実際、何回も見るようなものはダビングした後もHDDに残している。そのように考えると、DVD+Rのような記録形光ディスクは、永久保存用途というよりそのときの要求を満たす消費財なのだといえる。つまり、ダビングしたということで役割が済んでしまうのだ。したがって永久保存版にしたいという要求さえ持たなければ、ディスクにダビングする作業が不要になり、またそのストレスからも開放されることになる。

私は、「光ディスクのある風景-2」の最後に書いた、何故ストレージが必要かについて、もちろん一般論ではなく自分にとっての話であるが、結論が見えてきたように思う。正直言って、齢を重ねると生きてきた証として、自分自身の記録を残しておきたい気持ちが強くなってきた。写真や論文などの自分の著作物はまとめるようにしているし、カムコーダーで撮り溜めた我が子たちのビデオテープもDVD+RWに移した。好んで見たTV番組などの趣向も、ライブラリーとして増えつつある。だが、それらが自分以外の人にとってどのくらいの価値があるかに考えが及ぶと、それらの存在意義は、私が生きているということと共にあるのだろう。まして、「絵日記」「恐ろしい夢」「出席簿」で述べた内なる記憶は、自分がいなくなれば消えていくものだ。したがって、保存したいという時々の行為に対するDVD+Rは必要であっても、それに永久保存までは求めないというのが私の答えだ。

(2008年10月)

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